③ さよなら、花守人
羽織ってきたダウンジャケットのポケットへと手を突っ込む。スマートフォンがちゃんと入っていた。それを手に取って画面を確認すると、時間は二十一時。もう五時間もここにいる!? 雪の日の気温だったら、もう低体温症になっていてもおかしくないはず。でもいま舞の身体は寒くはなく、なにかに包まれているように温かい。
「そうだ。電話……、メール……」
慌ててアプリを開くが、圏外だった。この町はまだところどころ圏外になる場所がある。特に、このような林道や森林の中の道路はそうだった。ここもだった。だからなのか、優大や父からの着信もない。
「カラク様が言ったとおりだった。お別れをするべきなのに……。私が、いつまでも甘えたくて手放さなかったから。ほんとうに大事な人たちのところに帰れない……。神聖な場所に惹かれて、意地でも向かってしまったキムン・カムイと一緒」
今度は舞に罰が当たった。あっちもこっちも、私のためにいて欲しい『甘えたい人』を誰一人と手放したくなかった欲だ。
帰ったら、素直になろう。伝えよう、優大君に。無事に帰れるかわからないけれど。このまま低体温症でまた気が遠くなって、そのまま息絶えるかもしれない。すぐそばに住んでいるからと身近に感じすぎて、まだまだ北国の森を甘く見ていた。自然を甘くみていたのだ。目に滲む涙さえ、すぐに冷えて乾いていくように感じた。
ひとしきり泣いていると、見えている空にカラスが飛んでいるのが見えた。『カア』と鳴いていると思ったら、また一羽、二羽、三羽と増え『カア、カア、カア』と騒がしくなっていく。谷の上に見えるアカエゾマツの並木にもカラスが何羽も止まっているのが見え、そこからも『カア、カア』と鳴く声。徐々に徐々に、空に何十羽ものカラスが舞い始めた。
カラク様だ。彼のお友達だ、きっと。
そう気がつくと、舞にも力が湧いてくる。それほど身体が冷えていないのが不思議なのだが、舞はなんとか起き上がろうとする。立ち上がろうとしたが、ダメだ。足が痛い。骨折をしているようには感じないが、でも立ち上がれない。
『舞―――――――!』
優大の声だ! 舞も声を出そうとする。
「ゆう……」
骨折をしているのは肋骨のようだ。痛くて声がでない! 声が出せないなら、気がついてもらえない。そこからいなくなっちゃう!? 舞に焦りが募る。
だが優大の声は谷の上から離れず、ずっと『舞――』と叫んでうろうろしている?
カラスのおかげだ。彼らがずっと舞の頭上をくるくると回って、何十羽もカアカアと夜なのに鳴き続けている。きっと優大も勘づいている。またカララク・カムイがガーデンの娘を助けようと動いているのだと。
『舞―――、そこにいるのか! 舞! 声が出せないなら、スマホのライトをこっちに向けろ!』
既に優大はそれを実行してくれていて、ちょうど舞がいる真上から、小さな光がチカチカと見え隠れしていた。
そうか。その手があったと、舞は慌ててスマートフォンのライトをつけ、谷間の上へと向ける。すると圏外だったにもかかわらず、電話が鳴ったのだ。優大だった。
『舞! どこにいるんだ』
「ゆう、だい君のこえ、うえから、聞こえる……。すぐ下の谷に落ちた」
『怪我をしているのか!? 痛いところは!』
「足が、いたい。おきられない。たぶん、ろっこつ、いってる。こえ、だせないの」
『そこから動くな。すぐに行くから待ってろ!!』
電話が切れた。次に舞が見た時には、また圏外になっている。
カラスたちが見下ろすようにギャアギャアと鳴き続けている。ここにいる。ここに。はやく、はやく、ここに来い。助けに来い――。舞には、そう聞こえる。
「どこにいるの、カラク様。ぜんぶ、カラク様でしょう」
月明かりで雪が白く反射している谷間。舞のそばにぼうっとした光が降りてきて、そこにアイヌ姿の彼がいた。
「だから。ここには来て欲しくなかった」
初めて。その人の泣き顔を見た気がした。跪いているその人が、舞の額を優しく撫でてくれる。
「いいですか。もう僕は必要ないのです。僕の道しるべから、貴女は自分で方角を選んで歩み始めた。だから、これでお別れですよ」
月明かりの下のカラク様の黒髪が、虹色に輝いて美しい。彼の微笑みも、舞が好きなものだった。
「はい。カラク様、いままで、ありがとうございました。最後に、お力、使わせてしまいましたね」
「大丈夫ですよ。貴女は僕の大事な花守人です。また美しい花を待っています」
「必ず。毎年、咲かせます。見えなくても、お待ちしております」
「さようなら、僕の花守人」
「さようなら、カララク・カムイ様」
彼がすっと立ち上がり、月を見上げた瞬間だった。
『ここです! この下に落ちています』
『レスキュー隊です! 上川舞さん! いま降ります! そのまま動かずにいてくださいね!』
谷の上からそんな声が聞こえてきた。
空を見上げていたカラク様が最後の微笑みを見せると、ぽんと地面を蹴って、さらに谷間へと、軽やかに飛び降りていく。アイヌの着物の文様が暗闇に消えていく。その後を、カラスたちがざっと大きな羽を広げて、降下しながら付いていく。数十羽のカラスも谷間の暗闇に消えていった。
明るいライトが近づいてくる。ヘッドライトをつけたヘルメットを被ったレスキュー隊員が舞を発見する。
動けない舞は、レスキューのソリになっている担架に乗せられ、雪の斜面から引き上げられていく。
『もう少しだ!』
『救急隊の待機確認を!』
斜面の上では、煌々とライトが照らされ、何人ものレスキュー隊員がいて、舞が乗るソリ担架をロープで引っ張ってくれていた。そしてやっと見えた。コックコートの上に黒いダウンコートを羽織っている優大の顔が。
ソリが引き上げられると、すぐに彼が駆けつけてきてくれる。
「舞!」
「ごめん、優大君……」
「なにやってんだよ。俺……、おまえがいなくなったらと思うと……、こっちが死にそうだった。いなくなんなよ……」
「いなくならないから。あなたのそばにいるから。ずっと抱いていてくれると嬉しい。私もう、ひとりじゃないよね? 優大君がいつもそばにいるから」
優大が目を見開いて固まっていた。
「それ、取り消しきかないからな」
人目があるのに、担架に寝そべっている舞を、優大が強く抱きしめてくれた。




