貴方は誰ですの?②
睨みを利かせていた彼の唇から、言葉がこぼれる。
「……軍医長?」
若干、震えが混じったその呟きは、抱き寄せられているマリアの耳元まで、はっきりと届いた。
でも、そこにいたのは、人型を模したような黒一色で塗りつぶされた『何か』だった。
……いえ、絶対に違いますわ。
少なくともこの子は、軍医長とやらではありませんよ。エリックより小さいどころか、子供ですもの。だから軍医長、ではないはず?
マリアは、エリックの言う軍医長と会ったことがないため、確信が持てず、それを口に出すことはなかった。
その思考を遮るように、明るい子供のような、甲高い笑い声が辺りに響き渡る。
「あははっ! 見つかっちゃった、見つかっちゃった……!」
なぜかとても楽しそうに肩を震わせ、ひとしきり笑い終えると、真っ黒に染まった顔がこちらを向いた。
「……やだなぁ。そんなノアムのこと、怖い顔で睨まないでよ。すっごく、怖いお兄さんだなぁ〜」
その子――ノアムは、自分の肩を抱きかかえ、わざとらしく怯えるフリをした。
そして感情が籠っていない声で「やだなぁ、コワイコワイ」と、繰り返し言う。
白々しい演技にマリアは呆れていたが、その直後。
音もなく空中に炎が出現した。
その後ろの影には、隠しきれない悦楽が溶け出している。
この子か! あの炎を、発火させた元凶は。
すぐに納得がいったが、エリックが駆け出したため、マリアの身体は大きく揺れた。
風と一心同体になったかのような速さだが、彼の背後には無数にある炎の矢が追いかけてくる。
「まぁ、いっか! ねぇねぇ、お兄さん。ちょっとノアムと遊ぼうよ〜」
当然、エリックは答えることなく、回避することに徹し続ける。
ノアムも最初から返答を期待していないのか、それを指摘することなく。
じゃあ、いっくよー!! と、拒否権のない、元気な掛け声。
それが聞こえてくると同時に、炎の矢はたちまち一つに溶け合い、巨大な紅蓮の龍となって地面に衝突した。
待って!! 地面はまずい。だって、そこには油がッ!!! ……。
刹那、耳がイカれるほどの爆発音とともに、大量の煙が視界を埋め尽くした。
燃え盛る炎は、私たちを完全に取り囲んだ。
(死んじゃう。さすがに、これは死んじゃうわよ)
死を想像させるような火の海を前に、涙目になり、怖くなって身体が強張る。
そんな私を抱きしめて、エリックは静かに、けれど強く告げた。
「この炎を、一つだけ切り抜ける術があります。……今からそれを試しますけど、怖ければ目を閉じていてください」
(――えっ、そんな方法あるんですか!? ――ん? ちょっと待って、エリック。聞き間違えでなければ今、それを今から試すって言いませんでしたか?)
私の問いに答えるように、エリックの意思に呼応して、私たちの衣服から激しい風が吹き出していく。
ひぇっ、スカート大丈夫よね?見えていないよね?
私の焦りは最高潮へと達したが、それを彼が知っているはずはなく、エリックは「――では、行きますよ!」と宣言して、炎の断崖へと迷わず突っ込んだ。
纏った風の障壁は、彼がその一歩踏み入れるよりも早く、炎を真っ二つに割って、そのおかげで私たちが火の粉を浴びることなど一度もなかった。
肌を焼くような熱風はだんだんと遠ざかり、私たちはあの炎の地獄が遠くに見えるほどの位置まで、一気に駆け抜けていった。
「わ〜お〜……。すごいよ、エリック。ほんとに、すごすぎるわ」
(本当に、死ぬかと、思いましたよ。二度とこんな状況は経験したくないですわね。……それにしてもあんな方法で、退けられるもんなのね。でもどうやって、やったのかしら?)
エリックは足を止め、荒い息をついて腕のなかの私に視線を落とした。
「……マリアお嬢様、お怪我はありませんか?……痛いところとか、火傷など、火の粉は当たっておりませんか?」
途切れ途切れだが、切実な確認。
己の身よりも守り抜けたかどうかを最優先に確認するあたり、どこかクラウスに似た何かを感じとる。
大切にされているのは分かって嬉しい、嬉しいけれど。
どこか無理しがちな雰囲気を醸し出しているからか心配になるわ。
とりあえず私は彼の懸念を取り払うために、彼の瞳を見つめて返答した。
「ええ……大丈夫ですわよ、エリック。……貴方のおかげで……私は無事です」
エリックはその言葉を聞くと、吊り上がっていた目尻が垂れて、ようやく安堵の息を吐きだした。
強く抱きしめられていた腕も、少しずつゆとりが増え、穏やかになっていく。
だが、神様は私たちに休憩を与えてくれないらしい。
穏やかな時間は、無邪気な声によって破られた。
「わぁー、すごいねぇ〜。ほんとに、あれを避けちゃうなんて。すごい、すごい」
声がする方を見ると、そこには先ほどの『黒の何か』、――ノアムという少年?が佇んでいる。
「……あなた、何が目的です?わざわざ彼女にまで化けて……もしや、僕がそれで刃を鈍らせるとお思いなのですか?」
エリックは震えていた。
それは怖さなどではなく、行き場のない怒りが体中を駆け巡っているからだ。
それに対しマリアは、エリックの言葉を聞き、ますます疑問が深まっていった。
(んん? やっぱり違うよね。明らかにノアムという子は、エリックの言う彼女ではないわよね。ノアムはどこからどう見ても……)
考察している間にも、エリックの怒りは目に見えて増加し続けていた。
飛びかかりそうな勢いがあるが、それをしないあたり、きちんと理性が残っている証だ。
うーん。エリックに聞きたいことはあるけど、敵の前だものね。
それが、できないとなれば……方法は一つしかない。
私は思い切って喉から、声を出した。
「――あの、一つお聞きしたいことがあります」
「……お嬢様?」
エリックとノアムの視線を受け止め、もう一度口を開く。
「貴方の名前は、『ノアム』ですよね?」
その瞬間、黒一色の顔が、三日月型の空白に裂けた。




