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聖杯を満たすは愛の色  作者: 月夜野桜
最終章 聖杯を満たすは愛の色
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第四話 聖杯を満たすは愛の色

 ほんの一秒もかからなかった。奥にある黄金の竜の像を守る結界を壊さないよう、最小威力に抑え込んだ紅白竜の火焔だけで、異形の悪魔たちは消滅した。


 後に残ったのは、邪具プロフェインによって魔力の炎を斬り裂き、何とか身を守ったラウレルのみ。それでも完全には防ぎ切れず、闇の翼は焼け落ち、全身が未だ紅白の炎に包まれている。


「あっけない。下級悪魔や堕天使なんて所詮こんなもの――」


 突然、ローズががくりと膝をつく。急激な脱力感と、意識が飛んでしまいそうなほどの激痛が襲い掛かってきた。そして、心が闇に飲まれていくような感覚。


「こ、これは……まさか……」


 地面に手をつき、身を捩るようにして何とか後ろを振り返った。視線の先にあったのは、ローズの想定通りで、しかし驚愕の光景。


 フルールが聖杯グラールを大きく傾け、ローズの血を零していた。その眼は大きく見開かれ、何かに抵抗するかのように全身が震えている。フルールの意思ではないことは明白だった。


「お、お姉様……身体が、身体がまた勝手に!!」


 よく見ると、フルールの制服の色が微妙に変わっている。単なる黒ではない。全ての光を飲み込む闇色に。


(まさか、あの制服にまで仕掛けが……)


 祓魔師教会アンダー・テンプルが魔術的な防御策を講じた戦闘服でもあるとフルールは言っていた。だから今日も着てきた。しかし、その防御魔術を施したのはガブリエル。いや、ラウレルだったのだ。


「う、うあああああっ、あたしの手、止まれー!!」


 堕天使ラウレルの力に必死に抗うフルール。しかし敵わず、徐々に聖杯グラールの角度が大きくなっていく。血が零れていくにつれ、フルールの抵抗も弱まっているように見えた。


 ローズの背筋が凍りつく。背後に邪悪な気配を感じ、振り向いたローズの目の前には、闇色に光る刃。ラウレルの顔が狂喜に歪む。


「想定外が起きた場合の保険は、掛けてあると言っただろう?」


 ゆっくりと、禍々しい凶器が持ち上げられる。ローズを一刀の下に斬り伏せようと大きく振りかぶりつつ、闇色の光を放つ刃の魔力が強くなっていく。


 そして再び響いた。愛する者の声が。


「許せ、少女よ。お前を助けるためでもある」


 ローズの背後で紅い剣閃が走る。フルールの腕を、モルドレッドのガラティーンが両断した。回転しながら落ちる聖杯グラールを、モルドレッドが右手で受け止める。この時のために、そこだけ優先して再生したのだろう。


 血が零されるのが止まると同時に、ローズを苛む苦痛と脱力感が収まった。


「ありがとう、モルドレッド。また助けられたわね」


 再び発動した赤い竜ズライグ白い竜グイベルが、ラウレルの闇色の刃を受け止める。鋭い牙の生えた顎で、いとも容易く噛み砕いた。


「こ、小癪な! ルシフェル様、再び力を!」


 邪具プロフェインを失ったラウレルは、竜の攻撃を受ける前に素早く飛び退ると、再び地の底に向かって呼び掛けた。その足元に黒い魔法陣が浮かび上がり、膨大な量の暗黒の魔力が供給されていく。


 ラウレルの姿が再び変わっていった。堕天使ではなく、異形の悪魔そのものの姿に。こめかみからは、山羊のような角が伸びていく。失った鳥のような翼の代わりに、鉤爪のついた蝙蝠のような被膜の漆黒の羽が現れた。


