第二話 聖杯(グラール)は乙女を守る
(さてと、どう説明しようかしら……)
フルールのあどけない寝顔を眺めながら、ローズはどこまでをどう話すか悩み始めた。
吸血鬼化を防ぐために、不老不死にした。そう言っても、まともに取り合ってくれないのは明らか。違いを理解してもらうことは難しい。
ましてや、吸血鬼の実在を知っていて、襲われもした身。しかも最初に、ローズが吸血鬼なのだと、あれだけ強く疑っていたのだから。
かといって何も言わずにおいても、遠からず気付く。また転んで膝を擦り剥いたりすれば、異常な速度で治ることで知ってしまう。しかも、治癒ではなく復元と呼ぶべき様子の変化。
(やっぱり、最初にすべてを打ち明けてしまうのが一番いい。聖杯にまつわる話を、すべて)
決意を固めると、僅かに魔力を籠めた右手を、フルールの顔の上にかざした。瞼を下ろしてあげるように左に動かし、その後ゆっくりと右に。手の動きに釣られる様にして、フルールの瞼も同時に上がった。魔術による眠りから覚め、大きな眼をパチパチと瞬かせる。
「どうかしら、気分は?」
声を掛けると、フルールの花緑青色の円らな瞳が、ローズの氷青色の瞳をまっすぐに覗き込んできた。
「お姫様? ……あれ? あたし、どうなって――」
きょとんとした様子だったフルールの顔が、血の気を失っていく。苦しそうに歪み、瞼をきつく閉じた。
「心が……闇に……。お願い、殺して。血なんて吸いたくない!」
あの時の記憶が残っていることに少々戸惑いながら、ローズはフルールの頭を優しく撫でた。
「大丈夫、大丈夫よ。私が助けたの。吸血鬼にはなってないわ」
「でも……でも……あたし、吸血鬼に噛まれて……。血が飲みたく……人を、食べたく!」
頭を抱えて身悶えるフルール。余程恐ろしいものを味わったのだろう。ローズはベッドに腰を掛けると、フルールの首の後ろに腕を回し、引き起こすようにしてその頭を抱き締めた。
「落ち着いて。それは気を失う前に見た、ただの夢。あなたはちゃんと助かったの」
荒い息を吐いていたフルールの様子が、少しずつ落ち着いていく。しばらくすると、自ら身を離して、ローズの方を見上げてきた。その瞳は、まだ困惑の色に染まっている。
ローズは努めて優し気な微笑みを浮かべつつ、亜麻色の頭を撫でた。
ふいとフルールの視線が動く。ローズの手首からぶら下がる、薔薇十字に固定された。
「これは……聖具? お姫様は、祓魔師だったの? 薔薇十字の祓魔師……聞いたことある。伝説の黒薔薇姫」
「なら話が早いわ。その私が助け――」
「殺して!」
ローズの言葉を遮るように、フルールは鋭く叫んだ。薔薇十字を掴み、懇願する眼差しで見上げてくる。
「お願い、殺して。吸血鬼として生きてくなんて嫌!」
「だから、あなたは吸血鬼になんて――」
「なら、自分でやるしかない」
フルールは何かに憑りつかれたような眼で、自分のロザリオを見つめる。
「既に穢れたこの身。どうせもう赦しなんて得られない。なら、戒律を破っても――」
握りしめたロザリオから、蒼白い魔力の刃が伸びる。フルールがそれで自分の首を刎ねてしまう前に、ローズは素手で掴んで止めた。手のひらを貫通するように、敢えて刃が出ている部分を握りしめた。
はっとした様子で、フルールが聖具の発動を解く。その瞳がローズの瞳を見上げ、ローズの手のひらに戻った。そこから垂れていく大量の朱い雫。そして既に治っている手のひら。その血に塗れた、フルールの制服。
「やっぱり……吸血鬼だったの? 黒薔薇姫は歳を取らないって、本当だったの?」
「吸いたい?」
「え?」
「この血を見て、吸いたいと思う? この匂いを嗅いで、美味しそうと感じる?」
呆然とした様子のフルールの鼻先に、傷は治ったものの血には塗れたままの自分の手のひらを突き付けた。生臭い鉄のような血の匂いを嗅がせる。フルールは小さく、そしてそれから激しく首を横に振った。
「吸血鬼とは違うのよ、私も――あなたも」
戸惑いと、そして驚きに満ちた瞳で、フルールは見上げ続ける。ローズはそれを真正面から受け止めつつ、ロザリオと、フルールの手をまとめて包み込みながら問う。
