一つの肉体二つの魂
目覚めたときは、柔らかな土の上だった。
のろのろと身体を起こし、ぼんやりする意識をはっきりさせようと、軽く頭を振る。いまだ霞のかかったような感覚だったが、視界はしっかりしてきた。
涼しさを感じる。木々が見えた。林の中にいるようだ。月明かりだけなので遠くまでは見えない。左手には小川があり、水が流れていた。涼しさの理由はこれだ。
自分の名を思い出す。リーゼラーネ。カイロニア連合王国の第八王女であり聖メイリナ学園の一年生。陰謀にかかり崖から飛び降りた。
何度もまばたきをしてから、自分の身体と手足を眺める。右手で左手を触れた。
(触っているのが分かりますわ……。ここは天界ではありませんのね……)
死者がおもむくと呼ばれている天界。てっきりそこだと思ったのだが、いまだ現世にいるようだ。息を吸うと、清涼な空気が身体に染み入った。
(わたくしは崖から飛び降りたはず……どうしてこのようなところに……?)
(おかしい。おれは縊られたはず。ここはどこだ)
彼女はぎょっとした。今の言葉はなんだろうか。
(誰かいらっしゃるかしら……。でも回りにはどこにも……)
(徐州とは思えぬ。五原九原とも違う。曹軍もおらぬ)
野太い声が頭に響き渡り、リーゼラーネは思わず耳を塞いだ。もっとも直接頭に聞こえてくるため意味はない。
手が勝手に動いた。眼前に移動する。
(……細く小さい……女の手か……?)
リーゼラーネにとっては当り前だが声の主にとっては驚愕のことらしい。
(もし。どなたか存じませんが、どこにおられますの。ひょっとしてわたくしの中ですか?)
(この声は……おれはどうなっているのだ)
身体は勝手に動き、立ち上がると小川に走った。川の澱みを見つけると、四つん這いになって顔を近づける。
月の光の下、リーゼラーネの顔が大きくなる
表情は喫驚に満ちていた。
(女……? おれは女となったのか!)
(あの……)
(曹賊の中には仙術に秀でているものもいると聞いたが、このおれに術をかけたか)
(その……)
(これも陳宮、高順の策を用いなかった報いか。虎になるならまだしも、得体の知れない女に化けさせられるとは!)
(ええと……)
(よりによって、このような小さな女になるなどと……!)
(ちょっと!)
自分でも驚く程の声が出た。野太い声も意表を突かれたようで、言葉が止まった。
(なんですの、さきほどから女、女と。女であることのどこが悪いんですの)
(この女の声か……?)
(ええそうですわ。この身体はそもそもわたくしのもの。あなたはどうして、わたくしの身体に入り込んだのですか)
(つまりこの身体には持ち主がいるというのだな。それがお前か)
(そう申しております)
(女。名はなんという)
(女という呼び方は止めてくださいまし。わたくしリーゼラーネ・フィロニアと申します)
(おれは呂布。字は奉先)
(ややこしい名前ですわね)
(お前の名の方がおかしい)
リーゼラーネは転がっている岩を動かし、平らな面を上に向けた。そこに腰かける。
それから二人は、頭の中で会話をはじめた。自身のことを語り、相手のことを聞く。そうやって状況の擦り合わせをおこなった。
リーゼラーネは自分の国について語った。一方の呂布は、世界そのものよりも彼女の境遇に関心があった。
「なるほど、つまりお前は奸計にあって身を投げたのだな」
「そうです。ですが……」
彼女は頭を押さえた。
「死んだのは数度目かの気がするのです」
「なにを言ってる」
「わたくし、繰り返し命を落としている記憶があるのです。はっきりではないですが、ぼんやりとそんな感じが……」
「身毒国には幾度も魂が甦る、輪廻という教えがあるらしいが」
「生まれ変わってはまた死んでいるのです。ただならずものに殺されたのは今度がはじめてと思います」
野太い男の声と可憐な少女の声が交互に発せられる。端から見ると得体の知れない光景だが、幸い他に人はいなかった。
「おれも裏切りにあって死んだ。だがここで生きている」
「不思議ですわ」
「死んだのはあれがはじめてだ」
「どれだけ遠くにあるお国で生まれたのですか」
「見当もつかぬ。カイロニア連合王国とやらも、條支よりも遠方にあるのだろう」
「わたくしも漢のことは聞いたことありません。別の国と言うより、いわば異世界なのでしょうか」
「異世界……」
リーゼラーネは呂布の声を発しながら目をつむった。
「化外の地よりも彼方で生まれ変わったか」
「わたくしは生まれ変わっていないのですが」
「しかしここでも王が国を治めている。国の形というものは変わらない」
「わたくしは王女ですが、学園に通う身です」
「学園……太学みたいなものか」
「王族や貴族は国中から集まり選抜され、聖メイリナ学園で学ぶのです」
「太学だ。しかし……」
もう一度川の水に顔を映す。
「金色の髪に狐のような鼻。強張った頬。大秦や安息の人よりさらに白い肌……。ここの国は皆このような姿形なのか」
「亜人はまた別です」
「女になったとはいえ実に不気味だ」
「妙なことおっしゃらないでください」
「これは美しい顔なのか? 西施や鄭旦にはとても及ばぬ。貂蝉は言わずもがな」
「どなたのことか存じませんが、莫迦にされているのは分かりますわ」
「傾城傾国ではなく己が死んでは意味が無かろう」
「そうなのですわ……」
彼女はがくりと肩を落とした。
「どうしてか生き長らえましたが、食べ物もなくお金もなく、ただ頭の中に野卑で粗野な男性の声があるのみなんて……」
「場合が場合だ。今は罵詈を許す」
「いったいこれからどうすれば良いのでしょう……」
「そんなのは……ん?」
リーゼラーネは呂布の声で呟きながら顔を上げる。
つぎはぎだらけの服と、古ぼけた剣で武装した男たちが数名、早足でこちらに接近しているところであった。
身毒……インド
條支……カラケネ王国
大秦……ローマ帝国
安息……パルティア。アルサケス朝
西施、鄭旦……春秋時代の有名な美女
貂蝉……三国志演義に登場する美女