第一話 誰が為にパイを焼く
翌日、朝食を終えたローズは、庭ではなく食堂で紅茶を楽しんだ。雨が降っているというわけではなく、フルールが片付けを終えて、キッチンを出るのを待っていたのである。
(今日は待ちに待った木曜日……)
誰もいなくなったキッチンへと忍び入る。この日のために用意しておいた、とっておきの食材をあちらこちらから取り出しながら、ローズの顔は妖しく微笑んでいた。
無塩バターがしっかり凍っているのを確認してから、冷凍庫を閉じる。薄力粉を振るいに掛けていると、フルールがキッチンに戻ってきた。
「あれ? お姉様、今日はお料理? あたしやるよー」
「いいの。これは私がやりたいの、どうしても」
フルールが側にやってきて、首を傾げて見上げながら問う。
「お姉様、もしかして、恋人でもいるの?」
唐突な質問に、ローズは呆気に取られて目を瞬いた。同じように首を傾げながら問い返す。
「どうしてそんな勘違いを?」
「あれ? 勘違い? なんか朝からずっとそわそわしてるし、今どうしても自分で作りたいとか言ってるから、好きな人でも来るのかと思ったんだけど?」
ある意味間違ってはいない。ただし、相手は人ではない。
「昨日、犬来たでしょ? レックスっていうんだけど、毎週木曜日に来るのよ。だから、鶏のささみ入りパンプキンパイを作ろうと思って」
その説明を聞いて、フルールは半眼になって睨め上げるようにして口を尖らす。
「お姉様、昨日はあたしのことあんなに叱っておいて、自分はお菓子あげようとしてるの!?」
「大丈夫、これはペット・ケア・アドバイザーもお勧めの、犬用に特別な栄養バランスを考え食材も選んだレシピ。あの子がカロリーオーバーにならないよう、ちゃんと計算もしてある」
至極真剣な顔で答えるローズに、フルールは引き攣った笑いを浮かべながら応じた。
「そ、そうなんだ……。お姉様って……」
「なに?」
また何か言いかけて口を噤んだフルールに問いかけるも、首を振りながら話題を変えられてしまった。
「ううん、何でもない。あたしにも教えて! 手伝うよ。昨日のわんちゃんとお友達になりたいし!」
明るい笑顔で言うフルールの頭を、ローズは満足気に微笑みながら撫でる。
「いい心掛けね。共に最高のおもてなしをしましょう」
それからフルールにレシピを教えながら調理を続けた。昨日のフル・ブレックファストの件で薄々気付いていたが、レシピさえあれば、何でも容易く作れてしまうようだった。
(相当の料理好きね、これは。それとも……)
聖職者としての嗜みと考えているのかもしれなかった。奉仕活動が務めだと思っていたと昨日聞いた。料理もその一環なのだろう。掃除や片付けもやたらと手際よく、床などは既に、張り替えたばかりのようにピカピカと光っている。相当な手練れに違いない。
「ふおおおおお! 出来上がりー! わんちゃん早く来ないかなー」
焼き上がったばかりのパイをオーブンから取り出すと、フルールは頭の上に持ち上げて、くるくると回って喜んだ。それを見て、ローズも自然と笑みが零れる。予想はしていたが、フルールもかなりの動物好きのようだ。気が合うかもしれない。
「来るのは午後二時よ」
「えー、そうなの? 冷めちゃうよ……」
「熱いのは食べないから、丁度いいの。冷たいのも嫌がるから、常温で保管しておいて」
フルールは不満気な顔ながらも指示に従い、虫除けの籠を被せてテーブルの上に置いた。
「じゃあ、あたし、お掃除の続きやってくるねー!」
そう言って、手を振って出ていく。感心するほど働き者だとローズは思った。
§
「あはははは、あははははは!」
フルールが陽気な笑い声を上げながら、レックスと庭を走り回っている。パイを賄賂にして、早速レックスを買収したフルールは、先程からずっと走り回ったり、一緒に転げまわったり、本当に楽しそうだった。