「聖杯の乙女っていうのを聞いたことある?」
ふるふると首を振って、答えの代わりとするフルール。
「まあ、そうよね。ガブリエルが勝手にそう呼ぶようになっただけだし。今のところ、私しか確認されてないから、聞いたことなくて当然」
フルールの首が右に傾いでいく。見上げたまま、可愛らしく疑問の意思を示した。
「聖杯。キリストの磔刑の時に、ロンギヌスが槍で突いたことにより流れ出た血を受けた、聖なる器。私はその力で、不老不死となってるの。今は、あなたも」
「アーサー王とか円卓の騎士が探してたってあれ? どんな病気や怪我でも、たちどころに治してしまうっていう」
ローズは満足気な微笑みを浮かべて、フルールの言葉に頷く。
「そう、その聖杯。最後の晩餐に使ったという聖杯ではなく。実際治ったでしょ、今?」
フルールはローズの手に視線を落とし、眼を丸くしながら眺める。両手で掴んで持ち上げると、あちこち向きを変えながら、完全に元通りとなっていることを確かめていた。
「吸血鬼って病気なの? 聖杯で治るの?」
意外な方向の解釈をされて、ローズは言葉に詰まる。
(どうしよう。そういうことにしておいた方が、この場は早く収まりそうだけど……)
少々悩んだ末、場合によっては永い付き合いになることも考慮して、正しい説明をすることに決めた。
「吸血鬼は、聖杯の使い方を間違えて、呪いを受けた存在」
「間違えて、使った。……お姫様は、正しく使ったの?」
「そう。同じように不老不死にはなるけれど、生きていくのに他人の生き血が必要かどうかが変わる。魂の一部を失ってしまって、自分では埋め合わせることが出来なくなったのが吸血鬼。だから、生き血と共に、他人の魂と生命力を吸い取って、霊体を維持しようとする」
フルールはまだ半信半疑の様子だった。自分の口の中に指を入れてまさぐっている。吸血鬼であれば、牙が生えてきていると思ったのだろう。
「私もないわよ?」
ローズは歯を出して笑顔を作って、牙がないことをアピールした。
「しばらくここで生活してみてはどう? あなたが最初に来た、ロンドンのローズデール城。部屋は沢山余ってるから、ここをあなたのものとして使って」
呆けた表情のまま周囲を見回すフルール。ローズも釣られてその視線を追う。建物の外観とは異なり、城という名称に似つかわしい、本物のアンティーク家具で統一された室内。今時の若い女の子の趣味には合わないかもしれないが、ローズにとっては慣れ親しんだ光景。
「まだ納得いってないみたいだけど、この先吸血衝動なんて起きないのがわかれば、信じる気になるはず。噛まれた時点で体験してたみたいだし、その時の感じを覚えてるのでしょう? もうそうじゃないのが、実感出来ると思うわ」
視線をローズの方に戻し、フルールは瞬きを繰り返した。ローズはその首にそっと手を伸ばし、ロザリオのチェーンを掴む。
「これは念のため預からせて。さっきみたいのは絶対に駄目。結界を張って敷地の外には出られないようにしてあるから、着替えとか必要なものは通販で頼んで。今夜の分は、私のを貸すわ。サイズ、合わなそうだけど」
「わかった。大事なものだから、失くしたりしないで」
素直に同意してくれたことに安心しながら、ロザリオを外す。
フルールの視線が自分の制服に落ちた。そこはローズの血液で赤黒く汚れている。その両手にも、血が付着していた。首筋の吸血鬼の噛み傷は消えているが、本人はそもそも知らなかっただろう。
「シャワーでも浴びてさっぱりしてから、寝直しなさい。着替えはその間に用意しておくわ」
そう言ってロザリオを手にローズは立ち上がった。相変わらずきょとんとした表情のままのフルールに向かって微笑んでから、扉を閉める。
廊下を歩いて自分の寝室に向かいながら、ローズは考える。
(結界、本当に張っておいた方がいいかしら? 門から出てくれればセキュリティが反応するだろうけど、夜中に起こされるのは嫌ね……)
時計の短針はとっくに天頂を過ぎており、ローズは欠伸をかみ殺しながら決めた。朝起きてからにしようと。