表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖杯を満たすは愛の色  作者: 月夜野桜
最終章 聖杯を満たすは愛の色
21/25

第一話 天使の計画

 ローズの氷の瞳の温度が急速に下がっていく。絶対零度に凍てついた視線でフルールを睨み付けた。しかし、それを見返す花緑青色エメラルドグリーンの瞳は、意外にも優しさに溢れていた。


「そう、思ってたんだ。……でも過去形」


「過去形……?」


「それが、ガブリエル様からの命令だったんだ。あたしの目的はこれだったの。元々これを手に入れるために、ガブリエル様の依頼で近付いたの。――お姉様、ごめんなさい」


 フルールはそう言って深く頭を下げる。再び上げた顔は、また聖女のような微笑に戻っていた。


「これはやっぱり、お姉様が使って。色々考えてみたんだけどね、あたし騙されてた気がするんだ。これ奪ったらお姉様が吸血鬼ヴァンパイアになっちゃうとか、ガブリエル様、言ってなかったもん。あたし、自分だけならいいけど、お姉様を吸血鬼ヴァンパイアにしてまでイエス様を復活させるなんて、反対。だから、返すね」


 そう言ってフルールは、両手で聖杯グラールを差し出した。ローズは小さく溜息を吐いてから、安堵の微笑を浮かべる。


「そう、ありがとう、フルール。裏切られたのかと思って、びっくりしたわ」


「えへへー、いつも騙されてばっかりだから、お返し!」


 フルールはいつもの明るい笑顔で元気に宣う。


 なのにフルールはその場を動こうとしない。それどころか、むしろまた一歩一歩後ずさりしていく。


「あれ? あれ?」


「どうしたの、フルール? まだ私をからかってるの?」


「違う! 違うの! あたしは返したいんだけど!」


 フルールの花緑青色エメラルドグリーンの瞳は、戸惑いと恐怖に染まっていった。


「身体が、身体が勝手に動いてる! 信じて、返そうとしてるんだけど、ほんとに勝手に!」


「フルール!」


 ローズは飛び出した。視線の先には、フルールが首に掛けた聖具セイクリッドのロザリオが放つ光。仕掛けは、もう一つあったのだ。恐らくこの時のために。


 全身にありったけの魔力を流し、最大限の身体強化をして、瞬時に奪い返すつもりだった。しかしそれは、逆に縛めと化し、ローズを拘束した。


「これは……やっぱり、私のにも……」


 両手の薔薇十字のブレスレットの鎖が伸びる。強い魔力を纏ったまま急速に変形し、ローズの身体に巻き付いていった。痛いほどにギリギリと、全身を締め付けてくる。


 唯一自由な首を左に巡らせる。その視線の先には、不敵な笑みを浮かべる天使の姿があった。


「ご苦労、マリー=アンジュ。君のおかげで、やっと見つけたよ。まさか身体に埋め込んでいたとは……。巧妙な結界で隠蔽もしてあったようだし、流石に気付かなかった」


 琥珀色アンバーの瞳を、ローズの凍てついた氷青色アイスブルーの瞳が睨み据える。


「ガブリエル、随分と来るのが遅いと思ったら、こういうことだったのね?」


 フルールも首だけは自由になるのか、斜め後ろから近づいてくるガブリエルの方を向いて、叫ぶようにして問い詰めた。


「どういうこと、ガブリエル様!? 聞いてたのと話ぜんぜん違うし、これは一体何なの!?」


 ガブリエルは何も答えずフルールに近付き、その手から聖杯グラールを奪った。何歩か下がって距離を取ってから、心外そうな表情を浮かべて口を開く。


「僕は誰にも嘘は吐いていない。本当のことを全部は言わなかっただけさ」


「返して! ガブリエル様、それを返して!」


 歯を食いしばるようにして、フルールは必死に束縛に抗い動こうとしている。しかし、天使であるガブリエルの作った聖具セイクリッドの仕掛けには、敵わないのだろう。身を震わせるだけで、それ以上の動きは出来ていなかった。


 再び絶対零度に下がった氷の瞳をローズは向ける。それによってガブリエルを凍てつかせ、動きを縛り付けるかのようにして。


「ガブリエル、あなたこの子の素直さと信心深さを利用したのね? 言わなかった事実は、存在しないと思い込むことを期待したのね? 聖杯グラールには私の血が満たされてると言わなければ、聖杯グラールは空だと考えると。それを零したら私が呪われると言わなければ、零しても大丈夫だと考えると。そう思ったのね?」


 ガブリエルは聖杯を両手で持ったまま、器用に肩だけを竦めてみせた。


「彼女が勝手に勘違いしたことだ。僕は嘘は吐いていないし、騙してもいない」


「私のこの聖具セイクリッドにも、細工などしてないとは言ってない。そう言うのね?」


「訊かれなかったからね」


 確かに訊いてはいない。フルールの聖具セイクリッドへの細工の話を聞いた時、自分にも気付かないような仕掛けを作ることが出来るのなら、自身の両手の聖具セイクリッドにも同じことが可能とは思った。


