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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天にまします我らが父よ、と女子高生は神に祈る

作者: シロクマ

 宗教二世としての自覚に乏しかった私は女子高生にもなると食前食後のお祈りを忘れていた。


「天にまします我らが父よ」


 そうした一言を述べて、神に祈りを捧げて食事する。これは普通のことだとかつては信じていた。


 神様に感謝する。

 そう、これだけのこと。


 天の恵みに感謝する。

 そう、それだけのこと。


 これが周囲と“ちょっと違う”というだけで小学校の給食の時間はいつしか地獄と化した。

 敬虔な信徒として食前にお祈りする、たったそれだけのことを無理解な学友たちは薄気味悪いものとして扱った。かといって露骨にイジメられるわけでもなかった。ただただ遠ざけられた。


 きっと私のことが怖かったのだ。


 それは小学校の先生にしても同じことで、私のお祈りを邪魔することはなかった。

 一度か二度、無思慮な男子がちょっかいを掛けてきた時だって、他の生徒が守ってくれた。

 それは純粋な好意から守られたのではなくて、より繊細で厄介な問題を避けたかったのだろう。


 ルールが三つ。

 学校のルール、家庭のルール、信仰のルール。


 私はすべてに薄ぼんやりと適応して、いずれにも属しきれず、いずれからも支配されなかった。


「天にまします我らが父よ」


 中学に入る頃には、家庭の事情により入信していた宗教と我が家とは疎遠になりつつあった。

 教会のミサに顔を出して、日曜日に礼拝することもなくなった。


 とりわけ母親は禁じられたコーヒーを飲むようになり、父親は懐に余裕ができた様子だ。

 いつしか私は“ちょっと違う”子ではなくなって、学校になじみ、友達になじみ、今に至る。


「ミカ、ホントにお正月、神社参りこないの?」


「うん、みんなで行ってきて。ちょっと他の用事があるから」


「わかった! お互い受験がんばろーね、ミカ!」


 神社参りに行けなかったのはなぜだろうか。

 心のどこかで、わたしは他の神様にお祈りをすることに抵抗があった。


 別に、八百万の神々だとか、仏様だとか、この国に根づいた信心に否定的というわけでもない。葬式は仏前で、結婚式は教会で、というごちゃまぜもそれはそれでいいと思っている。

 天の神様から遠ざかっていくことに、わたしはなにかを感じつつ、ゆるやかに忘れつつあった。


「いただきます」


「ごちそうさま」


 こうして女子高生になった今、わたしの食前食後のお祈りは単なる挨拶になってしまった。

 それでも。


「ミカっちさぁ、なんでいっつも手ぇ合わせんの? 農家に感謝?」


「きっと神に感謝しているのよ、神に」


「……ダメ?」


「いいじゃん個性的でさ」


「……個性」


 忘れきっているつもりでも、無自覚に祈りが馴染んでしまっているらしい。

 敬虔な信徒であれ、なんて強く意識しているわけでもないのに。

 何がわたしを、そうさせるのか。

 ともだちと屋上で食べるお弁当は、得体のしれない不安感のせいか、少し、味がしなかった。




「お父さん、この聖書の一節について教えてほしいんだけど」


 とある日曜日、英語の勉強がてらに、わたしは英訳された当宗派の聖書について父にたずねた。

 和訳聖書については小学生の頃、あれこれわからないことをたずねたことがある。そのたび、父は自分なりに考えてはわたしにわかるように答えてくれた。納得できる時もあれば、そうでない時もある。そうした時、父はなにかひとつの考えを押しつけることはなかった。