しかし、テーブルで紅茶を飲みながら眺めるローズの表情は、どこか浮かない。
(とられた……私がああしてるはずだったのに……)
心の声はおくびにも出していないつもりだったが、フルールにはお見通しなのだろうか。
「ほらレックス、お姉様に突撃ー!」
見事にレックスを操り、ローズを巻き込んでくれる。素が出ないように注意しつつ、大人の余裕を保って遊んだ――つもりだった。
「お姉様、わんちゃん大好きなんだね! 別人みたい」
レックスが帰った後、フルールにそう評されてしまう。保てていなかったらしい。
「ど、動物は敏感だから。笑顔で接してあげないと、不安がるし。昨日も私が怒ってたら、さっさと帰っちゃったでしょ?」
「ふーん、それだけかなー?」
フルールは疑わし気な目付きで、半眼になって見上げてきた。ローズの周囲を回りながら、じろじろと観察し出す。
「わんちゃんが二時丁度に一人で来るって変だよね? 毎週木曜日とも言ってたよね? 魔法でも使って呼んでるんじゃないのかなー?」
ローズの視線がフラフラと泳ぐ。フルールはその先に回り込んで見つめ返してきた。
(この子、なんでこんなに鋭いの……?)
「普通に飼えばいいのに。お庭こんなに広いし、お金だってあるんでしょ?」
「そ、それは……私もそうしたい……けど、そうしたくない」
ローズが俯いて自己矛盾した返答をすると、フルールがふと頭を撫でてきた。
顔を上げると、またあの聖女のような温かい微笑みを向けていた。
「お姉様、もう淋しがらなくていいんだよ。あたしはずっとお姉様と一緒にいてあげるから」
「フルール……」
抱きしめたくて仕方がなかった。孤独を見抜かれたと思った。聖杯に守られ、永遠の生を歩む者としての悲哀を。
ぽつりぽつりと、ローズは本音を話し始める。今まで他人には語ったことのない気持ちを。
「動物は好き。一番好き。動物だけは、私が歳を取らなくても不審に思わないでくれる。死ぬまでずっと一緒にいてくれる。でも人はそうじゃない。長くは一緒にいられない。本当の友達になれるのは、動物だけなの」
揺れる瞳で見上げつつ、フルールが問う。
「天使は? 司祭様は歳取ってないんだよね? ずっと一緒にいられないの?」
ローズはゆっくりと首を振って否定する。今までに出逢った何人かの天使たちの顔が思い浮かんだ。今も生きているのは、ガブリエルとダニエルだけ。
「天使は役目を終えると人間に戻るの。与えられた使命を果たすまでに、どれくらい時間がかかるか次第だけれど、ずっと一緒にいることは無理」
「そう……なんだ……」
「だから私にとっては、動物と一緒なのかもしれない。私を不審に思わず、長く一緒にいてはくれるけれど、それでも私にとっては刹那の時間。何度も動物を飼っては泣いてきた。どんなに愛しても、みんな私より先に死んでいく。もう死を看取るのは嫌なの。だから私はもう飼わない。人と同じで、短期間の付き合いだけで終わらせた方がいいの」
長い沈黙が流れた。ローズは話したことを後悔した。今後フルールも同じ気持ちを味わうことになる。それを知るのは、もっと後で良かったかもしれない。心が大人になってからで。
「ふおおおおお!」
突然フルールが奇声を上げて、ローズは驚いてその顔を見た。花緑青色の瞳に強い意思を籠めて、フルールが見上げている。
「あたし、猫耳作ってくる! それとも犬耳がいい? あたしがお姉様のわんちゃんになるよ!」
そう言って駆け出すと、慌てて邸宅の中へ入っていった。
後ろ姿を呆然と見送ってから、ローズは思う。
(比喩……よね? 側にいて慰めてくれるって意味よね?)
戻ってきた時、犬耳や犬尻尾を着けていたらどうしようと思った。
いや、きっととても可愛いだろうから、それもまた良し。そう考え直すと、追いかけるのはやめて、テーブルに戻って再び寛いだ。