第五話 彼女たちの真意
「お姉様!」
フルールの聖具に強い魔力が宿る。蒼白い刃がモルドレッドに振るわれる前に、ローズは手で制した。
「いいの。お兄様には吸う権利がある。私の血だけは、吸う権利があるのよ」
魂ごと消滅しそうなほど弱ったモルドレッドに、ローズの身体から吸い取られた生命力が、少しずつ、少しずつ補充されていく。
「どういうことなの? さっき言ってた、お姉様のために間違えたっていうやつ?」
振り上げた聖具はそのままに、フルールが困惑した表情で問う。
ローズはモルドレッドの身体をぎゅっと抱きしめた。彼の生命が保たれるようにと、強く願いながら。そして静かに口を開く。
「そう。お兄様はきっと知らなかったの。聖杯から血を零してしまうと、呪いを受けて吸血鬼になるって。血と共に聖杯に預けた魂を捨ててしまうことになるから、魂が欠けたアンデッドに近い存在になってしまうって」
しばし沈黙が流れる。絶句していたフルールが、やっとの様子で、ゆっくりと確認するように声を出した。
「聖杯から血を零すと……吸血鬼になるの?」
「ええ。聖杯の血は、満たしたままにしなくてはならない。少しでも零すと不死性を失っていく。実際に試してみたことがあるの。すべて零す前に満たしなおせば、また完全な不老不死に戻る」
「待って、待ってよ! じゃあ、今聖杯には、お姉様の血が?」
ローズの前に膝をつき、顔を覗き込むようにしてフルールが問う。
「大丈夫よ。きちんと封印してあるわ。お兄様のようにはなりたくなかったから」
いやいやをするように首を振りながら、フルールが大きな声を出す。
「そんな……そんな話、聞いてない!」
「そこまでは話してないもの、あなたには」
落ち着いた調子でローズは答える。だがフルールは困惑した瞳で見上げながら更に問う。
「それ間違いないの? 本当のことなの?」
「本当よ。聖杯の守り人から聞いたの。あの時にはまだ私も知らなかったけど」
モルドレッドの身体を抱きしめつつ、ローズは瞼を閉じて当時の光景を思い出す。最後にモルドレッドと会ったあの日のことを。
「お兄様がここに聖杯を探しに来たとき、私はこっそりついてきたの。育ての親である守り人に、入ってはならないと散々言われてたのに、お兄様がここに続く入り口へと向かったから。そしてその後を尾けるかのように、もう一人、入っていったから」
今思えば、そこから歯車が狂い始めた気がする。モルドレッドを心配してついていったはずなのに、逆に彼を窮地に陥れてしまったのだから。
「聖杯を見つけると、お兄様は自分の血で満たした。聖杯の力を得て、アーサーに復讐するためだと私は思ってた。でも本当は、アーサーのために、先に自分の身体で試しただけだったようね」
「それで……どうして、吸血鬼に?」
「その行動が、後を尾けてきてたアーサーの手の者にとって、裏切りに見えたのでしょう。その騎士は、私を人質に取った。聖杯を渡せと、お兄様に迫った」
あの時の恐怖と、間近に迫った死の感覚が、ローズの全身に蘇る。それを和らげたくて、モルドレッドの身体を更に強く抱きしめた。
「お兄様は、躊躇なく聖杯を渡したわ。でも約束は守られなかった。二人とも斬り伏せられた。お兄様は不老不死になってたから、すぐに復活して返り討ちにした。でも、私はもう瀕死だったの」
「じゃあ……モルドレッドは、もしかして……」
「ええ、自らすべての血を零したの。自分が再生したことで、聖杯の力を確信していたのでしょうね。私を助けるために、聖杯を空にした。そして代わりに私の血で満たしなおした。知らなかったのでしょう、お兄様は。決して零してはならないと」
フルールの嗚咽の声が聞こえた。その後に起こった悲劇を、想像したのだろう。
「お兄様のおかげで私は不老不死になり、生命を繋ぎとめた。でもお兄様は呪いを受けた。すぐに吸血鬼と化してしまった」
モルドレッドが初めて血を吸ったときの記憶が蘇る。まだ息のあったアーサーの手の者の血を啜り、肉をも喰らった凄惨な光景が。
「だから、すべて私のせいなの。お兄様が呪われたのも、神の敵である吸血鬼として追われ続けたのも、身を守るために眷属を増やし、人々を殺めたのも、すべてが私の罪」
モルドレッドが血を吸う速度が速くなってきた。牙を突き立て、自然と溢れてきた血を舐めとるだけでなく、自ら吸引するようにして、文字通り血を吸い始めてきた。
「私は、もう一度お兄様にチャンスをあげたい。お兄様はまだ生きてる。この身体にはまだ血が流れてる。――もう一度お兄様の血で聖杯を満たしなおせば、呪いが解けるかもしれない。そう思ってずっと探してたの」
決断の時が来た。危険とわかっていてフルールを連れてきたのは、この時のため。何の因果か、自分だけの問題ではなくなっている。
「お、お姉様、それってさ、聖杯って、二人分の血が入るってことだよね? それか、もう一つ持ってるってことだよね?」
目的を果たすためにローズがまず何をするのか。フルールも理解したのだろう。認めたくなくて、避ける手段を用意していると思い込みたくて、こんなことを言っているのだ。
ゆっくりと首を横に振りながら、ローズは口にする。フルールの期待しているだろうものとは、まったく違う答えを。
「一つしかないの。一人分しか入らないの。混ぜるとやはり呪われるらしいわ。魂が入りきらないから。聖杯が引き受けることの出来る魂は、一人分だけ」
