⑥ 花泥棒の報い
七月に入ると、また人々が花畑に溢れる。
あれから特に何事も起こらなかった。父曰く『監視カメラに気がついたのかもしれないな』とのことで、二度と起きなければこのまま静観を続けるというオーナーとしての判断を伝えられた。
だが優大は毎日、彼女のアカウントを監視し、三島先生も彼女を刺激しない投稿を心がけてくれていた。彼女も変わらずにキラキラした雑貨やスイーツに買った洋服などを投稿して元の生活に戻ったように見える。ママさんたちのボランティアも継続、一般のお客様が気にしないようにと『ご案内役』という腕章をつけて庭を歩いているが、実際のところは『監視』でもあった。
そのおかげなのか、やっと美羽が好きな時に庭でスケッチを楽しむように戻れた。
平日もそれなりのお客様が出入りする季節。明日はまた土日でたくさんの人が来るだろうけれど、金曜日の庭は静かに風の音が聞こえる。
人が少なめでも満開の花に溢れているガーデンを楽しむ人々もまだいて、丘に夕の茜が差すまでゆったりと楽しんでいた。
美羽も学校から帰宅してから庭に出てきた。お気に入りのリバティプリントのブラウスを着て、また姉と同じ姿をして笑って後をついてくるようになって、ホッとしている。
そして姉の舞も、妹の美羽も、言葉にはしなかったがわかっているのだ。『夏休みの間に東京へ戻る時が迫ってきた』ということを。最後を楽しかった日々で締めくくりたい。大人の姉と子供の妹という差があっても通じているのが、舞にも伝わってくる。
「これがラベンダーなんだ。いい香り。いっぱい咲いているのを見るのは初めて」
石畳の小路に座り込んで、大好きなスケッチを始めた。
平日の夕方。お客様も帰路へつき、徐々に静かになっていく。ガーデンには遠くの鳥の鳴き声と風の音だけになる。丘の羊たちも牧羊犬に急かされ、頂きの小屋へと消えていく。
舞も広い庭を一巡りして、明日へと備える。そして今日も何事もなかったか、心の奥を固くして警戒しているこの気持ちにまだ慣れずにいる。もし、またどこかの花が無残にちぎられていたら、あのような哀しみには二度と遭いたくない。
どこも綺麗なままだったので、ほっとして、妹が夢中になっていたラベンダーがある小路へと戻ろうとした。距離はそんなに離れていない。そちらへ足を向けた時だった。
『いや! お姉ちゃん! 助けて!』
美羽の声が聞こえてきた。妹の泣き叫ぶその声だけで、舞は青ざめる。
『やめて、やだ、やめてえーー』
尋常じゃない叫び声。舞だけじゃない、まだ庭を楽しんでいた数人だけのお客様も何事かと、声がする方へと緊張を募らせ表情を固めている。
『おまえのせいで、ちっともフォロワーが増えなくなっただろ! おまえがあのとき、素直に写真を撮らせてくれなかったからだよ! なにを投稿しても文句つけてくるようになったのも、おまえんとこのオヤジとスタッフが監視して嫌がらせしてるんだろ!』
そんな奇声も聞こえてきた。
『切ってやる、花も、おまえも、このシャツも!』
駆けていく舞の目、背が伸びたデルフィニウムとジキタリスのてっぺんに、ハサミを持って振りかざす手だけが見える。美羽が切られる、傷つけられる! 間に合わない! ここを、あの子にとって恐怖の場所にしないで! 後でどうなってもかまわない。もう力一杯、あの女に突撃してやる! そう意気込んで、ラベンダーの路へと辿り着いた途端――。森から一斉に何羽ものカラスが、黒い弾丸のように飛び出してきたのだ。
けたたましくカアカアと声を上げ、黒い大きな羽を広げ女に突撃していく。細くて鋭い爪先の足を向けて、ハサミを持っている女へと飛びついていた。
「なんだよ、やめ、いや、いや、来ないで! なによ、これ!!」
一人の女へと十何羽も群がるカラスは、彼女を真っ黒な塊で封じ込めているようにも見える。彼女の足下では、髪もブラウスも掴まれたのか乱れた姿の美羽がへたり込んでいるだけで、妹にはカラスはまったく触れもしない。それどころか女が美羽から離れるように、どんどん路の奥へと押し込めて移動させている。
その隙に舞は、美羽へと駆け込む。
「美羽! 大丈夫!?」