 吸血鬼ヴァンパイアと見紛う穢れた鋭い牙を生やした口からは、身の毛もよだつ咆哮が上がった。大気を震わせ、大地を鳴動させる。


 しかし、ローズは余裕の笑みで眺めていた。その瞳には、憐れみの色さえ浮かんでいる。


「私を殺す気なら、せめてルシフェル本人を喚び出しなさい」


 両手を合わせて前に突き出し、ローズは静かに叫ぶ。


「敢えて今知られている名前で呼ぶわ。輝く雷霆エクスカリバー


 赤い竜ズライグ白い竜グイベルが絡み合い、融合していく。そしてそれは瞬時に黄金色の光の剣と化した。雷霆の如き眩い輝きを放ちながら、ラウレルに向かって伸びていく。


 瞼を焼く光輝が収まった時には、もうラウレルの姿はなかった。神々をも殺す光の剣は、周囲に漂う穢れた魔力ごと、すべてを浄化していた。


 闇の気配が完全に消えたことを確認すると、ローズはその場に倒れ伏した。


(流石に、この状態で使うのは無理があったかも……)


 意識が遠のいていく。完全に暗転してしまう前に、太陽の如き明るく温かい声が耳に響いた。


「お姉様ー!」


 不明瞭な発音。しかし、確かにそう言っていた。


 ぐったりと地面に倒れ伏したローズの元に、フルールが聖杯グラールを咥えて駆け寄ってきた。その両腕は、肘から先がないままだった。


 ローズの目の前の地面に、フルールが聖杯を置く。


「ありがとう、フルール。これを守ってくれて。ほんの少しだけど、まだ残ってる。血を補充し直せば、きっと助かるわ」


 フルールがローズの服の首筋を咥えて、引き起こそうとする。


「ふおおおおお!」


 健気な努力に力づけられながら、ローズはなんとか半身を起こした。自分の指を噛み、血の雫を聖杯グラールへと垂らす。ほんの一滴。しかしそれは、ローズに充分な活力を与えた。


白い竜グイベル、お願い」


 右手から発動した白い竜グイベルが、ローズの左腕を噛みしだいた。溢れ出る赤い血潮が、聖杯グラールを満たしていく。


 ローズの全身に魂が帰ってきたかのように、温かく、優しい力が漲っていった。それと同時に、フルールの腕も再生していく。


「お姉様、ありがとう、助けてくれて」


 治ったばかりの両手のひらを嬉しそうに眺めながら、フルールがそう言う。


 首をゆっくりと横に振りながら、ローズは答えた。


「礼を言うのは私の方よ、フルール」


「でも、またあたしが足を引っ張っちゃった。お姉様、あのまま圧勝してたはずなのに」


 俯いてそう呟くフルールの頭に、ローズは手を伸ばす。撥ねた強情な髪の毛を優しく撫でながら、たっぷりの愛情を籠めて言う。


「そんなことないわ。すべてはあのラウレル――ガブリエルのせい。あなたは別にポンコツじゃないのよ。そうなるよう、あの聖具セイクリッドにガブリエルが細工していただけ。本当はとても有能なの。……私のパートナーに相応しいわ」


 ぱあっと花が咲いたように明るい笑顔に変わるフルール。ひしとローズに抱き付いた。


「お姉様……大好き!」


 柔らかく受け止めてあげながら、先程までラウレルがいた場所に視線を送る。


「ガブリエルは、ああなる運命だったのかもしれないわね。月桂樹ローレルの花言葉は、栄光と勝利。でも月桂樹の花となると、裏切りに変わる」


 身を引きはがし、目をぱちくりとさせてローズを見上げながら、フルールが小首を傾げて問う。


「もしかして、あたしと出逢ったから……? フルールはフランス語で花」


 頷いて肯定しながら、ローズは寂しげに零す。今までの彼の功績を思い出しながら。


「本来は、モルドレッド討伐で栄光と勝利を得るはずだったんでしょう。でも、ただの月桂樹で終わらず、花を咲かせてしまった。その結果、私だけでなく、神をも裏切ることになってしまったのね」


