死角
靴音が鳴る音だ。こちら側に来ている。
(まずい!!)
咄嗟に辺りを見渡したが、武器になるものは一切見当たらなかった。
あそこまで探す時間は、ない。扉が開くのが先。
ならば、扉の横に張り付いて待機し、開いた扉の陰に隠れ、隙を窺って逃げるしかない。
幸運なことに、こちら側から蝶番が見える。
つまり、扉は内開き。隠れられる。
欲を言えば、音を立てずに逃げ切りたいけれど、それは高望みというもの。
今はただ、やるしかないわ。
重い靴音が、ドアのすぐ前で止まった。
私は蝶番側に身を寄せ、開いてくる扉を両手で受け止める準備をする。
最短の動作で駆け抜けるために。
しくじれば、終わり。――いくわよ。
扉一枚を隔てた向こう側から、わずかに気配が動く。
軋んだ音を立てて扉が開き、迫りくる板が私を闇へと覆い隠していった。
その死角へ滑り込むようにして、私は完全に身を潜める。
……間に合った。
私は激しく脈打つ胸を片手で押さえ、薄暗がりの中で呼吸を殺す。
床の軋む、僅かな音。
それは、何者かが室内に踏み込んだ、確かな証。
――今だ。
私は男の背中と入れ替わるように、開いたままの扉の隙間から、まだ冷たい廊下へと滑り出す。
そのための一歩を踏み出そうとした矢先――それを見透かしたかのように男が振り返った。
暗がりの中で、男の双眸が私を射抜く。
冷たくなった汗が、一気に私の背中を駆け抜けた。
いくら護身術を嗜んでいようと、到底太刀打ちできない圧倒的な体格差。
眼前に立ちふさがるその影は、あまりに巨大で、それほどまでに、絶望的だった。
私はすべてを諦め、そっと目を閉じようとする。
けれど、瞼が落ち切るよりも早く、目の前の男が口を開いた。
「……何をして、いらっしゃるのですか。……マリアお嬢様」
その、静かで聞き覚えのある声。
たどたどしく、慣れない敬語を一生懸命に紡いだような、ぎこちない響き。
「――あ、あれ? もしかして」
彼はもしや、もしや――。
恐る恐る顔を上げ、暗がりに目を凝らす。
「アルベルト?」
そこにいたのは案の定、漆黒の甲冑に身を包んだ彼の姿だった。
「はい。アルベルトです」
彼は至極真面目に、当たり前の事実を口にした。
その一言だけで、震えていた指先から冷たい恐怖が引いていく。
代わりに込み上げてきたのは、堪えようのない可笑しさだった。
分かっている。そんなこと名乗られなくたって、分かっているのに。
「……ふふっ、アルベルトって面白い人なのね」
私が漏らした小さな笑い声に、彼は何を笑われたのか分からぬ様子で、暗がりの中、ただ困惑したように立ち尽くしていた。
「……そんなこと、初めて言われました」
そう言い切った直後、彼は何かを思い出したのか、僅かに眉を寄せた。
「……。いえ、以前にもクラウスに似たようなことを言われた……気が、します」
ポツリと付け加えられたその一言に、私はついに堪えきれなくなった。
「ふふ、あはは! もう、そこは嘘でもいいから『初めて』って言っておきなさいな!!」
私が笑い転げる中、アルベルトは神妙な面持ちで一度目を閉じ、深く頷いた。
「……。では、クラウスに言われたことは、忘れます。お嬢様が『初めて』です」
「……っ、もう! そういうことじゃないの!! ふふふっ」
本気で記憶から消そうとしているらしい彼の頑なさに、私の胸の奥は、恐怖がつけ入る隙間もないほど心が温もりで埋まっていた。
……いけない。聞きたいことがあるのだから、いい加減、笑いをおさめなくては。
さすがにこれ以上は、真面目な彼に対して失礼にあたってしまう。
私はわざとらしく一度咳払いをすると、努めて冷静な令嬢の顔を作って彼を見上げた。
「アルベルト。いくつか質問があるのだけれど宜しいかしら?」
彼は黙ったまま、暗闇に怪しく揺らめく紅の瞳で、じっと私を見つめた。
「…………承知いたしました。何なりと」
そう答えた彼は、私の手を取る代わりに、数歩先んじて椅子へと先導する。
私はその大きな背中に従うようにして、ゆっくりと腰を下ろした。
アルベルトは「失礼します」と短く断ると、机の上にあるランプの芯を指先で叩く。
ぽっと小さな火が灯り、淡いオレンジ色の灯火が、狭い部屋をゆっくりと満たしていった。
それを合図として、私はせきを切ったように問いを重ねる。
彼は静かな頷きで応じ、一つひとつ丁寧な言葉を返してくれた。
その淀みのない回答を聞いて、私は深い安堵を覚える。
流石は団長と褒めるべきかしら。こちらの聞きたい要点を、彼はすべて的確に押さえていた。
――おかげで、ようやく状況が見えてきたわ。
まず、私が眠りについた後、クラウスは無事にアルベルトと合流できたようだ。
けれど、混乱する牢獄内の指揮を副長であるクラウスに預け、アルベルト自身もまた、すぐに向かわねばならぬ場所があるという。
そのため、私の護衛はさらに引き継がれる。
アルベルトと入れ替わりでここへ来る、エリックに私の身を託すのだそうだ。
アルベルトが言うには、ここはかつて牢獄の見張りが寝泊まりしていた簡素な詰所なのだとか。
すぐ先にそびえる灯台のような建物があり、外は他の騎士たちが厳重に警備しているという。
先程は気づかなかったが、確かめるようにカーテンをめくれば、暗闇の中に漆黒の甲冑を纏った騎士たちの姿が点在していた。
……ひとまず、これならば安全かしらね。
……さて。私の方からも、伝えなければならないことが山積みだわ。
私は意を決して、今日起きた出来事を一つずつ、順を追って話し始めた。
クラウスの負傷のこと。ガルムとの遭遇のこと。襲撃者の捕獲のこと。
言葉を一つひとつ紡ぐたびに、この狭い部屋から酸素が消えていった。
アルベルトの瞳に宿る紅い光は、より深く、静かに熱を帯びていく。
だが、不意に鳴り響いたノックの音が、張り詰めていた空気をあっけなく霧散させた。
続けざまに「失礼します」との声が聞こえ、がたがたと何かに引っかかるようにして扉が開く。
――そこに立っていたのは、エリックだった。
だが、私のなかで疑問と驚愕が渦巻いていた。
だって、そんなはずはない。
私は信じられない思いで、彼の姿を凝視した。
だって、そんなはずがないのだ。
我が目を疑う私の視界には、傷一つないエリックの姿が映し出されていた。
目の前にいるのは、本当に、私の知るエリックなの?




