マリアの反撃
瞬く間に空気へと浸透していったが、あの大男からの応答は聞こえてこない。
クラウスの静かな憤りを前にして、それ以上マリアが声を出すことは憚られた。
ガルムへ願いが届くことを信じ、そっと瞼を閉じる。
視界を遮ってもなお、クラウスの射貫くような視線が肌を刺した。
答えを待つ沈黙は、鼓動が耳に響くほど重く、痛い。
彼の騎士にどのような理由を説明しようと、『言い訳』という言葉が頭の中をちらついて、私自身の言葉に歯止めをかけていたのだ。
だから、理由は言わない。
言うつもりもない。話したら楽になるかもだけど。
私の複雑な感情を察したのか、クラウスは一度、黙って頷き、穏やかに先を促した。
「怒らないですから、ね?」
柔らかい口調と――氷のように冷たい微笑みを湛えて。
(――絶対、怒るやつだこれ!!!)
この口調、眼差し、どこかで見たことがあると思ったら、このやり口は絶対にお父様と同じである。
似たのか、それとも似てしまうくらい怒られたことがあるのか。
よりによって、そんなところ似なくてもいいのに!
半泣き状態のマリアを助けるかのように、レイヴンを肩に担いだ状態のガルムが姿を現した。
「はははっ!! マリアお嬢ちゃんの声が聞こえてきたが……お説教中かい? クラウスも、そう怒らなくたっていいだろうさ」
「別に……。怒ってなどいませんよ」
ふいと顔をそむけて、クラウスは素っ気なくそう告げた。
そんな彼の、珍しく形勢の悪い様子を見て、私は緊張の糸がほどけた。
心の中で『助かった――! 』と深く安堵しながら、ガルムの方へと視線を向ける。
あの体躯……!
凄いわ。あんなに軽々と人を持ち上げられるなんて。
ヒヒヒ爺さんは気絶しているのか、抵抗すらしない。
まるで、ただの米袋でも担いでいるかのような無造作さ。
その肩の上で、レイヴンの手足が力なくぶらりと揺れている。
(……というか、ヒヒヒ爺さん、あんなに雑に扱われて大丈夫なのかな?)
そんな場違いな心配を胸に、私は改めて二人の会話に耳を傾けた。
「悪いな、クラウス。我輩がお嬢ちゃんに、待っている間は暇だろうから、武器でも見てみないかと勧めたんだよ」
さらなる手助けをくれたガルムに、私は心の中で手を合わせた。
後でおいしいお菓子でも差し入れようと、固く誓いながら。
けれど、それでも、不安は拭えない。
立ちはだかる相手は、あのクラウスなのだから。
(……本当に? 本当にその理屈で通るの、ガルム!?)
私は、祈るような心地でクラウスの横顔を盗み見た。
クラウスは、ぴくりとも動かない。
ただ静かに、その身に帯びた剣のごとく鋭利な眼光を真っ直ぐに向けたまま、奇妙に長い沈黙を維持している。
――終わった。それだけを、残酷なほどに確信を得てしまった。
私の瞳には、笑っているようで笑っていない彼の姿が、ありありと映し出されている。
クラウスはゆっくりと、まるで獲物の命運を品定めするかのように細く目を細めていた。
逃げ場のない視線に射すくめられ、私の背筋に冷たい汗が伝ったその時――。
喉元に形のない刃を突きつけるような、静かな声で彼は口を開いた。
「……ひとまず……ひとまず、この場では不問といたしましょうか」
クラウスの言葉にびくりびくりと震えながらも、私は心の中でぼやいた。
(だって、武器を触っていいなんて許可をもらったら、即刻オーケーしちゃうよね。今まで危ないから駄目なんて、近づくことさえ許されなかったのだから。うん、これはやはり仕方のないことだなのよ。それに触ったのは柄の部分だもの。しかもほんの、ほんの少しだけよ)
脳内で早口に言い募った不満は山ほどあったが、それを口に出す勇気など到底なかった。
「ひと段落ついたか? 済んだなら、そろそろここを移動した方がいい。明るくて見晴らしのいい場所に行かねばな」
「…………そうですね。このままここに留まるのは、危険を招きかねない。ガルムの言う通り、ここを離れましょう」
クラウスは頭を切り替えたのか、マリアに向かって「お嬢」と手を広げ、彼女が来るのを待っている。
(……さっきまであんなに怖かったのに、もう騎士モードなの!?)
驚きながらも、私は慣れた仕草でされるがままに身を任せようとした。が、そこでガルムがストップをかけた。
「おい、クラウス! お前は怪我人だろうが。マリアお嬢ちゃんはこっちに来な」
ガルムの言葉に「そういえば」と思い至り、ぴたっと私の動きが止まった。
目の前には、重傷ではないものの、確かに怪我を負っているクラウスの姿がある。
あらためて直視すれば、彼の頬には乾いた返り血がこびりつき、衣服の至る所が砂埃と泥で汚れていた。
当の本人は、ガルムの指摘に己の怪我を一瞥し、平然と言ってのける。
「怪我? ああ、これくらいなら怪我のうちには入りませんよ」
「だがな、クラウス。お前、その傷で――」
「いえ、大丈夫です。お嬢をお運びするくらい、造作もないことですから」
有無を言わせぬその口調に、ガルムは「…………はぁ」と深く、深くため息をついた。
その様子を見て、私はふと気がついてしまった。
もしかして、このままだとクラウスは、自分の治療を完全に放置するつもりなのではないだろうか、と。
もし、この考えが取り越し苦労だったとしても。今の彼を見る限り、本当にやりかねないだけの頑固さが透けて見えた。
(どうせ私も医師に診てもらう羽目になるのなら、クラウスも巻き込んでやろうかしら)
私は、先ほど彼にしてやられた恨みを、決して忘れてはいなかった。
なんなら、今さらながらに怒りがふつふつと込み上げてきたくらいだ。
私は不敵に口角を吊り上げ、逃がさないよう彼の腕をぎゅっと掴んで、クラウスへ優しく問いかけた。
「ねぇ、クラウス。これが一通り片付いたら、医師に診てもらう予定はあるのかしら?」
「いえ、特段ありませんけど……。大した怪我ではありませんので」
予想通りの答えを聞き、私は待ってましたとばかりにこう返す。
「『大した怪我ではない』……そうおっしゃいましたね? つまり、あなた自身が怪我をしている事実に変わりはありませんわ。大なり小なり、怪我は医師に診てもらわなくてはならないものなのですから」
ゆっくり、それでいてはっきりと、彼の逃げ場を塞ぐように私は告げた。
「私は今、とても悲しいです。あまりにも悲しいので、お父様のところに泣きつきに行ってまいりますわ。そしてこう言うのです。『クラウスが私のせいで怪我をしたのに、頑として医師に診てもらおうとしないのです。わたくし、責任を感じて夜も眠れません』……と。ね、どうなるか賢いクラウスなら勿論分かりますわね?」
(さあ、どう答えるのかしら? 騎士様)
私が言葉を紡いでいくごとに、みるみるとクラウスの顔が青ざめていく。
――チェックメイト。彼は今、私が敷いた盤面の上で完全に詰んでいた。