 信じることの大切さ、信じないことの大切さ、どちらも教えてくれていたのだとおもう。

 父はソファーに腰掛けコーヒーを飲みながら新聞を読み、こう言った。


「ミカ、神様なんていないんだ。もうそんなものは捨てなさい」


 とても冷淡で、威圧的で、まるで父は別人だった。

 こちらの眼を見るでもなく、新聞の活字と話しているようだった。


「何を言ってるの、お父さん……?」


「これを見なさい」


 新聞の一面記事を飾っていたのは、教会の信徒が凶悪事件を起こしたという記事だった。

 父はおもむろにテレビをつけた。


 映し出されたのは新聞の記事と同じ出来事について。

 信仰に対する一大バッシングが今まさにはじまっていた。


「もう終わりだ。天の神などいなかったんだ。私達は騙されていたんだよ」


「なんで……?」


「ええい、目障りだ!!」


 父は豹変した。

 乱暴に力づくで聖書を奪い取り、床に叩きつけ、執拗に踏みつけはじめた。


 それだけに飽き足らず、湯気だったコーヒーを聖書にこぼした。

 びちゃびちゃと黒い液体が跳ね、自分の足にも熱湯が飛び散るのをお構いなしに。


「神など居ない! 神など居ない! 神など居ない! 神など居ない!!」


「お父さん! やめてお父さん!」


「うるさい、黙れ!!」


 平手打ちが、わたしの頬を。

 しかし痛い――、と感じることはなかった。その暴力は、父自身の手で届かなかった。


「は、早くここから出ていきなさい、ミカ」


 右腕を押さえて、父は静かに言った。わたしのよく知る、父だった。


「どこか、遠くへ逃げなさい、早く」


 わたしは葛藤した。父の様子はあきらかにおかしい。尋常ではない。

 ここから立ち去りたいという恐怖と、父の言葉に従おうという信心が、わたしを脱兎させた。


「ごめんね、お父さん」


「……どうか、主の御加護のあらんことを」


 玄関で靴を履いて、外着に着替えることもままならぬうちに冬用の外套を羽織って外へ出た。

 わたしは行く宛もなく、家を離れた。 




 教会のそばを通りすぎた時、付近にはサイレンの音がけたたましく鳴っていた。

 警察車両ともすれ違った。

 野次馬の会話を盗み聞きするに、教会へと警察が雪崩込んでいったらしい。


 信徒の起こしたという凶悪事件をきっかけに、一斉逮捕に踏み切ったのだ。けれど、それがわたしにはよくわからないことだった。


 あの教会には悪い人なんていないはずだ。日曜の礼拝では慎ましくパンと水をいただき、祈りを捧げる。こどもには少々退屈なだけの、おだやかな時間があるだけだ。


「やーね、カルトよ、カルト! 恐ろしい!」


「こないだうちにも宣教師が挨拶にしにきてたのよ、怖いわ」


 道行く人の疑心暗鬼は、しかしわからなくもなかった。

 中学時代、父母が宗教と疎遠になりつつあった頃、確かに宣教師たちはたびたび自宅をたずねてきてはまた信仰するようにと誘いにきていた。


 ただ、そのお誘いというのはせいぜいがクリスマスパーティーのチラシ配りだとか、お菓子を持参してくる程度であって、実際なんら圧力にもならず現在に至っている。


 でも、しかし、わたしがまだこどもで何もわかっていなかっただけではないのだろうか。

 本当は、悪い人たちだったのだろうか。


 わたしは混乱しながら、日曜日の学校へと逃げ込んでいった。


 高校は授業こそないが、部活動に勤しむ学生がそこかしこにいて、いつもの日常があった。


 居場所を探しているうちに、ふと思い出した。


 この高校、かつてはとある聖教会を母体とする学院だったのだ。経営陣が代わり、すでに教育方針などに宗教色は残っていないが、依然としてチャペル……礼拝堂が敷地内に残されている。


