① あなたは花守人
雪どけの季節。最初にみつけられる緑は『蕗の薹』。森の入り口にたくさん生えるので、舞はそれを楽しみにしている。当然、天ぷらにして食べる。これも自然のすぐ側で暮らしている贅沢だった。
気温が緩む午後の始めに、アカエゾマツの隙間から日差しが差し込み、そこだけ雪が溶け、土が見える。まだ芽が出たばかりの柔らかいものをいただく。
妹が学校から帰ってきたらみせてやろうと、舞はいくつか美羽が摘めそうな芽を残しておいた。
「さては、それを食べるのですね。オレンジティーの彼女も好きでしたよ」
摘んでいた手が止まる。しばらくは信じられなくて、そのままの姿勢になっていたが、もうその声を聞けた嬉しさが溢れてきて、舞は振り向いた。
早春の日差しに、虹色をまとう黒髪が輝いているその人が、しゃがんでいる舞を見下ろしている。
「お久しぶりです。お待ちしておりました。お礼がずっと言えなくて」
彼もなんのことかわかっているようで、ばつが悪そうに黒髪をかいて笑っている。
そして舞も問い詰めたい。
「今日は、いままでと同じ、私たちと同じ洋服なのですね。あのときは、アイヌ民族のお姿をしておりましたよ」
「それが、僕にもよくわからなくて。ああ、舞が後先考えずに森へ行こうとしている、止めなくては――と思ったら、あのようになっていたのです。それからです。舞が納屋に来ているのは見えていたけれど、また側に行くことができませんでした」
「そうだったんですか」
「そもそも冬は僕も活動が鈍るようで、どこかでじっと休んでいるような感覚なんですよね」
「ですけれど。いままで、お互いに触れることは出来なかったのに、あのときは」
「不思議ですよね。あれ。必死になっていたら、あのような姿で舞に触れることが出来ていました」
まるで他人事のように彼が言う。自分がしていることの意思がないかのような言い方もまったく変わっていない。
そんなカラク様もさすがに今日はそこをわからないでは済まさなかった。
「きっと僕はアイヌなのでしょう。なんとなくそんな気がしてきました」
そして舞もすかさず伝える。
「オレンジティーをくださったお婆様もアイヌだったそうですよ。なにか繋がりがあったのかもしれませんね」
「舞はアイヌではないのですか」
「私はおそらく、和人の血筋だと思います。父方にも母方にもいなかったはずです」
そこでカラク様はまた遠くを見つめて考え込んでいる。今日の視線は、アカエゾマツの枝先。春の淡い空色に、針葉樹の艶めく緑へ。黙ってなにかを感じ取ろうとしている姿を、舞もじっと見つめて待っている。
「共通しているのは。この庭と森と、花と、お茶と、僕、です」
わかっていたはずなのに。カラク様からそう聞いて、舞も改めて『そうだ』と気がつく。
特に思うのが『森からやってくる』だった。花とお茶とお菓子が好きで、この庭と家がある敷地に遊びに来ている感覚がある。
「私とお婆様だけが見えることの共通点は……、なさそうですね」
「いえ。ありますよ。花を慈しんでたくさん咲かせる『花守人』という点です」
「私が、花守人」
「そうですよ。これからまたたくさんの花が咲くのが楽しみです。よかった、今日は舞に気がついてもらえて」
「夏の時もそうでしたが、カラク様は側に来ているのに、私が気がつかない日も何度かあったのですか」
「はい。いつだったか、マドレーヌを食べている日でした。僕にお礼を言ってくれていたでしょう」
え、あれ。納屋でひとりでブツブツとお礼を呟く姿を、どこかで見ていた!?
「あれ、優大君の焼きたてのマドレーヌだったのでしょう。もう残念で残念で」
もう、なにがなんだか、やっぱりわからない。幽霊のようでそうではなくて、舞自身もどうして見えているのか、見えない日があるのかもわからない。でも怖くもなければ、いなくなって欲しいとも思わない。いまはもう、舞の心を支えてくれる大事な存在だった。
「妹さんとも仲良くすごしているようで、安心しましたよ。ですけれどね、あの子が本来いるべき場所を忘れないであげてくださいね」
カラク様と久しぶりに会ったのに、なにもかも知っているような口ぶりだった。
それについても舞はなんとも思わない。この人は不思議な存在で、霊力を持っているだろうから。そして舞はそこに妙な信頼を置いて委ねている。
「わかっています。ここではなく、最後は東京の家族に返すべきだと。父もそう言っていますから」
「なるべく早いほうがよいでしょう。彼女のためです」
信頼している人から、はっきりと言われ、舞が避けようとしていたところに直接触られ胸が痛くなった。
「さて。今日は舞が僕に気がついてくれることがわかったので、これで帰ります。まだ花もないので、森でも散歩しますかね」
『では』――と、久しぶりに麗しい笑みを残して、彼が去って行く。秋によく見ていた黒いウィンドブレーカーとデニムパンツ姿。まだ氷点下とプラス気温を行ったり来たりする気候でコートが必要なはずなのに、あの薄着で平気な様子は去年出会った時から変わらない。
背中を向けてまだ白い雪小径を去って行く様子を、舞はじっと見送る。木立が重なり道が見えなくなるそこで、彼の姿もふっと消えるのだ。木立が重なっているから見えなくなるのか、人間の視力で限界になるところで消えるのかはわからなかった。