「お姉ちゃん! あの人、いきなりハサミで……。私の髪とかブラウスとか切ろうとしたの。ラベンダーも……」
美羽がスケッチしていたラベンダーが、石畳の道ばたに何本も切り落とされ落ちていた。美羽を恫喝しながらまたもや花を切り落としたようだった。
「大丈夫だからね。すぐパパと優大君を呼ぶから。警察も!」
スマートフォンを取り出し、舞はすぐに父と警察へと連絡をする。父も驚いて、すぐにこちらに来るとのことだったが、まだカラスがカアカアと叫び、あの女性へとまとわりついている。彼女ももう発狂したような声で、道ばたに倒れて手と足をバタつかせカラスを追い払うのに必死なだけになっている。
『なにあれ。カラスに襲われてるの。怖い』
『女の子が叫んでいただろ。あいつハサミを振りかざしていたのを見たぞ』
残っていた少しのお客様も口々にそう呟き始めている。しかもスマートフォンで撮影している人までいた。
美羽も震えていたはずなのに、突然の有様に茫然として逆に落ち着いたようだった。
「ねえ、お姉ちゃん。私のこと、助けてくれたんだよね。あのカラスたち」
舞もわかっていた。あれはカラク様の仕業だ。だから舞は美羽をぎゅっと抱きしめ、確信を持って伝える。
「この庭の守り神なのよ。あのカラスたちは」
「そうなんだ。毎日、森から遊びに来ているから、大事にしてくれていたってことなんだね」
「花を大事にする美羽のことも、きっと見ていたんだよ。見守ってくれていたんだね、大事に大事に……」
情けないけれど、もう泣いていない美羽の目の前で、姉の舞のほうが涙を流していた。きっと庭をずっと見守っていて、妹のことも。あの女がなにかをしたら、許さない気持ちでいてくれたんだ……と。『罰に値しますよ』と冷酷な面差しで呟いていたカラク様の声が蘇ってくる。
「舞、美羽!」
父が黒いバリスタエプロンをしたまま駆けつけてきた。
「パパ!」
美羽が父の胸元へと飛び込んでいった。初めてのことだった。父も青ざめた顔で娘を強く抱き返している。本当の父娘になれたように舞の目には映る。
「優大君が警察に連絡したから、すぐにあの人を連れて帰ってくれるからね」
「私もしちゃったよ……110番……」
「だったらなおさら緊急で来てくれるだろう」
もうカラスの声は聞こえなくなっていた。通路の向こうへと視線を向けると、女は地面に寝転がったまま動かなくなっているので、舞はまたどっきりと跳び上がりそうになる。
「気絶しているんだ」
父に教えてもらい、舞はホッとしたものの、どれだけ凄まじい責め苦をカラスから受けたのか、やはりゾッとさせられた。カラク様の怒りも相当なものだったのだろう。そのカラスたちは、まだアカエゾマツの枝先に止まって、グワグワ、ギャアギャアと異様な声で鳴き続けている。俺たちはまだ見ているぞと威嚇しているよう。
「不思議だね。一人に狙いを定めたようにカラスが襲うだなんて」
同じ場所にいた美羽には一羽も飛びかからず、無傷なうえに、襲われたところを阻止してくれたことに父も気がついている。
「きっとあの人が、この庭の花を虐めていたのをずっと見ていたんだよ。だってカラスの大事な遊び場だったんだもの」
子供らしい言葉と捉えたのか、父がまた慈しむように娘を見て強く抱きしめていた。
やがてパトカーが二台と救急車までやってきて、ガーデンカフェの周辺が騒然となった。お客様にはお詫びを告げ、早々に店じまいをして庭から退去もしてもらった。
香水瓶の彼女は気絶したまま救急車で運ばれていった。病院で気がついたら警察が事情聴取をするとのことだった。
しかしこの事は、地元でニュースになり、地方新聞では【花泥棒 SNSで逆恨みか】と報道されてしまった。彼女のアカウントは活動していないが、そのまま残っていて、ガーデンから盗まれた花を投稿していたスレッドに、カラスに襲われる彼女を撮影したお客様がそのまま動画をくっつけて投稿してしまい、SNSでもちょっとした騒動になっていた。
そのせいで、今度はガーデンカフェに、騒動についての問い合わせが増えてしまい、また父が対応の追われることになった。




