③ 納屋でひとり
北海道の冬休みは、一月の下旬まで。とうに三学期は始まっていたが、美羽はすぐに転校手続きをして士別市の中学校に通うことになった。
父が毎朝毎夕、車を出して送り迎えをすることに。
二月も半ば、北国の冬がいちばん厳しい頃。まだ白銀に凍てつく丘の町。風が吹けば地面から雪が舞い上がり、青空の日でも景色は白く煙る。晴れた日はまばゆい光が雪から反射する。強い吹雪の夜は、慣れない美羽は怯えて、舞の部屋に訪ねてくることもあった。もうお父さんに甘えられる歳でもなければ、まだ会って間もない実の父になんてすぐには甘えられない。でも不思議かな。やっぱり姉妹なのか。狭いベッドで抱き合って眠る時に伝わるぬくもりは、ずっと前から知っているように自然と溶け合うものだった。そこに舞は、血の繋がりを感じていた。
父とずっと二人だった。兄弟姉妹なんて考えたこともなかった。だから余計に感じる。この子と私だけが持つ、似ているものを。
日が長くなってきた夕に、今日も父と美羽が学校から帰ってくる。
美羽は毎日、勝手口から帰ってくる。
「ただいま。お姉ちゃん、大ちゃん」
オーナーの父がいない間の留守は、優大と舞がしている。今日は開店日。真冬だから人が来ないと思っていたが、店を開ければ地元の人や、近隣の市町村から仕事で通った人、スキー客もお店の噂を聞いて訪ねてきてくれ、満席とは言わずともそれなりの来客がある。ちょうどお客様が引いた後で、美羽の帰宅と共に早めの店じまいをした。
美羽は帰宅すると制服から私服に着替え、大人たちが仕事で忙しく行き来しているダイニングへとやってくる。
「美羽、寒かったね。いまあったかいものを作ってやろう。なにがいいかな」
「今日も、ホットチョコレートがいいな」
「よしよし、剛パパ特製のホットチョコレートを作ってやろう」
父が嬉しそうにエプロンをして、店じまいをしたカフェ厨房へと向かう。
ベーカリーの厨房にいた優大も顔を出す。
「美羽、おかえり。マドレーヌを焼いておいたからな。姉ちゃんと食えよ」
「ありがとう、大ちゃん。あ、いまパパにもお話ししてお願いしたんだけれど、明日、仲良くなったお友達が三人来るの。パパがいいよって言ってくれたんだけど……」
「お、女子会をするってことだな。いいぞ。大ちゃんが美味い菓子を焼いてやる。なにがいい」
「アップルパイ! 大ちゃんのが最高。東京でも食べたことないもん!」
お、そうかそうか? と、優大はもうすぐにその気になって嬉しそうな顔をしているから、舞は密かにクスリと笑っている。東京でも食べたことがない、俺のがいちばんと言われたら、それはもう作るしかないだろう。
「まかせろ。大ちゃん、ちゃんと作っておくな」
しかもいつの間にか『ダイちゃん』と呼ばれていて受け入れている。
「お姉ちゃん、一緒におやつするよね」
「するする。優大君のマドレーヌ、いくつも食べちゃうんだよね~。雪かきしをしてカロリー消費しなきゃ」
「わたしも手伝う。雪かき大好き。夜中に除雪車が来る音も好き。雪国ってかんじ!」
「えー、私は好きじゃないな。雪は重いし、除雪の音で目が覚めちゃうじゃない。この季節になると、うんざり。早く春になってほしい」
「そうしたら。この家の側に、球根のお花が咲き始めるんだよね。楽しみ」
ここに来た時に自分を押し殺していたような『おりこうさんな少女』の影がなくなり、美羽はすっかり十四歳らしい女の子らしさで、溌剌とした毎日を過ごしてくれるようになった。
最初はおどおどしていたのも当然のことだったが、舞と優大のなんの遠慮もない口悪バトルに気圧されながらも、いつのまにか『パパ』と呼ばれるようになった父が笑って止めもしないので、やがて妹も父と一緒に笑うようになってきた。
毎日父親が雪原だらけの町の中でも丁寧に送り迎えをしてくれること、中学校の同級生たちも、東京の私学から来たワケあり転校生でも『あの花畑カフェの子供』ということで、すんなり受け入れてくれたのだとか。帰宅すれば、職人の兄ちゃんが毎日毎日おやつの焼き菓子をつくって待っていてくれて、パパが温かい上等のドリンクを、その日の気分に合わせて何種類も作ってくれる。お姉さんとは絵本とお花のお話を。怖い夜は女同士抱きあって眠る。
朝になると吹雪いてどこもかしこも雪で視界が悪くなることさえも美羽は感動し、晴れ渡る青空の日も真っ白な白銀に包まれる丘が輝き、空中にきらきらと舞うダイアモンドダストを初めて見た日は、逆に無言になってずっと見つめていた。
そんな日々を半月ほど過ごしたら、すっかり馴染んだ毎日を過ごすようになった。
