忘れられた男
僕は昔から影が薄かった。友達と一緒に歩いていても、いつの間にか後列を歩くようになっていたり、旅行の思い出話に参加すると「あれ、いたっけ?」と言われる。
別に友達には悪気はない。悪気があるのならとっくに離れている。仮にそうであったとしても、僕は誰かとはぐれて、一人で生きるなんてできはしないだろう。
僕は中学校に上がった。周りは知っている人たちばかりだったけど、それでも少しさびしさを感じた。なぜなら皆、新しく出会った人たちの方に夢中になるからだ。僕の存在はますます小さくなっていった。
別に僕の周りにいる人たちは、特別な呪いをかけられて、僕のことが見えなくなっているんじゃない。僕自身にも特別な力なんてありはしない。
単純に、忘れてしまうんだ。僕がそこにいたということを。忘れられてしまうってことは、いなくなってしまうことと同じなんだと、僕はその時理解した。
だから僕は何度も叫んだ。僕はここにいるよって。忘れないでって。
皆、その場では思い出して僕の肩をつかんでくれる。だけど、少し経つと、また僕は皆の輪から外れてしまう。
そんな僕にも好きな人はいた。僕とは違って、とてもまぶしくて、可愛い子だ。彼女も、僕のことを忘れてしまうだけの人だったけど、一度だけ消しゴムを拾ってくれた。僕は、彼女の記憶の中に残りたいと思っていた。
でも何をしたらよいかわからず、僕は毎日彼女に挨拶をするくらいしかできなかった。次の日には多分覚えていないんだろうなと思いながらも、毎日、ちょっとずつ話題や声のトーンを変えながら、彼女が覚えていてくれていると信じて飽きることがないように、何度も。何度も。
しばらくたってから1回だけ告白したことがある。彼女は、僕のことをまだ覚えていたようで、ちゃんと返事をするから明日まで待ってほしいと言われたた。次の日、彼女はまるで何ごともなかったかのように1日を過ごし、僕の「おはよう」にいつもと変わらない「おはよう」を返してきた。
僕は最初、断られたんだなと思った。だけど、すぐに否定した。だって僕が好きになった人だ。どんな返事にせよ、彼女は答えてくれる人だ。彼女は単純に忘れてしまったのだ。僕が昨日、君に何を伝えたのかを。
またそこで、嫌になった。自分の中では一世一代の告白だったのに、忘れられてしまえば、すべてなかったことになる。それは友達でも、好きな人でも、家族でも同じだ。誰も僕のことを覚えていてはくれないんだ。
中学2年の時、僕は身長が3cm伸びた。誰も僕の身長なんて覚えていないから、僕にしか気づかないことだった。そして中学3年生の春、今年はどれくらい伸びていたのか少し楽しみにしていた。けれど、僕の身長は止まったままだった。
他にもおかしいなと感じたことはある。僕の声はまだ高いままだった。友達は低い声になって、女子たちにからかわれているというのに。その頃から、僕は叫ぶことはなくなっていた。もう聞こえはしないとわかっていたからだ。
卒業式の日、父さんと母さんは来なかった。忘れていたから。
校長先生も、僕の名前を呼ばなかった。忘れていたから。
卒業証書なんてなかった。忘れられていたから。
家に帰ると、僕の部屋は父さんの書斎に変わっていた。机も、教科書も、シャーペンも、ねだってやっと買ってもらったゲーム機も。何もなかった。
僕はその日から、忘れられた男になった。大切にしていた人たちからも、時間からも忘れられて、僕は一人ぼっちで歩き続けた。
いつしか僕の周りにはいろいろなものであふれるようになった。古くなって捨てられた人形や、まだ使えそうなパソコン。他にもたくさんのものがそこら中に散らばっていた。だけど、誰もそれに見向きもせずに通り過ぎて行く。まるで何も見えていないかのように。
その中で、僕は僕の机と、教科書と、シャーペンと、ねだってやっと買ってもらったゲーム機を見つけた。僕は、自分がどこにいるのかを理解した。そして僕も、この忘れられたものたちと同じ存在なのだとわかった。