 完全に回復した身体を起こし、ローズは聖杯グラールを拾った。大事に胸に抱えながら、モルドレッドのところへと歩む。その後ろを、フルールが無言でついてきた。


「モルドレッド……まだ生きてるわね?」


 右腕だけ再生し、他はローズとの戦闘直後からあまり変わらない状態の、痛ましい姿をしていた。ローズは深い哀しみを湛えた瞳で見ながら、側に膝をつく。


「消滅させてくれ。俺は最初から間違っていたんだ。すべてをやり直したい」


 モルドレッドは、思慮深い色を浮かべた瞳でローズを見上げて言った。よく考えた結果であり、迷いはないように見えた。


「でも……」


「お前を避けずに、もっと早く会っていれば良かった。アーサーとのこともそうだ。お前の言うとおり、勝手に決めつけずに、彼の真意をきちんと確かめていれば、互いの気持ちを伝えあっていれば、まったく違った人生になっていたのかもしれない」


「そう思うわ。アーサーのこと本当は尊敬してたのなら、時間を掛けて誤解を解いて、一緒に理想の王国を目指せたかもしれない。殺し合う必要なんてなかったかもしれない」


 ローズはモルドレッドの身体を拾って抱きしめながら、ずっと昔から考えていた仮説を告げようとした。


「……ねえ、モルドレッド。私たちを襲ったあの騎士。あれってもしかして――」


「アーサーの指示ではなかったのだと言いたいのだな? 俺もそう思う。自分が見つけたことにして、手柄にしようとしていたのかもしれない。そう考えたほうが自然だ」


 モルドレッドの口から、同じ結論が先に飛び出た。彼もずっと悩んでいたのだとローズは知った。アーサーを殺し、虚しさを味わった後、それが何故なのか考え続けていたのだろう。


「俺の後を追わせていた自分の手の者が帰って来なかったら、当然俺が殺したのだと思うはず。そして、アーサーから疑われていると、俺が気付いたと考えるだろう。ならばその後俺を円卓の騎士として厚遇したのはおかしい。復讐のために戻ってきたと判断するはずだからな。遅くとも、ランスロット討伐の時にイングランドを任せられた時点で、気付くべきだった。疑っている相手に、そこまでの力を与えるわけがないのだから」


 その冷静な判断が、謀反を起こしてしまう前に行えていたら、どれだけ素敵なことだったかとローズは思う。きっと伝説は書き換えられていたに違いない。


「本当のところはわからないけど、論理的に考えるとそう思うわ。きっとあなたは憑りつかれてたのね、聖杯グラールの呪いに。少し血を零しただけでも、心に闇が襲ってくるもの。だから正常な判断が出来なかった」


「そうかもしれん。そしてこれからもずっとそうだ。だから、もう終わりにしてくれ。先程のアーサーの剣。あれで消滅させてくれ。本来俺はあれで死んでいるべき人間だったのだろう。アーサーと相打ちになって。どこの伝承でも、俺が生き延びたなどという話はない」


 確かにどの伝承でもそうなっている。しかし、それも当たり前のこと。誰も真実を知らなかったのだから。


「それは、あなたが姿を消したからよ……」


「運命とは、そういうものなのだ。言の葉には力がある。それは時として人の人生を狂わす。あのマーリンの予言のように」


 『五月一日に産まれた子供が、アーサーとその王国を滅ぼすだろう』


 その予言さえなければ、モルドレッドはそもそも何もしなかった。捨てられることもなかった。ローズと二人、兄妹として、どこかの貴人の家で育ったのだろう。そして騎士として、アーサーの忠実な配下となった。復讐心など抱かずに。


「モルドレッド。いえ、お兄様」


「わかっている。もう誰も恨んでなどいない。むしろ感謝すらしている。ここでお前と対峙することになったのも、そこから始まった運命なのだ。アーサーの葬られたこの場所で、すべてが終わるようになっていたのだ。お前の手によって、終わるように」


