プロローグ
――見くびっていた。
焦燥と自責の念に駆られながら、女はただひたすらに飛ぶ。
いつかこうなるという予感はあった。だが同時に、それは今ではないと根拠なく楽観視していた。
脆弱な生命のたかだか数百年の歴史が届くはずもないと、高をくくっていた。
そんな取るに足らないはずの歴史に、文化に、たった今追い詰められている。
襲撃は突然だった。地下界層と地上を繋ぐ、虚と呼ばれる移動網。彼らはそれを解析し、独自のルートで地下界層へと攻め込んできた。虚周辺には、王より門番の任を受けた大幹部が配備されている。少し前の彼らでは総力を結集したところで戦うどころか傷一つ与えることすら叶わないほど、力の差は圧倒的なはずだった。
ズドォォォン……
女は速度を落とさずに音の方向を見やる。
北都とその一帯は既に火の海であった。遠く離れたこの東部統治領域からでも確認できる、幾本もの光の柱。
女は魔力感知が別段得意というわけではなかった。だからこそ、みるみると消えてゆく同胞たちの反応を前に自身の無力さを呪いながら、それが間違いであってほしいと自身の未熟さに縋った。やがて一際大きな魔力反応が消えると、頭に浮かんだ「北部陥落」の文字を振り切るかのように、女は一段と飛翔速度を上げた。
門番が斃されたという異常事態に気づいたのは、なんと侵攻が始まる1時間前のことであった。交戦の報告すらないままに、人知れず大幹部は討ち取られた。調査隊が駆けつけたときには、激しい戦闘があったことがうかがい知れる、大地をも歪める魔力の痕跡が残るのみ。地下界層に未確認の虚が発生したのはその直後であった。東西南北ある統治領域、それぞれの都すぐそばを目標とした大規模転送。女はその正体を考察するより速く、虚の座標を書き換えて都からできる限り遠ざけようとした。
「急げ!大規模な人員移動には相応の時がかかる。細かい座標設定は省略、魔力量の高い数人はバラして更に遠くへと設定せよ!」
女の判断は迅速だった。しかし、辛うじて対応が間に合ったのは東部のみで、備えも、情報も、全てが後手のままに侵攻は始まった。
「幸いなことに東部への転送は最後のようだ。座標の書き換えは間に合うだろう。彼奴らの反応が確定され次第私は向かう。お前たちは東都の守護と領民たちへの報告を急げ。」
“即時降伏せよ。仕掛けられない限り戦闘の意志を見せるな。王の力は強大だ。万が一にも敗北はない。ならば今すべきことは、できる限り命を繋ぐことだ。王が負けずとも、民が消えれば国は滅ぶ。”
書き換えた座標が街外れだったおかげか、幸いにも東部にて目立って消えた反応はない。南部と西部でも戦いは起き相応の被害は受けたようだが、今ではそれも落ち着いている。だとすればこれは足止め、陽動。彼らの狙いは――
「やはりこちらか……!」
距離にして2km先、千を超える軍勢は女の存在に気付くと、列を崩さず一斉に攻撃態勢を整える。
「敵影補足!重力障壁用意!動きが止まり次第一斉掃射、影すら残すな!!」
残り1km、女が今まさに障壁に入らんとする一歩手前。
「!?」
轟音と共に大いなる水の奔流が顕現する。大地を砕きながら進む流れが軍勢の全てを飲み込んだ。女はそれには目もくれず、ひたすら真っすぐ進みつづけた。
「今何か聞こえませんでしたか?」
「さぁな?ノエムの腹の虫じゃないのか?」
「ケイダさんひどいですっ!私そんな食いしん坊じゃないですよ!」
「あら、さっき集落で『その美味しそうな果物くれたら見逃してあげます!』なんて言ってたのはどこの誰だったかしら?」
「エルザさんまで!?だってしょうがないじゃないですか!魔界の食べ物なんて気にならない方がおかしいですよう。」
「あはは……。」
東部統治領域のはずれ、その平原を歩く影。
気だるげな雰囲気の壮年男ケイダ、白いローブに身の丈ほどの杖という正に女魔導士の風貌のエルザ、リュックを背負った小柄な少女ノエム、そしてリーダーでもあり白銀の鎧に身を包む青年ジェイク。彼らは東部制圧の要として地上から送り込まれた四人である。
「それにしても随分遠くまで飛ばされたわね……。私達だけでもなんとか離れないようできたのはよかったけど。」
「だから北都の動きを見てからー、なんて悠長に構えるのは嫌だったんだよ俺ぁ。」
「僕たちはこの”大征伐”で重要な役目を担ってるんです。慎重になるのも仕方ないですよ。」
