第三話 薔薇十字騎士の名に懸けて
紅い剣身が回転しながら宙を舞う。モルドレッドが投げた、魔剣ガラティーン。
「自力でなければ、至極簡単なことだったな」
「確かに、嘘は吐かなかったわね、彼は。私の魔力がなければ脆い。――借りるわよ、これ」
身体が自由になったローズは、落下してくるガラティーンを掴み取る。
「済まない、グウェンディズ。今はこれくらいしか出来ない」
「充分よ、助かったわ。血を零されて、ダメージは受けてるから。ありがとう」
ガラティーンの剣先をガブリエルに向けて、ローズは問う。絶対零度の瞳のまま。
「フルール、あなたが選んで。この熾天使ガブリエルの名を騙る男に純潔を捧げ、その子を産むか、それとも……」
その言葉を聞いたフルールの反応は、ローズの予想とまったく異なっていた。またあの聖女のような微笑みを浮かべて言う。
「あたし、聖母になるよ。ガブリエル様、あたしを抱いて」
ローズは絶句して、呆然とフルールを見つめた。
(まさか、本気で神の子が産めると思い込んでしまってるの?)
フルールの素直さが、裏目に出てしまったのかもしれない。利用されていたと知った今ですら、ガブリエルを疑うという発想は、彼女の中には存在しないのだろうか。
ガブリエルは満足そうな微笑みをフルールに向ける。その直前ローズに対しては、勝ち誇ったような顔も見せつけた。
「いい子だ、マリー=アンジュ。共にあれを封印しよう。君も苦しむかもしれないが、ギリギリまで血を零せば、無力化することが可能だ。我慢出来るね?」
「うん。一緒にやらせて。それ、めっちゃ痛いし、心が闇に染まってくの。辛いときには、自分でちょっと休めたい」
「そうだな……やりすぎて闇に堕ちてしまっても困る。加減が難しそうだ」
ガブリエルが指を鳴らすと、フルールのロザリオの光が消えた。拘束から解放されたフルールは、その場で少し身体を動かした後、心の底から安堵した表情でガブリエルに歩み寄る。
「そっと。そっとだよ?」
そう言いながら、フルールはガブリエルの手にある聖杯に右手を寄せる。その左手は、さり気なく胸元のロザリオに伸びていった。
「なっ……き、貴様!」
フルールは左手でロザリオを引きちぎって地面に捨てるとともに、素早く聖杯を奪い取っていた。一気に駆け出してローズの側に来ると、勝ち誇った顔をガブリエルに向けて言う。
「残念、嘘を吐く悪い子になっちゃったんだよ、あたし。これじゃもう、神の子なんて産めないね。それにね、あたし、どうせ産むならお姉様の子の方がいい!」
機転に感謝しつつ、フルールが差し出した聖杯の上に、ローズは左腕をかざす。右手の剣で大きく裂いて、血を満たし直した。
ローズの身体に活力が戻る。再度剣先をガブリエルに向けて宣言した。先程言うはずだった言葉を、改めて。
「薔薇十字騎士の名に懸けて、フルール、あなたを守るわ」
ガブリエルの顔が怒りに歪んでいく。琥珀色の瞳が、獰猛な肉食獣のように鋭く光った。
「愚かな……天使である僕に刃を向けるとは。――啓示の剣」
胸のロザリオを手に取ると、それはフルールの慈悲の剣と同様、魔力による刃を発生させた。黄金色に輝く光の曲刀と化していく。
「お姉様、それあたしに貸して。慣れない剣なんて怪我するよ!」
フルールは自身の手にある聖杯を差し出し、ローズの持つガラティーンと交換するよう要求してきた。ローズはそんなフルールの顔を見て、不敵に微笑む。
「慣れない? 何勘違いしてるの? 言ったでしょ、これでも騎士なの。嫌いだけれど、こっちの方が得意なのよ!」
全身に魔力を巡らせて、モルドレッドですら手を焼きそうな速度で、ローズは突撃した。
「ちぃっ!」
そのまま紅い剣閃がガブリエルを幾度も襲う。フルールのように素早く周囲を跳ねまわり、モルドレッドのように巧みな剣技で、防戦一方のガブリエルを一瞬にして追い詰めていく。
「ば、馬鹿な……人間風情がぁっ!!」
雄叫びと共に、ガブリエルの全身から黄金色の光が放たれる。その背からは光の翼が生えてきた。両手に握られた啓示の剣が、更に輝きを増す。
「うおおおおおおっ!!」
紅と黄金の閃光が幾度も交錯した。膨大な魔力同士の衝突が、大気を震わせ、黄金の竜を守る結界とも干渉して火花を散らす。