 モルドレッドの右手が、ローズの頭に回された。大きく武骨な手で、長く柔らかいローズのプラチナの髪に触れる。愛撫するかのように、優しく指を通し続けた。


「出来るならば、兄妹ではなく他人として生まれたかった。愛している、グウェンディズ。俺を殺し、生まれ変わらせてくれ。いつ地獄を出られるとも知れぬが、それまで待っていてくれ」


 すべてを終わらせる時が来た。ローズは今頃になって悟った。血眼になってモルドレッドを探したりせず、どこか消極的にしか行動していなかった理由を。手掛かりが途絶えたら、あっさりと隠遁生活に移行した理由を。ただ偶然がやってくるのを、無為に待っていた理由を。


 終わらせたくなかったのだ。どんな姿になっていても、例えその心が闇に堕ち、吸血鬼ヴァンパイアと化していても、モルドレッドに生きていて欲しかった。それを放置することが、どんなに罪深いことだと知っていても、それでも彼を生かし続けたかった。


 千五百年分の涙が、ローズの眼に浮かんできた。溢れてしまわないよう、必死に堪える。まるで聖杯グラールから血を零すのを恐れるかのように、泣いてしまうことを恐れた。


 そうしたら、止まらなくなるのがわかっていたから。モルドレッドの願いを、叶えてあげられなくなることがわかっていたから。


「わかったわ。いつまででも待ってる。聖杯グラールはそのためにあるのかもしれない。愛の花言葉を持つのは赤い薔薇。きっと血の色なのね。この薔薇の聖杯グラールは、あなたの愛を収める器。そして私の愛を……」


 ローズはモルドレッドをそっと床に横たえて立ち上がった。その眼から涙が溢れてしまわないよう、必死に氷の瞳を保って。同じ色をした瞳が、下からローズを見上げていた。たっぷりの愛情を籠めて。


「さようなら、モルドレッド。また逢う日まで」


 そっと左右の手を合わせて、僅かに黄金の竜ペンドラゴンの力を引き出した。左手に現れた赤い竜ズライグと、右手に現れた白い竜グイベルが、優しく融合する。そして黄金色の雷霆と化し、モルドレッドを葬送した。


 一瞬の輝きの後、すべてが消えていた。塵一つ残さず、モルドレッドは逝った。死出の旅路へと。


 ローズはダンテの『神曲』、『地獄篇』にある一節を思い出した。裏切り者が堕ちる地獄の最下層、氷結地獄コキュートス。その第一の円、カイーナに関する記述を。


 『アルツーの手にかかりただ一突にて胸と影とを穿たれし者も、フォカッチャーも、また頭をもて我を妨げ我に遠く』


 アルツーの手にかかった者とは、やはりモルドレッドに関する記述だったのだ。胸を穿ったのはアーサー。影を穿ったのは、そのアーサーの力を揮うローズ。


 そして、氷漬けにしたのも、ローズ。凍てつく氷の瞳で、彼を閉じ込めてしまった。


 神曲では、永遠に氷漬けとなり閉じ込められる。しかし、モルドレッドを閉じ込める氷は――


 ローズは寄り添うようにして立つ聖女の姿を見た。今にも泣き出しそうな顔で、ローズを見上げている。


「お姉様……」


 微笑みながら、フルールの頭を撫でた。その強情な撥ねた髪の毛の感触を楽しみながら。


「大丈夫よ、フルール。待つのには慣れてるから。探すのにも」


 そして温かい微笑みでフルールは返す。あの輝く太陽のような、聖女の微笑みで。


「あたしも一緒に探すよ、お兄様の生まれ変わりを。見つかるまでは、あたしがずっと側にいてあげる。きっとそのために、あたしはお姉様の眷属になったんだね。お姉様が、ひとりぼっちにならないように」


 ぎゅっと小柄な身体を抱きしめた。熱が伝わってくる。地獄の氷をも融かしていく、優しい愛が。


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