第八話 餌付け
僕がシャワーを浴び終え、髪を乾かしてから部屋に戻ると、暴れまわっていた子狼が部屋の中央でおすわりをして待機していた。濡れていた身体はほとんど乾いており、近くには白いタオルが落ちている。僕の姿を見た途端、綺麗な尻尾を左右に激しく振り始めた。
「もう乾いたのか? 随分と早いけど……」
この子を洗い終わってから、まだ三十分くらいしか経っていない。温風にも当てず、そんな短時間で乾くとは思えないんだけど……抱き上げてみると、微かに湿り気が残る程度で、ほとんど乾いている。一匹で森の中にいたことと言い、変な狼だなぁ、こいつは。
そんなことを思いながら床に下ろすと、この子は小さな声で何度か唸り声を上げた。尻尾を激しく左右に振りながら、何かを僕に訴えかけている。
「お腹空いたのか?」
「ワンッ!!!」
駄目もとで尋ねると、子狼は「腹減ったッ!」と訴えるように僕の足に前足を乗せ、舌を出してキラキラと目を輝かせた。どうも、この子の方はこちらの言葉が理解できるらしい。
と言っても、食べるものか……。狼って、何を食べるんだ? 野生の狼なら兎とかの獲物を狩って食べているイメージだけど、子狼は母親の乳を飲んで育つ、よね? でも、それは赤ん坊の間だけか。この子は小さいが、体毛も多いし、少なくとも赤ん坊ではないと思う。
となれば、やっぱり肉か。
「なんかあったけな」
溶けない氷で作られた氷冷庫を開き、中に入っているものを眺める。
卵、ミルク、ベーコンに野菜類……一般的な一人暮らしの男の家にありそうなものばかりだ。少なくとも、狼が好んで食べそうなものはベーコンくらいしかない。
僕は薄くスライスしてあるベーコンが乗った皿を取り出し、それを摘まんで子狼に翳した。
「はい、どーぞ」
子狼は嬉しそうに一度鳴き、飛びつくように翳したベーコンにかぶりついた。
余程空腹だったのか、よく噛みつつも勢いよく平らげ二枚目を寄越せというように、僕が持っていた皿を見つめた。
結局、五枚のベーコンを一分ほどで食べつくしてしまった子狼だったが、どうやらまだ食べ足りないらしい。小さな身体なのに、見かけによらずよく食べるんだな。いやまぁ、子供は大きくなるために沢山食べないといけないから、別にいいんだけど。
とはいえ、これ以上は僕が食べる分が無くなってしまうし、何より調理しなければ食べられないものばかりしか置いてない。大好きな肉を食べさせるには、店の方に行かなければ。
懐中時計を取り出して時間を確認すると、今は十時二十分。開店時刻にはまだ早いが、早めに準備を始めればいいだけなので、問題はないだろう。
「ちょっと早いけど、店に行こうか」
「ワンッ!」
抱き替えようと膝を折ると、子狼は僕の背中側に回り込んで身体をよじ登り、僕の頭に乗った。何をしているんだと引き剥がそうとしたが、ここがいいらしく離れてくれない。
まぁ、落ちないのならそこでもいっか。何か不都合があるわけでもないし。
そう納得し、僕はそのまま部屋を後にする。直前にチルシーの様子を見に寝室に行き、無事に眠りこけていることを確認してから喫茶店へ向かった。
◇
店に入ってエプロンを着けた僕は氷冷庫の中からステーキ肉を一枚取り出し、軽く火を通して食べやすい大きさにカットしてから子狼に食べさせた。
身体の大きさ的にこれ以上食べさせるのはよくなさそうだし、一先ずこれくらいの量で肉を与えるのはやめておく。けど、皿に乗っている肉を美味しそうに食べている姿を見ると、もっとあげたくなるな。いや、あげないけどさ。
僕は子狼の可愛らしい食事風景から目を離し、挽き終えたコーヒーの入った瓶を手に取った。
僕もいるし、今日は少し早めに店を開けるので、今からコーヒーを淹れることにした。多分開店と同時に入店してくるお客さんもいるだろうし、早めに作っておく分には構わないだろう。
ポットの上に置いたドリッパーにフィルターをセットしてコーヒーを投入し、沸騰直前の熱いお湯を僅かに注いで数十程蒸らす。そして、蒸らしたコーヒーの真上から円を描くようにお湯を注ぎ、芳醇な香りを楽しみながら、ポットに滴り落ちる黒い液体を眺める。
この時間が、何とも言えない心地よさがあるんだよなぁ。ミルで豆を挽いている時と同じく、無心になって心が癒される感じだ。
と、僕が心を無にしていた時、肉を食べ終わった子狼がカウンターの上を歩いてこちらにやってきた。鼻先をコーヒーの入ったポットに近づけ、匂いを嗅いでいるらしい。
「飲みたいの?」
「ワン」
「多分、美味しくないと思うよ」
言ってみるけど、どうにもコーヒーに興味深々な様子。狼にコーヒーを飲ませてもいいのかわからないけど、一滴舐めさせてみようか。
ドリッパーを少し浮かせてポットの中に溜まっていたコーヒーを少量スプーンで掬い、子狼の口元に近づける。やや警戒しながら鼻先を近づけた子狼は、やがて恐る恐る舌を出してスプーンのコーヒーを舐めた。途端、とても嫌そうな顔をしながら数歩後ずさってしまった。苦かったらしい。
「やっぱり、苦いでしょ?」
「くぅぅん」
弱々しく鳴いた子狼に、皿に水を入れて目の前に置いてあげると、必死に水を舐めて舌に残った苦みを消そうとしている。やはり、これは大人の楽しみ。大人の味なんだね。
なんてことをドヤ顔で考えていると、店の扉から来客を告げる鐘が鳴った。
まだ扉には閉店の札がかかっているはずなんだけど……あぁ、彼女達か。
僕は頬杖をついたまま、閉店中にも関わらず入店して来た人たちにジト目を向けた。
「まだ閉店中ですよ、ロアムさん、ミレアーナさん」