逃走本能
なぜか聞き覚えがあるような声だが、それを考えるよりも先に恐怖が思考を凌駕した。
じりじりと、確実に距離が縮まっていく。
障害物がないからこそ、純粋な速さのみが際立つ。
だがしかし、ルカは私というハンデを背負っているので、この集団から逃げ切るのはかなり不可能に近しかった。
みんな軽々と私を持ち上げていたから、さほど気にしていなかったけれど……私の体重が相当重いかもしれないってことよね?
主にお菓子とか、お菓子とか、お菓子のせいで……。
つまり、今の私の身体はお菓子でできていると言っても過言ではないわ!!
(――ルカよ!今すぐその辺に私を捨て置きなさい!!!)
私は彼の背中で激しく身悶えした。声にならないこの思いをすべてぶちまけるかのように。
申し訳なさと羞恥心で、今すぐにでも塵になって消え去りたいわ。
背中で繰り広げられている彼女の葛藤を余所に、ルカは前を見据えたまま、落ち着き払った声で私を呼びかけた。
「……なぁ、お嬢さん」
呼ばれた私は顔をあげて、視線だけ彼の方へと向ける。
ルカは風に負けないよう、それでいて私には聞こえる程度の大きさで語りかけた。
「――あの黒ずくめのやつらは、お嬢さんの味方……なのか? あんたを呼ぶ声がするが、なんか妙に黒っぽくて怪しいんだよな。でも俺に向かって物騒な言葉をちらほらと叫んでいるから、お嬢さんの味方の可能性が高いが、そこまでの確証ももてなくてな……。だから足を止めてきちんと確認しようにもあの状況じゃあ、それもできなさそうだよなぁ――なんせ勢いが強すぎる」
ぼそりと彼が呟いた言葉に、私は心のなかで頷きを重ねる。
その通りですわ。走るたびガシャンガシャンと鳴っている音といい、すべて勢いのせいというには、かなり圧力があって……あなたが疑うのも無理はありませんわ。
「いい加減、逃げ回るのも疲れてきたんだが……いつまで続くんだ、これ」
彼は愚痴をこぼしながらも、決して歩調を緩めず、何とか捕まらない位置のギリギリを見極めていた。
知り合いかと問われれば、知り合いの可能性が圧倒的に高い。ですけれど、私の心情的には……。
「まだ逃げていたいですわ」
――だって怖いですもの。
(※これが理由の10割である)
…………って、あらっ!?いま、私の声がでて!?
慌てて、もう一度音が出るか試そうとした、その時。
弾丸のような速度で走っていたルカの足が、唐突に止まった。
前のめりに投げ出される身体。
反射的にルカの首を強く締め付けて、放り出されないようにぎゅっとしがみつく。
それが功となしたのか、私の身体は彼の背中に胸を打ちつけ、同時に肺に溜まっていた息をすべて吐き出した。
彼が無理やり足を止めたことによって、自分のずっしりとした鉛のような重みが感じとれる。
――まさか、私が重すぎたせいで、とうとうルカの限界が来てしまったの!?
お菓子。あの時、我慢できずに口に放り込んだバターたっぷりのスコーンのせいで……。
甘い誘惑。私の欲張った一口、一口。
それらの罪が彼を苦しませることになるなんて……。
私は顔を伏せ、一人でお菓子の罪悪感に震えていた。
「――お嬢さん、お嬢さん。前を見てくれ」
焦ったようなルカの声に弾かれたように顔をあげて、彼の肩越しに前方を見据えた。
――すると、そこにいたのは見覚えのある我が家の紋章を背負った騎士。
アルベルトだ。
彼はただその場所に静かに佇んで、私たちの方を見ていた。
たったそれだけ、それだけのはずなのに、その身から溢れ出す無意識下にある本物の殺気が、こちらの肌を容赦なく苦しませていく。
彼に攻撃の意思はない。
だが武器さえ構えず無防備に立ち尽くしていることが、かえって逃げ場のなさを強調していた。
ただでさえ肩で息をしているルカは酸素を吸いこむのですら苦痛そうに、苦しげに目を細める。
「……なぁ、あいつは。あいつには心当たりあるか?お嬢さん」
必死に絞り出した彼の言葉に、私は「今こそ!」と喉に力を込めた。
さっき出せたばかりの感覚をもう一度手繰り寄せ、彼に答えを返すべく喉を震わせる。
「そりゃあ、ありますよ」
それは、マリアの唇から出たものではなかった。
用意していた言葉は綺麗にかっさわれていったのだ。
声がしたのは、私たちの後ろ。
逃げ場を完全に封じるかのように、ポン と私の肩に手が置かれる。
ああ、この馴染みのある手の感触は。
その重みが物語る絶望に、私は静かに目を閉じた。
――――皆さま、私の逃走劇。これにて終了したようです。