フルールが息を呑む音がした。それから叫ぶようにして激しい口調で問う。
「じゃあどうするの? まさか、お姉様の血を零すの? そうしたら、お姉様は吸血鬼になっちゃうんだよね?」
「駄目で元々。呪いを受けるのは覚悟の上。私は本来あの時死んでいたの。その借りを返すだけなの。預かってた生命を、返すだけなの」
それだけのはずだった。ほんの二週間ほど前までは。借りを返すために、自らが呪いを受ける。もしモルドレッドの血で聖杯を満たしても、彼の呪いが解けなかったら、その時は共に身を焼けばいい。そう、思っていた。
しかし今はもう、そうではなくなっている。聖杯の乙女とその眷属が、吸血鬼の真祖と眷属の関係と同じだとすると。
呪いはきっと伝播する。主人であるローズが吸血鬼に堕ちたら、フルールも当然吸血鬼の眷属に堕ちる。
(やっぱり……駄目よね、こんなの。私のわがままに、この優しい子を巻き込んじゃ……)
計画は諦めるとローズが口にしようとした瞬間、フルールはあの聖女のような温かい笑顔を浮かべた。
「いいよ、お姉様。あたしも一緒に呪われてあげる。あたしはもうお姉様の下僕だから。心の底から、愛してるから。だから、お姉様の好きにしていいよ。助けてあげよ、あたしたちのお兄様を」
「……フルール……あなたは……本当に……」
震える声がローズの喉から洩れる。それだけを言うのがやっとだった。フルールの顔がよく見えなくなっていく。視界が涙で曇って、何も見えない。
(どうしてまだ何も言っていないのに、この子はここまで理解してくれるの? どうしてこんなに、私の心に寄り添ってくれるの?)
ローズの迷いは、逆に強くなってしまった。こんなに穢れなき心のフルールを、自分のエゴで、勝ち目のない賭けで、呪いに巻き込んではならない。
「ほらほら、聖杯はどこ? ここにはなかったって、さっきお兄様が言ってたよね? 早く取りに行こ。お兄様、回復してきてるよ。腕、生えてきてるもん。暴れられた時、また攻撃して動けなくするのは可哀想だよ」
フルールは場違いに明るい声で言って立ち上がった。右手をひさしのようにして、周囲を見回して探し始める。
やめると言っても、今度は逆に、試してみるよう説得してきそうな勢いだった。もう決めてしまっているのだ、フルールは。いつものように猪突猛進するつもりなのだ。優しさに溢れるその心を以て。
「ありがとう、フルール。甘えさせて、あなたに……」
鼻を啜りながら、ローズは涙声でそう言った。袖で目元を拭い、無理やりに笑顔を作る。フルールは当たり前のように、太陽の如く眩い笑みでそれに応えた。
「いいのいいの。あたしとお姉様は、一心同体なんだよ! ほら、どこまで探しに行けばいいの? いったん外出るの?」
「聖杯は、私の身体の中にある」
「か、身体の中って……」
「いつも持ち歩くのが一番安全。戦いになっても、まずまともには攻撃されない場所に埋め込んであるの」
ローズはそっとモルドレッドを引きはがし、床に横たえると、フルールの前に立った。そして自身の下腹部を指す。
「ここ。聖杯は魔術で蓋をして、子宮の中に埋め込んである。取り出してもらえるかしら? あなたにやって欲しい。その慈悲の剣で」
とんでもないとばかりに激しく首を振って、フルールは拒否の意思を示す。
「無理無理、出来ないよ、あたしには!」
「大丈夫、落ち着いてやれば出来る。聖杯を傷付けないように気を付けて。今隠蔽用の結界を解く。そうすれば、あなたにも正確な位置がわかるはず」
「ほ、ほんとに、やるのー? あたしがー?」
フルールは聖具こそ発動したものの、その手はガタガタと震えている。
ローズは努めて落ち着いた優しい微笑みを作り、フルールに向けた。
「大丈夫よ、聖杯に守られてる限り、すぐに再生するから。ちょっと痛いのを我慢するだけ。お兄様の苦痛に比べたら、蚊に刺されるようなもの。――お願い、お兄様を助けるため、協力して」
一度聖具の発動を解いて、フルールは何度も深呼吸を繰り返した。
「ふおおおおお!」
いつもの奇妙な雄叫びを上げてから、再び聖具を発動し直す。そこからは大胆に動いた。驚くほど正確に刃を通し、傷が再生する前に素早く手を突っ込んで、聖杯を引きずり出す。
「これが……聖杯……」
結界に守られ、淡い蒼に光るローズウッドの器を、フルールは間近で眺めた。
それを抱きしめるようにして、フルールは二歩、三歩と下がっていく。
「フルール? どうしたの? 早くそれを渡して。それともやっぱり呪われるのは嫌?」
ローズは心配げな瞳をフルールに向けて訊ねる。
フルールは距離を取ったまま、首を横に振った。
「違うの。そうじゃないの。一緒に呪われるのはいいの。でも、これは渡せない。これがあれば、イエス様がまた復活出来るんだって」
キリストの復活。誰かから聞いたかのようにフルールはそう言った。
ローズの頭の中で、いくつもの疑問が、一つの線となって繋がった。既に繋がっていたはずのそれは、間違いだった。新たに浮かんだ線は――
「フルール、あなたまさか……」
聖杯。それがフルールの目的。初めからそのために、ローズに近付いた。それしか、考えられなかった。だからフルールは、屋敷中隅々まで片付けや掃除をしていたのだ。聖杯を探して。
そもそもフルールは、シオン修道会から来たのだ。キリストの墓を守る秘密結社から。