「ほれ、焼きたてだ。少し休めて冷ましたものもあるかお好みで」
「はいはい、こちらも出来たよ。娘たち。お父さんも一緒にいただこうかな。優大君もどうかな。カフェラテ淹れるよ」
お兄さんとパパがささっと極上のおやつを作ってくれるこの時を、美羽はとっても楽しみにしている。こんなの東京ではあり得ないと毎日言う。
ダイニングテーブルに、姉妹ふたりで先に席に着き、温かいうちにご馳走になる。
「パパのホットチョコレート大好き」
「私も大好き。冬になると良く作ってくれたんだ」
「いいな。お姉ちゃん。珈琲屋さんのお父さんが作ってくれていたなんて」
「私はママとお買い物とか憧れたなあ」
「わたし、お姉ちゃんと買い物したい」
「私もしたいしたい! 旭川とか札幌でお洋服とかカフェ巡りとかしたいよね」
父が『娘たち』にと嬉しそうに作ってくれたドリンクを挟んで、和気藹々と妹と笑い合う。
そこへカフェラテができあがり、先に優大がダイニングに入ってきた。
舞の隣へと座るのが最近の優大のポジションだった。美羽の隣は父が座るようになっている。
「やっぱ、似てるな。舞と美羽。いま一緒に笑った声も似ていた」
優大に言われ、舞だけではない、美羽も嬉しそうに微笑んでいる。
「どれどれ、パパも仲間に入れてもらおう。マドレーヌがなくならないうちに!」
美羽がいる時の父は、自分のことを『パパ』と言うようになった。いきなりまだ少女の娘が出来たものの、娘を一人育てた経験は伊達ではなかった。ソフトに女の子に接する父はまさに『パパ』であって、美羽もすっかり安心をして、そして遠慮なく甘えてくれている。連れ子結婚をしてできた父親は、やはり子育て経験がなかったり、向き合おうとしなかった分、美羽の心を閉ざしてしまったのだろう。舞の父はあっという間にその扉を開けた。美羽はもう、ここに来た時の『おりこうさんにしなければ生きていけない娘』ではない。
皆で楽しく過ごしたお茶のあと、日が暮れようとしていたが、舞はスキーウェアを着込んで外に出る。納屋までの道は雪で埋もれるため、時々雪かきが必要だったが、数日前に雪道を作ったばかりなので、今日はそのまま歩いて行ける。
雪が重そうに屋根に乗っている納屋を、数日ぶりに開ける。秋に収納した道具の点検とプランターの数と種類を確認する。――つもりで来たが、ウェアのポケットにはまだ温かいマドレーヌが入っている。それを取り出し、包んでいるラップを剥いで、口に運ぶところで止める。しばらくその格好でいる。
ひとりのままだった。あの人が来ない。
「妹が来たんです。仲良くしています。どんな子が来るかなと緊張して構えていたのに、こんなに楽しくて、あんなに愛おしい存在ができるとは思いませんでした」
まだマドレーヌを口元に近づけたまま、舞は独り言つ。
「あの時、どこに行こうかなんて考えていなかったけれど、とにかく気が済むところまで走りたかったんです。たぶん、私、この納屋へ向かうとしていました。そこで貴方に会えなかったら、きっと森の中へ駆けていた。わかっていたんですか? 私がそこへ、貴方に会いに行こうとしていたのを。その晩、貴方が言ったとおりに激しい吹雪になって、外はホワイトアウト状態だった。この森がどこまで続いて、どんな道になっているか知らないけれど、きっと危なかったんでしょうね」
妹が家を飛び出して、見知らぬ男について行こうとしていた。その気持ち、本当はわかる気がする。なにも考えられないほどに気持ちが追い詰められて、自分がどうなるかなんて考えていない。とにかく、どこかへ、自分をぶつけたかった。でも誰か受け止めて――。美羽は知らぬ男で、舞はカラク様だったのだろう?
冬の早い夕暮で、もう外は暗くなっていたけれど、森の入り口にあるアカエゾマツに止まっているいつものカラスなのか、カアと鳴く声が聞こえた。
「ありがとうございました……」
涙が滲んできた。そして舞はそのマドレーヌをついに頬張ってしまう。
いつもならここで『今日のおやつですか』と、優美な微笑みの麗しい兄様がやってくるはずなのに。あれから会っていない。何度かこうして納屋にきて、優大の焼き菓子を持ってきても現れない。
冬だから? 花が咲いたらまた来てくれる?
「あのとき、どうして。アイヌの姿をしていたのですか? カラク様はアイヌだったのでしょうか。それともカムイなのですか。強情な熊のユーカラのように、霊魂だけが彷徨うカムイ……?」
雪降る風の中、アイヌの模様がある晴れ着が翻って舞を包んでいた。あのときの彼が鮮烈に脳裏に焼き付いている。
もう会えないのかもしれない……。
また外からカラスの鳴く声だけがした。