 それでもローズはガブリエルを信用していた。受け取ってから既に十数年。その間、彼はモルドレッドを追って真摯に働いていた。だから、自分を陥れるための細工を、そんな以前からしてなどいないと、考えたかった。嘘が吐けない彼に疑いの言葉を向けることで、これまでに築いてきた信頼関係が崩れることを恐れた。


(甘かった……天使の束縛故、嘘は吐けないけど、代わりに本当のことも言わない人間だと知ってたのに……)


 とはいえ、ローズにとっては想定範囲内の出来事ともいえる。疑いが発生した時点で外さなかったのは、仮に細工がされていても、どうにでも出来る自信があったから。


 ローズは小さく溜息を吐いてから、一旦怒りの矛を収めてガブリエルの真意を問う。


「まあ、そのことはもういいわ。それで、あなたは初めから聖杯グラールが目的で、私に近付いてきたの? モルドレッドをエサにすれば、食いつくと思って?」


 ガブリエルはローズの背後の地面を一瞥してから言う。


「そこに転がっているのは、本物のモルドレッドなのだろう? ならば答えはわかるはずだ。君を釣るためだけに、僕が意のままに操れるような存在かね、それは?」


 天使は嘘を吐けない。ならば、確かにそうなのだろう。彼が操っていたのであれば、モルドレッド討伐が使命というのが、嘘になってしまう。嘘を吐けないということ自体が嘘でなければ、だが。


「そう。なら聖杯グラールが欲しくなったのは、後からのことなのね。それならどうして、聖具セイクリッドに細工なんてしておいたの?」


「あらゆる事態を想定し、事前に手を打っておく。それくらいのリスクマネジメントは出来るよ、僕は。二人の関係を考えると、君が僕の敵に回らない保証はない。使うことはないと思っていたが、当初の想定外の事態で役に立ったようだ」


 想定外の事態。ならやはり聖杯グラールを奪うための仕掛けではなかったということ。どこかでガブリエルが翻意するような何かが起きた。


 ローズはまだ必死に抗い歯を食いしばったままのフルールを見た。


(私がフルールを助けたことか、それとも彼女との出逢いそのものがきっかけか……)


「とはいえ、私が想いを遂げるのをずっと待っててくれたというわけではなさそうね。私が何かの理由で聖杯グラールを取り出すタイミングをずっと待っていた、というところかしら?」


「想いは遂げさせてあげるさ。これを使うには必要なことだ」


 ガブリエルはそう言って、聖杯グラールを保護する結界を指一本で弾き飛ばした。天使である彼にとっては、造作もないことのようだった。そのまま蓋を開けて、ゆっくりと傾けていく。


「やめて! ガブリエル様、やめて!」


 フルールの制止の声が響く。しかし、ガブリエルの手は止まらず、一滴の血が零れた。重力に引かれて、地面へと落ちていく。


「くっ……」


 ローズの全身に激痛が走る。本来ならばとっくに塵と化している身体。血を零されて不死性を失っていくにつれ、本来の状態に戻ろうとする力が働く。すべてを零したとしても、瞬時に塵と化してしまうことはないとローズは踏んでいるが、試したわけではないのでわからない。


「やめて! お願い、やめてってば!」


 なおもフルールが叫ぶが、ガブリエルは止まらない。ぽたり、ぽたりと、聖杯グラールからローズの血を少しずつ零していく。それで何が起こるのか、慎重に反応を見極めるようにして。


「ふむ……聖杯グラールに満たした血を零すと、呪いを受けて吸血鬼ヴァンパイアになるという話は本当のようだ。血と共に零した魂が拡散していっている」


 ローズは激痛と、襲い掛かる闇からの誘いに耐えながら、ガブリエルを睨み付けた。


「私を吸血鬼ヴァンパイアに堕とす気? それとも、そのまま塵と化すことを期待してるのかしら?」


「心配しなくていい。私の見立てでは、塵になってしまうことはない。君の本体に残っている魂の方は、特に変化していないからね」


「質問に半分しか答えてないんだけど?」


 ガブリエルはニヤリと笑うと、今度は正直に質問に答えた。


「済まないが、君にも吸血鬼ヴァンパイアになってもらうよ。この聖杯グラールに満たすべきは、神の子の血だ。君の血は必要ない」


 そう告げると、ガブリエルは大きく聖杯グラールを傾け、まとめて血を零した。


「ぐっ、ああああああ!」


 フルールの悲鳴が木霊し、ガブリエルは慌てた様子で聖杯グラールを元に戻した。その眼は大きく見開かれ、ゆっくりとフルールの方を振り向く。


 彼女も苦しんでいた。ローズと同じ激痛と、闇に染まっていく心に苛まれているのだろう。


「『あらゆる事態を想定し、事前に手を打っておく』。あなたさっき、そう言ってたわよね? 出来てないじゃない。その驚きよう、これは想定外の事態じゃないの?」


 フルールの様子と、手元の聖杯を交互に見比べ、ガブリエルは事態の把握に努めているようだった。


「もっと前にこうも言ってたわよね? 私とその子は、吸血鬼ヴァンパイアとまったく同じ仕組みだって。やっぱりその子も同時に呪いを受けるみたいよ。いいの、それで? あなたにとって余程大事な存在じゃないの、その子は? 神の子の血を引く、フルールは?」


