① お菓子はもういらない
北海道の夏は短い。盆を過ぎると急激に、秋の色へと移ろう。
庭に藤色のバーベナーの小花が風に揺れ、艶やかな深紅のダリアも咲き始める。
父から許可が出た。
『二人とも三十歳を迎えて、一人前になるには、そんな経験も必要だろうね。やってごらん』――と言ってくれた。
野立店長の誕生だった。
その夏は二人でがむしゃらに働いた。カフェには『オーナー入院中のため、特製ドリンクはお休みします。エルム珈琲社の商品のオーダーとなりますのでご了承ください』という張り紙をして周知する。だいたいは優大が焼いたパンを買ってもらったら、業務用の簡単に入れられるアイスコーヒーや紅茶を頼んでもらうことで、まかなうことができた。
舞も店の手伝いをしながら、庭の手入れも怠らなかった。夏の間はSNSの影響も大きく、昨年からの話題も手伝って『カラスの守り神がいるガーデン』なんていう奇妙な話題で訪ねてくる男性客も増えてしまったが、誰もが羊の丘と夏空とたくさんの花の風情を楽しんでくれていた。それは昨年以上の盛況でもあった。
《じゃーん、スマホ解禁です! IDフォローしてください!》
メッセージアプリでID許可してほしいというメールが届いた。東京に帰った妹の美羽からだった。
《ちゃんと勉強もして、塾にも行って、成績をあげました。学校も通っています。部活動も始めました。美術部と園芸部かけもちです。お母さんに欲張りだと笑われました。お姉ちゃん、お庭の花を撮影して送ってください。カラスさん元気かな》
中学生らしい生活に戻ったため、スマートフォンを持たせてもらえるようになったとのことで、妹と気楽な連絡が取れるようになった。
「おまえんとこ、美羽からフォローしてくれって来た?」
「来た来た。スマホが解禁になったんだって。フォローしてあげて」
優大のところにもメッセージが来たとのことで、兄貴の顔で嬉しそうにやりとりを始めたようだった。
「店長、ちょっといいですかー。お客様が、今日はハーブクッキーは、もう売り切れてないのかとおっしゃっているんですけれど」
アルバイトの奥様から呼ばれ、コックコートに黒いバリスタエプロンをしている優大がハッとする。
「いけね。補充分を取りに来たところだったんだ。大橋さん、まだありますと伝えて。いま持って行くから!」
急いでベーカリー厨房へと優大が駆けていく。すっかり店長らしくなり、その威厳が備わってきていた。
舞が信じたとおりに、優大は要領よくカフェ運営を回転させていた。パンを焼き、焼き菓子を作り、店を開け、ドリンクを提供して、店内を守ってくれている。
舞は庭を管理し、店の売り上げなどの経理を父の代わりに勤めた。
二人で夜までくたくたに働いて、二人で一緒に食事を取って、店についての話をする。とにかく、このシーズンを父がいないからオーナーがいないからということで、店を閉めないように二人で勤め上げようとした。
夕の庭、小さく咲き始めたマムを切り取り、舞は納屋へ向かう。
今日はそこにいた。水道蛇口にカラスが止まっていた。
彼に、舞は緑色のマム (西洋菊)を差し出す。
「そろそろ秋の香りです。カララク様へお願いします」
いつもどおりに、彼がくちばしに咥え飛び立っていく。森のアカエゾマツのてっぺんには宵の明星が輝きだしていた。
がむしゃらに働いているうちに、カラク様と会えなくなった。去年もそうだった。忙しい間は、気にしてくれているのか会いに来てくれなかった。
でも。もうずっと、あの人とお茶とお菓子を挟んだ和やかな時間を過ごしていない。そうあの人がアイヌの姿をするようになってからだ。それからは、お供えはこうしてお花になってしまった。
いつも会えない時間が長いと『もう二度と会えないのだ』と思ってきた。でも、二ヶ月ぐらい間が空いても、カラク様は姿を現してくれた。