しかし、誰の眼にも結果は明らかな勝負でしかなかった。剣舞でも披露しているかのように華麗に、そして美しく舞い踊るローズに対して、ガブリエルは怒りに任せた単調な攻撃を叩きつけているだけだった。
「モルドレッド、あなたが嘆いたのもわかるわ。確かに騎士なんて、もう私たちで最後なのね」
嫌いではあったが、美しいとは思っていたガブリエルの顔が怒りで醜く歪み、余りにも滑稽な踊りを見せている。ローズは興が殺がれ、さっさと終わりにすることにした。
足を止め、剣を下ろしてガブリエルに向かって微笑む。
「やっぱりあなた、ただの下級天使ね。贋物のガブリエル。――これで終わり!」
激昂して真上から斬り付けてきたガブリエルの刃を、ローズは剣身で僅かに逸らす。そのまま相手の刃に沿わせるようにして、身体ごと自身の刃を前に押し出した。
その先にあるのは、聖具の本体。魔力を帯びて強化されているとはいえ、鍛え抜かれた魔剣の刃とは強度が違う。ローズの攻撃を受け切れずに、十字架は砕けた。
勢いを殺さずガブリエルの首筋まで刃を進め、寸止めをする。
「降伏しなさい。あなたの剣技では、私には一生勝てない」
ガブリエルの琥珀色の瞳は恐怖に震え、首筋に突き付けられた刃を凝視している。
「お、お姉様……かっこいい……惚れ直しちゃった……」
背後でフルールの恍惚とした声が聞こえる。
凍り付いて口を開くことも出来ない様子のガブリエルの瞳を、ローズは間近で覗き込んだ。
「肉体だけ滅ぼせば、天使は天界へと還るのかしら? それとも魂ごと滅ぼしてほしい?」
ガブリエルの身体が急に崩れ落ち、ローズは思わず剣を引いた。腰を抜かしたようだった。
「馬鹿な……天使であるこの僕が……人間如き相手に、このような……」
敗北を認められないようで、激しく首を振って現状を否定する。そんな哀れな姿を、ローズは冷たい瞳のまま見下ろしていた。
やがてガブリエルは天を仰ぎ、情けない声を出す。
「か、神よ、この権天使ラウレルに抗う不敬虔者たちに、神罰を!」
ローズはその言葉を聞いて、呆れたように眼を瞬きながら言った。
「やっぱり、熾天使ガブリエルだなんて、嘘だったのね。……私も勝手に勘違いさせられただけだったかしら?」
ガブリエルから自己紹介を受けた時のことを思い出してみた。ガブリエル・ローレルと名乗られ、受肉した天使だと明かされた時、確かこう訊ねた。『それ、天使としての本名?』と。
真相がわかると、ローズは声を出して笑った。
「そういうことなの。やっぱり嘘は吐いてなかったのね。ガブリエル・ローレル。姓の方が本名だったのね」
ラウレルを英語的に発音しただけ。ただそれだけのことだった。
ガブリエル改めラウレルの神への呼びかけには、何の反応もなかった。
「な、ならば、ラファエル様、この節理の輪から外れた神の敵を滅ぼすために、能天使の派遣を!」
何も起こらない。ローズは剣を下ろしたまま、その滑稽な姿を呆然と見下ろしていた。
「ミカエル様! ウリエル様! ラグエル様! ゼラキエル様! レミエル様!」
七大天使の名を叫び続けるラウレル。しかし、いずれからも反応はない。
「本物にお願いしてみたら、ガブリエル?」
ローズは可笑しそうに笑いながら提案した。
「本物のガブリエル様!」
後ろでフルールが笑いを堪えて震えているのを感じた。声を出して笑ったら失礼と思っているのだろう。真面目過ぎる性格故。
しかしそれでも何も起こらない。このラウレルが天使なのは間違いないだろう。だが彼に与えられた使命は違う。モルドレッド討伐。それ以外の困難に手を貸すわけがない。
そもそも、天使が直接降臨出来ない理由があるからこそ、人として転生するようになっている。ローズ討伐の使命を帯びた天使でもいない限り、助けはない。
「どうやら、天は望んでないようね、あなたのやろうとしてることを」
ラウレルはがくりと下を向いて項垂れた。地面に小さな染みが出来ていくのを見て、ローズは哀れと思った。まだやり直せるかもしれない。今までの彼の功績を考えれば、情けを掛けるべきだと考えた。そっと剣を床に置き、刺激しないよう、ゆっくりと近づいていく。
