④ 紅いハマナスとカラス
その日の朝、舞も荷造りを手伝った。
「突然だったね。あともう少し、一緒にいられると思っていたのに」
なのに十五歳になろうとしている妹のほうが、大人の顔で落ち着いている。満足げな笑みすら見せているのだ。
「充分だよ。たくさん、わがままを聞いてくれて、かわいがってくれたもの。お土産も思い出もいっぱい。それよりパパには早く元気になって欲しいし、このお店やめて欲しくないから、これ以上負担になりたくないんだ」
最後にスケッチブックをバッグに詰め込んでいる。
開けていたドアからノックの音、そこにコックコート姿の優大が立っていた。
「松坂さん、駅に着いたってさ。いまからタクシーでここに来るってよ」
十五分ほどして、カフェの前にタクシーが到着した。
「大変お世話になりました。松坂です」
「上川の娘、舞です」
「一緒に働いている野立です」
大手税理士事務所に勤めているという美羽の義父は、イメージ通りに上質なスーツを着こなし、眼鏡をかけているクレバーなエリートという風貌の男性だった。
「こちらがお忙しいのに、長い間、すっかり頼り切ってしまいました。こちらも忙しさにかまけて不義理を致しまして」
体裁を気にする父親なら、こうして低姿勢に謝罪して角を立てないよう面倒くさいことは流そうとしているのだろうかと、以前なら舞も警戒していたと思う。
だが、帰ると決めたのは美羽自身だ。彼女が帰ると望む場所が、この男のところにある。舞からはなにも言えない、言ってはいけないのだ。
「妹と過ごす貴重な時間をいただきました、お礼を言いたいのはこちらです。美樹さんにお伝えください。産んでくださってありがとうと――」
松坂氏が眼鏡の奥の目を、驚きで見開いた気がした。
「美樹は、中学生だった舞さんに何も言えずに去ったことも、黙っているはずだったのに、妹がいることを告げることになり、きっと勝手な人だと思っていることだろうと、気に病んでいました。そう言っていただければ、喜ぶかと思います」
美羽がいなければまったくの他人だった。この男性も、妻がかつて結婚まで考えた男の家を訪ねることも気が重いことだっただろう。だから、ありきたりな挨拶しかできない。優大も隣で黙って控えているが、美羽の義父を既に睨んでいた。これから先、また美羽の気持ちを無視してエリート思考の教育を強要したら許さねえと威嚇しているんだと、舞にはわかってしまう。久しぶりに見せるヤンキー睨みで、逆に舞は可笑しくなってきて、頬が緩んでいた。
「美羽はどこにおりますか」
「最後のお別れに行くと言っていましたから、ガーデンに出ていると思います」
「ああ、素敵な花畑でしたね。五月の連休に札幌で美樹と息子と過ごした時も、お姉ちゃんのお庭は凄いんだと、もうずっとそればかりでした。確かに――素晴らしいです」
本心かなと思いながらも、舞も『嬉しいです』と返す。
松坂氏を連れて、納屋へ向かう道を案内する。ガーデンは丘に向けて開けてはいるが、納屋から向こうは麓に広がる森になっている。真夏でよく育った背高ノッポのホリホック(タチアオイ)が白や赤の花をたくさんつけて、見下ろすようにして揺れている。その中をスーツ姿の男性を連れて行く。
納屋が見えたところで、美羽の姿を見つける。帰るその日も、舞があげたリバティプリントのブラウスを着ている。
その美羽が花を片手に、カラスと向き合っているところだった。
「み……」
美羽と娘を呼ぼうとした松坂氏を、舞は止める。
「静かに。お別れをしているんです」
立てた人差し指を口元に寄せると、松坂氏も声を潜めた。
「お別れとは、」
戸惑う松坂氏だったが、舞は黙って娘を見守るよう視線で促した。
美羽の手には、マゼンダ色のハマナス。
「今日、帰ります。また来ます。この庭を守ってくださいね」