「また、秋のパンプキンケーキのころに来てくれるのかな」
美味しそうですね――と、ひょいと虹色に艶めく黒髪を揺らして、お兄様の顔で現れる。そう信じて、いまは花を渡している。
父が倒れてから一ヶ月が経ち、検査や治療に療養を終えて退院を迎えたのは、遠くの大雪山が冠雪する九月の末だった。
少しばかり痩せてしまった父が、頼りなげな足下で帰宅する。いきなりはフルで働くことは控えて欲しいと医師にも言われていたため、父はダイニングルームで待機する形で勤めることになった。
「おかえり、お父さん」
「オーナー、待っていましたよ。おかえりなさい」
ダイニングのいつもの椅子に座るのも、ゆったりとした心許ない動作だった。
夕日が入る窓辺には、八重咲きコスモス・ダブルクリックが白とピンク色が茜の染まって揺れているのが見える。父がそれを遠い目で見つめている。
「美羽がいなくなったんだね。寂しいな」
入院するまでは、父の隣に座っていたのは美羽だった。その前は舞が座っていたのだが、また娘に置いて行かれた気持ちになっているのかもしれない。
「ああ、いけない。舞、優大君。カフェを休業にせず、この夏のシーズンをよく乗り越えてくれたね。しばらく私は経理と監督で大人しくして、若い君たちに任せるよ。そうだ。優大君、遅くなったけれど、三島先生との企画を再始動しようか」
やっとオーナーの顔に戻ってくれて、舞も優大もホッとして顔を見合わせた。
「待ってました! これくらいの季節になりそうだと思って、今回はマロンパイを作っておいたんですよ。また度外視で、栗と北海道産の生クリームを贅沢に、木村先輩の卵も使わせてもらってまーす」
優大の明るさに触れ、父がよく見せていた弟子を愛でる笑顔も見せてくれた。
「いやー、怖いな。優大君に自由にやらせたら、予算は桁外れだし、でも上等な焼き菓子で外れがなかったから怒れもしない。どれ、食べさせてもらうかな」
父と優大だけのカフェメニュー開発の姿も戻って来て、舞も安堵する。
これから徐々に戻っていけばいい。冬休みにはきっと美羽も遊びに来て、また賑やかになる。舞はそう信じていた。
庭がすっかり秋色に染まり、花じまいになる頃。アカエゾマツの木陰に木の実を咥えたエゾリスが走り回る姿が見られるようになった。
今年は信じられないことに、花が終わる前に、初雪が来てしまった。十月の半ばで久しぶりの記録だと地方ニュースで伝えられる。
日中に降り積もったため、夕にはガーデンの花がすっかり雪をかぶった景色になってしまった。
「嘘だろー。早すぎるじゃねえかよ、初雪」
「でも雪かきをするほどじゃないし、二日もすれば溶けるでしょう。でも、ちょっと見回りをしてくる」
「おまえ、去年もこれぐらいに風邪をひいていただろ。ちゃんとあったかくしていけよ」
そんなこと、よく覚えているなと思いながらも、言われた通りに舞はストールも首にしっかり巻いて外に出た。
北海道はこれだから困る。だいたいは十月の末に初雪が降る。そこから十一月は溶けたり積もったりを繰り返すのだが、時々、こんなに早く積もってしまうこともある。まだ咲いている花が可哀想だった。それでもこの気候ならすぐに溶けるだろう。
この際、雪かき用のダンプスコップを出しておこうと、収納している納屋へと入る。
「残念ですね。最後の花畑を楽しんでいたのに、いきなり雪景色になってしまいましたね」
ハッとして舞は振り返る。アイヌ姿のカラク様が久しぶりにそこにいた。
「カラク様! もうお会いできないのかと――」
「彼からのお花、いつも届いていましたよ」
「そうでしたか。あの、焼き菓子とかも、お友達の彼に託しても大丈夫ですか」
「駄目です。持たせないでください。お菓子はいりません」
いつになくはっきりと言い切られた気がした。しかも、舞を諫めるときの威厳ある凍った表情を見せているのだ。