「神よ……あなたは僕を裏切るのか? そんな馬鹿な……」
ローズがラウレルの肩に手を掛けようとしたとき、その身体から闇のような揺らめきが立ち上がった。
「ならば、ルシフェル様。あなた様なら、僕を……」
危険を感じて、ローズは飛び退った。その目の前で、ラウレルが闇に飲まれていく。
「おおおお、この、この力は……」
天使が堕ちていく。背中の黄金色の光の翼が、闇色に染まっていく。
旧約偽典の一つ、エノク書における堕天使アザゼルについての記述をローズは思い出した。人間を地上で監視する役であるエグレーゴロイだった彼は、人間の女性と交わったために堕天使となった。
だから神も七大天使たちも、ラウレルに力を貸さなかったのだ。天使にとって人と交わることは罪。ここで手を貸し、ローズを倒したら、その後彼は禁を犯すことになる。
そして今、ラウレルは別の理由で堕天使となってしまった。力を貸さぬ神に失望し、恨みを向け、裏切った。堕天使の長、ルシフェルの助力を仰ぐことで。自ら選んだのだ、この結末を。
「くっ!」
ローズが拾ったばかりのガラティーンが弾き飛ばされた。すべての光を飲み込む、漆黒の闇色の刃に変わったラウレルの聖具が、何処からともなく襲い掛かってきて。
更に距離を取り、フルールの側まで退がったローズの前で、ゆらりとラウレルが立ち上がる。漆黒の闇の翼を背に、全身を穢れた魔力で包んで。
どこかへ飛んでいったガラティーンが音を立てた。その位置は、遥か後方の通路の壁であったように感じる。
穢れた魔力によって変質したラウレルの聖具。いや、既に邪具とでも呼んだ方が良い漆黒の刃が、ラウレルの手元へと勝手に戻っていく。
「出でよ、我がしもべたちよ」
その口から恐ろしい響きの言葉が漏れた。何もない地面に黒い魔法陣が浮かび上がり、数多の異形の姿が顔を出す。
「悪魔召喚……完全に堕ちたのね……」
「ど、どうするの、お姉様?」
今にも泣き出しそうなほど不安気な顔で見上げ、フルールが問う。ローズはその手を引き一緒に後ずさりしながら、洞窟の空間の広さを見て考えた。
「うまく抑えられるかしら? 仕掛けがあると疑いつつも、敢えて赤薔薇と白薔薇を使ってたのは、こういう場所では使いにくいからなのよね」
這い出てくる下級悪魔たちの数と、ラウレルから感じる闇の深さを見るに、後退してガラティーンを拾ってきても、苦戦どころでは済まない。手段を択んでいる余裕はなさそうだった。
「歴史資産を破壊してしまうかもしれないのは忍びないけど、堕天使退治なら許されるわよね?」
「破壊!? お姉様、一体何をするの?」
眼を見開いて問い質すフルールに向かって、ローズは真剣な視線を向けた。
「モルドレッドを連れて外へ。ここにいたら、生き埋めになるかもしれない」
「でも、お姉様を置いてなんて!」
激しい拒否反応を示して、フルールは首を振る。ローズは亜麻色の頭を優しく撫でながら言った。
「駄目よ。あなたの聖具は、仮に拾えても使えない。また操られるわ。さっきの銃も、もう弾がないでしょ? 聖杯とモルドレッドをお願い。私が守りたいもの、わかるわよね? あなたはそれを守って」
下級悪魔たちは魔法陣を潜り抜け、完全にこちらの世界に移動し終わっている。フルールがちらりと一瞥した。モルドレッドまでの距離は、もういくらもない。
「わかった! お姉様はあたしを、あたしはお姉様とその想いを守る!」
フルールは自慢の脚で悪魔たちよりも先にモルドレッドの元に辿り着き、肩に担ぎ上げて走り出す。
その姿が消えた通路の前に立ちふさがり、ローズは不敵な表情で両手を差し出した。襲い掛かる悪魔の集団に向かって。
「赤い竜、白い竜、久々に出番よ。洞窟は破壊しないでね!」
ローズの左手からはウェールズの赤い竜・ズライグ、右手からは白い竜・グイベルの頭が飛び出す。魔力の咆哮を上げつつ、一気に全身を引きずり出した。巨大な二頭の竜が、洞窟の狭い空間に身を屈めるようにして現れる。
「喰らい尽くせ、黄金の竜!」
命令と共に、奥にある黄金の竜の像が真紅に輝いた。紅白の竜が、紅白の炎を吐きつつ襲い掛かる。このブリタニアの地の守護神たる、偉大なる騎士王の力が。