僕は存在という言葉を使った。皆が忘れているのに、存在していると主張するのは変な話だ。だけど、僕が僕を忘れられないから、僕は存在していると思うしかないじゃないか。
そうだろう?たった今僕の目の前を通り過ぎた、僕の好きな人。
彼女は高校生になっていた。少しシワとクセが目立ってきた制服をまとい、僕の知らない誰かと手をつないで歩いていた。
ああ、あの人は、忘れられなかったんだ。僕は静かに泣いた。うらやましいと思った。この涙も、忘れることはできないと思った。
それからどれくらいの月日が流れたのだろうか。時間から忘れられているのに、時間を気にしなくてはならないのは不愉快でもあった。たくさんの人でごった返す中、僕は誰にもぶつかることなく、目的の場所にたどり着いた。
目の前には大きなビルがある。そしてそこには大きな電光掲示板が時を示していた。時間は23時59分。そうか、今は23時59分なのか。
どこかで声がした。それに合わせて周囲も同じ言葉を発し始めた。それは波紋のように広がり、いつしか大合唱になっていった。
「さーん!にー!いーち!!」
電光掲示板の数字はすべて0になった。瞬間、あっちこっちからおめでとうの声が響いた。すべてが僕の耳に届いた。その中で、忘れられない声が僕の心をつらぬいた。
「ほら、暴れないの。わかったから上着を着なさい」
「ママ!ママ!すごいよ!みんないっせいににわーってなった!!」
「こらこら、ママの言うことを聞かないと風邪ひくぞ」
「風邪はやだ!」
「それじゃあ、ちゃーんといい子にしてしてないと」
「はーい」
そこにあったのはごく普通の、だけど僕が手に入れることはない、温かくて優しい家族の姿だった。
僕はその幸せを壊したくてたまらなくなった。そんなのは簡単だ。そこに落ちている石を拾い上げて、思いっきり投げつければいい。
なのに体は動こうとしなかった。何度も命じた。壊せ。壊せと。たとえ僕が石を投げつけたという事実がすぐに忘れられ、すぐにあの家族がまた幸せになったとしても、ほんの一瞬でいい。誰の記憶に残らなくても、僕の存在を感じてほしかった。
ようやく体は動いた。僕は、道端に落ちている石に手を伸ばした。だけど、つかめなかった。何度手を伸ばしてもその石は僕から遠ざかり、あざ笑う。お前は誰からも覚えられていない。道端に落ちている石でさえ、誰かの記憶に残っているというのに。
僕は手を伸ばすのをやめた。あの家族はもうどこかに行ってしまっていた。
代わりに僕は自分を殴った。鼻血が出た。鉄の味がした。痛かった。僕は、この痛みを忘れないと誓った。
もうどれくらい歩いたのかは忘れてしまった。街は僕がいた頃とはすっかり変わり、見知らぬたくさんの人たちが生きている。
ここは、命の光が強すぎる。僕は逃げるようにその場所から離れ、たどり着いたのは最近できたばかりの大きな病院だった。ここでしばらく休ませてもらおう。
うとうととしていた警備員は僕を見ようともしなかった。あっさりと僕は中に入っていき、どこか空いている部屋がないか探し始めた。相変わらず、僕の周囲にはいろんなものが散らばっている。場所や人が変われば、散らばるものも変わる。ここは多分、お年寄りが多いのだろう。あるもののほとんどは僕も昔見たことがあるものばかりだった。
その中に一つ、よく知っているものを見つけた。人から見ればそれは、片方の角だけ削れた消しゴムでしかない。だけど、僕はそれをよく覚えていた。忘れられるはずがないものだった。
僕は走り出した。そして、弱々しくもきれいな命の光がある場所にたどり着いた。
そこには、その人以外誰もいなかった。とっさに入口前の名札を見た。苗字は違ったけれど、下の名前は変わっていなかった。僕はゆっくりと中に入っていった。
その人は、とても苦しそうだった。あちこちをチューブで繋げられ、呼吸も荒かった。それでも、彼女の目は、僕の記憶の中と何も変わらなかった。