「そんなこと言ってるからあちらさんに対策の暇を与えちまうんだ。ご丁寧に主力はバラバラになるよう座標も書き換えて。相当なやり手だぞ。これなら北部担当になってた方がまだマシだったなぁ。」
「そうですそうです!北都にはでっかいロボットがいるって聞きました。私もそっち行きたかったです!」
「はぁー。あんたたちはまたそんなこと言って!」
「で、でも!東部の人たちはみんないい人そうでよかったです。お陰で特に戦うことなくここまで来れましたし。」
そう言ってどこからか取り出した果物を頬張るノエムを横目に、ジェイクは考え込んでいた。
『あなた方が地上から来た人間様御一考ですか。御覧の通り我らに戦う意思はございませぬ。可能な限りそちらの要求にも応えましょう。』
集落にいた者はジェイクたちを見るや否や、途端に降伏を宣言した。彼らからは一切の敵意を感じなかった。それだけではない。
「なんだか、魔界って思ってたところと違いますね。」
彼らには営みがあった。穏やかに暮らすための法があり、心があった。集落の灯り、畑、奥に見えた線路。それらはジェイクに、これから自分が行おうとしていることへの正当性を疑わせた。
「こんな人たちなら、もしかして――」
「ジェイくん。」
エルザが遮るかのように口を開く。その目はジェイクを諭すようで、どこか冷ややかだった。
「甘い幻想を抱くのはやめなさい。人間と魔族は絶対に相容れない。”魂吸い”やここ数か月の突然変異魔獣の急増、全ては地上との繋がりを絶つ気のないあの虚の存在が引き起こしたもの。魔族はいつだって人間を理不尽に搾取する側なの。同情も和解もあり得ない。あるのはどちらか一方の根絶のみよ。」
「……。」
ビーッ!ビーッ!
「っ!?」
ノエムの腕につけられた機材のアラームが沈黙を切り裂き、空気を一気に張り詰めさせた。
「上空に超高速の魔力反応!皆さん、ご注意を!」
「羅針冥公 “東”、接敵します!」
勝てない。
何より先にそう感じた。
女の全速を乗せた渾身の一閃は、眼前の騎士に受け止められた。
魔力で形成した両手剣の速度も精度も見事なもので、敵ながら賞賛する他になかった。
これに匹敵する実力者が、少なくともあと三人はいる。その事実に絶望すら抱く。
それでも
「貴様らが我が領域を穢さんとする羽虫だな。」
視線は冷ややかに、紡ぐ言葉に呪いを込めて。本心を決して悟らせぬように。
「さすが羅針冥公、すごい威圧感ね……。油断しないで!あいつの魔力特性は水、質量で押されれば私の加護は門番のときほど通用しない!」
「……ジーベルト殿を斃したのは貴様たちか。」
瞬間、空へと昇る水の壁が周囲を覆い、女と騎士が取り残される。
「ジェイくん!」
「おうおう、奴さんクールなようで随分と荒ぶってら。どうするよこの水の壁。穴ぼこ開けてやろうか?」
「ジェイクさんに当たったらどうするんですか!やめてくださいよう!」
「平気です!」
水の壁に阻まれど、ジェイクは至極冷静であった。
「僕は大丈夫!三人は先行して部隊の安否確認をお願いします!」
「っ……。了解しました!皆さん急いで!」
ノエムのリュックから現れた手のひらサイズの四輪車がみるみると大きくなり、三人はそれに乗り込んだ。
「かっ飛ばしますよう!」
遠ざかってゆく音を聞きながら、ジェイクは女に尋ねる。
「なぜ、彼らを見逃してくれたのですか。」
「指一本でも動かせば即座に切りかかろうとしていた癖に。見目の割に随分と意地の悪いものだ。」
「それはそれ、これはこれです。あなたはおそらく責任感の強い人だ。例え死んでも己が責務を果たそうとする。」
「お前は集落でいたずらに民を殺さなかった。それに対する最低限の不干渉に過ぎん。貴様らの軍勢も、攻撃はすれど手は抜いた。誰も死んではいないだろう。」
「よかった……。」
「だが――」
一度緩めた魔力を先ほど以上に高めて、重圧の中で女が息巻く。
「それはそれ、これはこれだ。虚での殺戮、地下界層への侵攻、北部の甚大な被害。これらは決して見過ごせん。貴様ら人間のその所行、我らを愚弄するこの上ない悪と知れ!」
「剣を取れ。勇ましきもの、愚かなものよ。我が名はユルルング・“エスト”・ウーリ。貴様ら賊軍一人残らず、洗い流してくれようぞ!!」
見てくださり誠にありがとうございます。
初のファンタジー、勝手がわからずお見苦しい箇所多々あると思いますがぜひ温かい目で見守ってくれると幸いです。