 わたしは自ずと、心の拠り所を求めて、学内の礼拝堂へとやってきていた。

 古びていることもあって、立ち入りの禁じられている礼拝堂だ。扉だって施錠されている。


「どうしよう、これから」


 困り果て、扉を背もたれに一休みしようとすると、閉ざされているはずの扉が開いてしまった。


「わったったっ!」


 わたしは尻もちをついて痛がるも、気づけば礼拝堂の長椅子に座っていた。

 ステンドグラス越しに届く七色の光が、そこかしを埃よけの白布に覆われた礼拝堂をくまなく照らしていた。おだやかで、心の休まる一時だった。


 わたしはあれこれと考えを巡らせることをやめて、まず、祈ることにした。


「天にまします我らが父よ……」


 その先が、なんと言えばいいかもわからない。すらすらと聖句を唱えることもできないくせに。

 わたしは今、神に祈っていた。


 そこには何の願いもない。食前食後のお祈りと同じ感覚だった。

 何を願ったとしても、都合よく叶えてくれるわけではない。

 わたしにとっての天の神様は、少なくとも受験勉強の手助けをしてくれる神様ではなかった。


「ミカっちさぁ、まだ手ぇ合わせんの?」


「神に願わず、祈るだけ。ミカらしいね」


 礼拝堂に入ってきた二人組は、わたしのふたりの友達だった。

 あるいは、友達だと信じてきた“何か”だろうか。


 わたしは振り返ることができず、目を瞑ったまま手を合わせ、神への祈りをつづけることにした。


 とても怖かった。

 察するに、父親がそうであったように、ふたりの友達もいつ豹変するかわからなかった。


 そうだとして、怯えて、焦って、逃げ回ってもどうにもならない気がした。

 声音こそ同一だとしても、まず、そこにいつもの見知った姿でいてくれるかもわからない。


 覚悟を決めて、対話するしかない。


「もうあきらめなよ、ミカっち。神様なんていやしないんだ」


「死後の世界も、天国も、地獄も、ないんだよ。現実を見なよ、ミカ」


「物心つく前から刷り込まれてただけなんだろ? ああ、これが悪魔のささやきに聞こえるのかな」


「都合の悪いものはなんでも悪魔、神の試練、良いことがあれば神様のおかげ」


「友達として言ってるんだよ、ミカっち」


「“普通”になってもいいんだよ」


 わたしは神に祈りを捧げる。

 かといって、悪魔の誘惑に耳を貸してはいけない、等と闇雲に遮りもしない。


「普通になれなくても、別にいいよ」


 目を閉じて、瞼の裏の闇を見つめる。

 何も見えやしない。闇は闇。天の神様なんて、見えやしない。聖母像も、天使の描かれたステンドグラスもまやかしにすぎないのかもしれない。


 その不確かな見えない何かを、わたしは信じている。

 その不確かな触れない何かを、わたしは信じていない。


 半信半疑でちょうどいい。


「わたしは信じてるから、これでいい」


「神様を?」


「ううん」


「じゃあなにを」


「友達を」


「……言うねぇ」


「友達として言ってくれてるってのがウソなら別だけどね」


「ははっ、どうやら神は命拾いしたようだ」


「あとすこしで、この世界から忌々しい神の残滓が消え去ったものを」


 祈りの闇の中、ふたりの笑い声が木霊した。それは悪魔か、それとも……。




「天にまします我らが父よ」


 教室の片隅に机を寄せて、お弁当を食べる一コマ。わたしは神に祈りを捧げていた。

 左右隣には友人たちがいる。とっくのとうに「いっただきま~す」等と箸をつけている。


 わたしは、ちゃんと最後まで聖句を言い終えるまで祈った。

 女子高生となって、今の友達を前にしては初めての食前のお祈りだった。


「ミカっち、あのさぁ……」


 怖い。


 わたしは心の底から怖いと思った。


 ここに至るまでの、現実と空想の境目みたいなものが曖昧でならない。宗教絡みの凶悪事件が起きたことは現実だが、日曜日の出来事は実際にあったとは思えない。父親も記憶にないと言っている。


 しかしだとしたら、あの日あの時に言葉をかわした悪魔と今ここにいる友達は同一視できない。


 現実は残酷だ。


 “ちょっぴり違う”わたしを、受け入れてもらえるとは限らない。


 もしこれで友達と距離を置かれてしまったとしても、彼女らのことは責めたくない。


 信じる。

 期待する。


 それらを裏切られることの恐怖に抗って、わたしは神への祈り、“ちょっぴり違う”を示したのだ。

 こんな時くらいは神に願いたい心地になるが、そう都合よい神様でないことはわたしが一番よく知っているのだからどうしようもない。


「ミカ、前々から思ってたんだけどさ……」


 神よ。

 何もしなくていいので、どうか見守ってください。


「ミカっち、とんかつ食べていいの?」


「それな! ミカってば神さん? に遠慮なく肉食べてるけどどーなってんの」


「……ダメ? ではない、はず」


「代わりに食べてあげてもいいんだぞー?」


「……バーカ」


 わたしはおもむろに聖書を確かめてみることにした。

 もしとんかつは禁止と書いてあったら困る。どれどれ、と懐に隠していた聖書を開こうとする。


「ん、なにこれ、何の匂いだろう?」


「んー、コーヒーっぽい?」


 友人たちの言葉に、わたしは言いしれぬ不安をおぼえた。

 傷んだ表紙の聖書からは確かに、珈琲の香りが漂っていた。


 心臓が高鳴る。

 わたしは聖書を開くために、神に祈っていた。


「天にまします我らが父よ、罪深き我を許したまえ」


 聖句の綴られているはずのページを開くわたしの指先は、震えていた――。

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