僕は彼女の名前を呼ぼうとした。下の名前で呼ぶのは恥ずかしかったから、僕の知っている苗字で。だけどその前に、彼女はうめくように何かを話し出した。
僕は、彼女に近づいた。こんなに彼女に近づいたのは初めてかもしれない。
彼女は手を差し出してきた。僕はそれをつかんだ。今度はつかめた。
「ああ……あなたは……」
彼女の声は、僕の記憶と違って、かすれていた。それでも僕は、また、彼女の声を聴くことができてうれしかった。
「ああ…そうだ……昨日の返事を、しなきゃね……」
心臓が高鳴った。彼女ははっきりとこちらを見ていた。だから僕も、まっすぐに彼女のことを見た。
「私ね…うれしかったの。誰にも見られていないのに花壇に水をやって、困っている人を助けて、毎日おはようって言ってくれたあなたに、好きって、言われて……うれしかったの……」
僕は、彼女の手を握る力を強めた。頼むから、それ以上は言わないで。
「だからね……?私、私……」
「もう、いいよ」
僕は彼女の手を離した。彼女は、すがるように手を伸ばしてきた。
「もう、十分だよ。それが聞けただけでも」
「待って、待って……」
「だめだよ。僕は、君から忘れられてしまったんだ。今思い出されても、もう遅いんだよ。君は、君が選んだ人たちと、君が忘れなかった人たちと残された時間を過ごすべきなんだ」
「でも…でも……!」
彼女はそれでも手を伸ばしてきた。その手をつかむことができたらどんなに……どんなに……。
僕の頭の中に、あの日の幸せそうな家族の姿が浮かんできた。一度は壊そうと思った。だけど、僕の好きな人はあんなに楽しそうにしていた。そして今も、大きな病院の個室が用意されている。彼女は、誰からも愛されている。幸せな人生だったと胸を張れるだろう。
なら、それで十分じゃないか。そこに僕が割り込んではいけない。彼女の人生の最期に、僕を思い出してその光を曇らせるわけにはいかない。僕のわがままで、彼女の記憶に残ろうなんて思ってはいけない。
僕は僕を忘れてはいけない。僕は誰だ。そうだ、僕は……。
「大丈夫。僕は忘れられた男。すぐに、君の中からもいなくなる。だから、その涙も悲しみもすぐに消える」
僕はようやく彼女に背を向けることができた。振り返ってはいけないと自分を殴りつけ、歩き出した。
「ありがとう……。……くん」
抗うことなどできなかった。僕はもう一度彼女のことを見た。彼女はとても穏やかな笑顔で眠っていた。
僕は叫んだ。彼女に見てもらいたかった。僕はここにいるよって。忘れないでって。もう聞こえはしない叫びを、何度も。何度も。
彼女の葬式には多くの人が詰めかけた。随分と年老いていたが、知っている名前もいた。皆が泣きながら笑って、僕も参加していたはずの旅行や遊びの思い出話をしていた。そして、彼女が愛した彼女の家族たちの姿もあった。孫娘は、彼女に似てとてもかわいかった。
彼女の体は炎に包まれ灰になった。煙が天へと昇っていく。最後に僕を思い出してくれた彼女は行ってしまった。僕はまた一人だ。もう誰も、僕のことを思い出す人はいないだろう。
だからこれは、僕だけの誓いだ。僕は絶対に、皆のことを忘れはしない。一緒に遊んだことも。一緒に先生に怒られたことも。自分の想いを伝えたことも。そして、何十年も後にその返事をもらえたことも、すべて。そうでなければ、僕が今生きている意味がない。僕の好きな人が、僕のことを見てくれた意味がない。これは、僕の意地だ。今も、これからも、忘れることなどありはしない。
僕はもう一度空を見た。いつの間にか煙は消え、何もなかった。
彼女はきっと天国に行ったのだろう。天国からなら、下の世界のすべてを見られるのだろうか。ここに僕がいることもわかってくれるだろうか。見えているよと、言ってくれるだろうか。
叶わぬと知っている願いではあったが、僕はそう思わずにはいられなかった。
「おやすみ」
振り払うように、僕は一言だけつぶやき、また、歩き出した。