美羽がそう言うと、通じているように、水道蛇口の上に止まっているカラスがくちばしに咥えた。
しばらくじっと見つめている。
「さようなら。カララク様に届けてください」
いつかのように、カラスが翼を広げ、紅いハマナスを咥えたまま飛び立つ。
松坂氏が幻でも見るかのように、眼鏡を上げて目をこすっていた。
「え、あの。カラスと話しているように見えたんですけれど」
「カラスは賢い鳥です。美羽を助けてくれたことは、お聞きになりましたよね」
「いや、あんなのは、ネットでのでっちあげで、騒いでいるだけかと」
「信じる信じないは、お任せします。ですが美羽は信じています。だから、あれから毎日そこに来るカラスに、あのように一枝一輪の花を渡しているんです。いまのが最後ですけれどね」
舞から『美羽』と声を掛けると、彼女もそこに父親が迎えに来てくれたのを知り、笑顔になった。
「お父さん!」
愛らしい笑顔で駆けてくる。それもまた思わぬ娘の姿だったのか、松坂氏が呆然としていた。
「ここは北海道です。自然の王国ですから、かつてのように生き物にも、植物にも、物にさえ、神が宿っているという思想があります。そのカラスの神がここにいるかもしれませんよ。少なくとも、私と美羽は信じています。お花をお供えしています。なにかに守られている。それだけで、強くなれることもあるのではないでしょうか」
だから東京に帰っても、ちゃんと父親として妹を守れなければ、また美羽は弱くなってここに帰ってくる。父親の使命を果たしていない証拠となる。次はその守りたい体裁をちゃんと保てるのか。あの笑顔をなくしたら、今度こそ父親として失格だと言い渡したい。でも、舞はその気持ちを飲み込み、美羽を手渡す。
丘の風が緑の牧草を撫でる昼下がり。
オレンジや赤のエキナセアが鮮やかに揺れる道ばたで、美羽が松坂氏とタクシーに乗った。
「気をつけて。美樹さんに、よろしく伝えてね。弟とも仲良くするんだよ」
「パパに早く元気になるように伝えてね」
「美羽。これ、飛行機の中で松坂さんと食べな」
優大がパンに美羽が好きだった焼き菓子を詰めた袋を持たせる。
「ありがとう、大ちゃん……」
「待ってるな。姉ちゃんと」
「お姉ちゃんをお願いします」
生意気なことを言ってくれると舞は笑いたくなったが、美羽は真剣だった。パパがいないカフェのことを気にしているのだろう。優大に託したのだ。
「それでは。またお願いいたします」
松坂氏の挨拶を合図にタクシーのドアが閉まり、車が発進する。
「美羽!」
舞は併走するように走り始めていた。後部座席の窓が開く。
「お姉ちゃん」
泣いている美羽が顔を出した。
だが走っている舞のそばを、黒いものが追い越して行く。
スピードをあげるタクシーに負けずに併走しているのは人間の舞ではなく、紅いハマナスを咥えているカラスだった。
後部座席にいる美羽も驚き、隣にいる眼鏡の松坂氏も目を丸くしていた。
もちろん、舞も。優大も。美羽が叫ぶ。
「カララク様! また来るから。お花を守って!」
タクシーがスピードを上げるより先に、ハマナスを咥えたカラスがまた空へと昇っていく。
カラク様がどこかで見送っている? それともあのカラスがそうなの?
「俺、なんか信じるわ。あの庭にカラスのカムイがいるって。婆ちゃんの置き土産に違いない」
タクシーを追いかけられなくなり、花畑が終わる林道のところで舞も立ち止まる。
「うん。私もそう思う」
止めどもなく流れる涙を拭いていると、優大がそっと舞の両肩を包んでくれる。
「最初はどうなるかと思ったけど。おまえと美羽は正真正銘の姉妹だったよ」
優大も目を潤ませていた。でも今日は舞のほうが泣き虫。そんな優大に肩を抱かれて、舞も力なくカフェへと歩き出す。




