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人権



 吐息が肌を掠めて、心臓が跳ねる。

 私を抱きかかえる腕の力がさらに強まり、逃げ場のない熱に、私はただ翻弄されるしかなかった。


 クラウス……? 一体どうしたのかしら。

 あまりの変貌ぶりに、目の前の男が偽物なのではないかと疑いたくなる。

 

 今までに見てきた彼のどんな表情とも違っていた。

 でもこんな、とろけるような熱い眼差しを送るような人では、なかったはずだ。

 

 視界がまるで映画のように遠のき、すべてが朧げに霞んでいく。

 それなのに、私を抱く彼の温度だけは、焼き付くようにはっきりと伝わってきた。


 吸い付くように頭を包み込み、ゆっくりと髪をなぞる彼の手。

 私の髪を愛おしげに梳く彼の手を、どこか他人事のように眺めてしまう。


 じわり、と。それに侵食されるように、私の熱は内側から徐々に焦がしはじめた。

 とうとう頬にも熱を帯びはじめ、抗えばあがくほど、火照りは増していくばかり。

 

 心臓の音がうるさくなって、頭の中を真っ白に染め上げていく。

 

 クラウスは私の返答がないのをいいことに、その手を止めようとはしない。


 ……もう、だめ。

 突き上げる羞恥心の熱に殺されそうになった、その瞬間。

 私の意識を現実へと引き戻す、救いの声が届いた。


「クラウス。お前こそ、公爵の雷を食らいたいんじゃないか」


 低く、それでいて呆れたようなその声に、私の髪を弄んでいたクラウスの指がピタリと止まる。

 

 私を包み込んでいた熱い空気が緩んでいくのを体中で感じながら、私は震える呼吸を一つ吐き出した。

 ……酸素がようやく頭まで届き始めたところで、耳元から不機嫌そうな声が聞こえてくる。


「は? そんなわけないだろ。……何を言ってるんですか、ガルム」


「いや、()()()その手を離してから言えよ。説得力が皆無だ」


 ガルムの投げやりな指摘に、クラウスは無言で応じる。


「おい、無視するな。聞こえてるだろ」


なおも無視を決め込むクラウスに対し、ガルムは『やれやれ』と肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。


「……ったく、お前というやつは。……クラウス、お前さんはそれで良いんだろうけどよ、マリア嬢ちゃんはもういっぱいいっぱいなんだ。早く手を離してやれって」


「えっ? ……」


 クラウスは弾かれたように、私の髪から手を離した。

 外の空気が肌に触れて、あんなに熱かったはずの体温がさらわれていく。

 

 それなのに、彼の手があった場所だけは、名残惜しげな熱だけがいつまでも消えてはくれなかった。

 まるで――私に忘れないでほしいと、その熱が、必死に懇願しているかのように。

 

 私は火照った頬を隠すように俯き、クラウスは何かを言いかけるように口を噤んだ。


 そんな私たちの様子を眺めていたガルムが、わざとらしく一つ、大きな咳払いをした。

 その音で、ようやく周囲の時間が動き出す。


「とりあえず、嬢ちゃんの考えは分かった。で、クラウス。お前さんは結局どうするんだ?」


「そりゃあ」


 クラウスの声が響き、私は跳ねる心臓を必死に押さえながら続きを待った。


 この返答一つに、私のこれまでの努力が報われるか否かがかかっている。

 今の私はきっと、受験の合否発表を前にした受験生のような顔をしているに違いない。



 心臓の鼓動が最高潮に達した、その時。


「……そんな顔で言われて、お嬢の思いを拒めるわけないでしょ」

 

 クラウスはわざとらしく溜め息をつくと、観念したように笑った。


「……わかりましたよ。ガルム、お前の案に乗ってやる」


 クラウスの返答に、ガルムは愉快そうに笑って彼の肩を力任せに叩いた。


「はははッ! お前も素直じゃないねぇな、クラウス。……ほら、お嬢ちゃんも安心しな。このわからず屋もようやく腹を決めたようだぜ」


「誰がわからず屋だ」

 

 肩を叩かれた衝撃に顔をしかめながら、クラウスが唸るように、けれどどこか吹っ切れたような声で言い返した。

 

 賑やかな彼らのやり取りを見届け、私は安堵の溜め息とともに肩の力を抜く。


 私のプライドは儚く散ったけれど、これなら散り際も本望というもの。

 自然と頬が緩み、私は満面の笑みを浮かべていた。 


「さて。団長のもとへ向かうとしましょうか。ガルム、お前は後でな。……では、お嬢」

 

「――少々飛ばしますね」

 

 続けざまに放たれた、その丁寧な言葉の裏にある容赦のなさを敏感に感じ取り、私は優雅な微笑を顔に張り付かせたまま、心の中で悟った。

 

 ――もう、何も突っ込まないわよ。この恥ずかしい体勢のことも、安全基準を無視したこのスピードのことも。


 でも、一つだけ。

 図々しくも、一つだけ言わせていただけますかしら。


(私に、私に……人間としての、最低限の『人権』というものをくださいまし!!)


 切実な私の願いなどどこ吹く風。

 クラウスは弾むような鼻歌とともに、さらに疾走の勢いを跳ね上げた。

 私は観念して、彼の胸にそっと顔を埋める。

 

 ……何故だか、私だけが酷く負けた気分だ。

 というか、クラウス。あなた、何でそんなにご機嫌なわけ!?


(お願い……! もう少しだけでいいから、スピードダウンしてちょうだい!! あなたが抱いているのは硝子細工なの、とっても壊れやすいガラス細工なんだから!!! 少しでも衝撃を与えたら――って、きゃああああ!?)



 無慈悲な加速とともに、私の『人権』を求めた魂の叫びは、虚しく風の中に消えていった。



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