 落ち着きを取り戻した様子で、ガブリエルはローズの方に向き直した。そして、興味なさそうな表情に変わって言う。


「本人を復活させるんだ。もう遠い子孫になど用はない」


 ガブリエルの答えを、ローズは鼻で嗤う。挑発するように、敢えて余裕の笑みで、半眼で見上げながら言う。


「させられると思ってるの? 保存してあるの? 二千年前の血を? 生き血のまま?」


「キリストの墓は、レンヌ・ル・シャトーにある。本物であることを確認済みだ」


「答えになってないわ。墓に血が保存してあったのかどうか聞いてるのよ? 存在するのは、遺骨かミイラ化した遺骸だけじゃないの? それで聖杯グラールが使えるとでも? 聖杯グラールに満たすべきは生き血。そこに含まれる魂の欠片。それ以外では機能しない」


 これも想定外の事態なのだろう。ガブリエルは明らかな戸惑いを見せた。天使とはいえ、聖杯グラールの詳細は知らないのだ。


 ガブリエルが神から与えられた使命は、モルドレッド討伐。必要な知識は覚醒の際に与えられたようだが、関係のないところまでは教わっていないのだろう。


「……実際に試してみて、そう言っているのかね?」


 疑わし気な目付きで、ガブリエルが問う。ローズは馬鹿にしたように呆れ顔で返した。


「愚問ね。一つしかないのに、どうやって試せると?」


「ならば……」


「でも血を満たし続けるのが条件だと、はっきり聞いてるわ。それに、論理的に考えれば、どちらにしろ出来ないとわかる。それはキリストの聖なる血を受けて、聖杯グラールとしての機能を得たのよ。なら、キリスト本人には使えないのではないかしら? あるいは二度目はない」


「それこそ、試してみたことがあるわけない」


 ローズの喉から抑えた笑いが漏れる。堪えきれずに、あまりの可笑しさに声を出して嗤った。


「私は試してない。でも誰かが試してみた」


「その話も、アリマタヤのヨセフの子孫に伝わっていたのかね?」


「聞かなくたってわかるでしょ。キリストが復活した後、四十日後に昇天してしまったのは何故? その聖杯グラールから血を零してしまったからじゃないの? あなた、その目で遺骸を確認してきたのよね? 本物だったのよね?」


吸血鬼ヴァンパイアにはなっていなかったぞ?」


 その返答を聞いて、ローズは大げさに溜息を吐いた。論点はそこではない。


「遺骸が残ってるってことは、福音書にあるように肉体ごと天に昇って消えてしまったのではないということ。即座にミイラ化はしない。直後には血があったはず。それで試さなかったわけがない。アリマタヤのヨセフたちが、その聖杯グラールを満たし直さなかったわけがない」


 ガブリエルはしばし無言でローズの瞳を見つめ続け、考える素振りを見せた後、小さく頷いた。


「なるほど、一理ある。アリマタヤのヨセフたちが、そこまで聖杯グラールの機能の詳細を知り得ていたとは思えないが、試してみるには色々とリスクが大きいことは確かだ」


「その程度のことに思い至らないなんて、あなた熾天使セラフのガブリエルだなんて、詐称ね? 確かに天使ではあるようだけど、きっともっと下級の名もなき天使」


 嘲りの笑みで挑発すると、ガブリエルは琥珀色アンバーの瞳に炎を宿し、ローズを強く睨み付けた。


「人間風情がこの僕を侮るな。当然織り込み済みだ。聖杯グラールでキリスト自身を復活させられないというのは、確かに想定外だ。試してみるだけで、このマリーが吸血鬼ヴァンパイアになってしまうことも」


「全然想定出来てないじゃない」


「想定外の内容は想定出来ない。しかし、その想定外が起きた場合の保険は掛けてあるということだ。だから、それを用意出来るまでは、君に手を出さなかったんだ」


 ローズの眉がひそめられる。答えはある程度予測出来ている。しかし、保険としてあてにする根拠がわからない。


「保険って何?」


 そのローズの問いに対して、ガブリエルはお返しとばかりに鼻で嗤った。


「はん、わからないのか? 聖杯グラールで神の子を復活させられないのなら、新たなる神の子を産み出せばいい」


 そしてフルールに向かって手を横に振り、お披露目会のように自慢げに微笑む。


「そのために用意されたのが、このマリー=アンジュ・ダルコ。新たなる聖母となる女性だ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