⑥ カラク様が触れた夜
「い、妹って……。え、だって……。十四歳って、お父さんと別れてすぐにわかった子供ってことだよね。なんで、なんでお父さんに知らせずに、たったひとりで産んで育てていたってことなの……」
何故。結婚まで考えた男の子供を身ごもって、黙っていられたのか。シングルマザーとして育てていくことが、どれだけ厳しく困難なことか。本来なら、結婚はしなくても父に報告して、認知なりしてもらい、養育費をもらう権利はあるはずだ。子供のために、そうしてほしいと思うはず。だが、その支援の権利を蹴ってでも、父に隠して産み育てていたその理由はなんなのか。
「……私のせいなの? あのお姉さん、本当に私が気に入らなかったの?」
ずっと心に押し込めていた疑念が、二十九歳になろうとしている舞の奥底から熱く湧き上がってくる。十四歳だったあのときの、不安と哀しみと情けなさが再活動をし、大きな波になって押し寄せてくる。
「違う。舞のせいじゃない。お父さんのせいなんだ」
子供だからと告げられなかったその理由を、大人になった娘へと父が告げようとしている。でも、やっぱり言えないと父が顔を背けた。
「はっきり言ってよ。私のせいだって。言えないから、お父さん、結婚をやめて彼女と別れた理由を、私には言えなかったんでしょう」
「違う、本当に違う……。ただ……」
「ただ、なに!」
椅子から立ち上がり、テーブルの向かい側にいる父へと舞は身を乗り出し迫る。もう、舞も躊躇わない。父の男性としての事情は、父だけのものだと思って問わずに過ごしてきたが、もう聞かずにはいられない。
「舞が、お母さんにそっくりすぎて。私が……舞も菫のことも愛しすぎて、それが消えない家庭では私は幸せになれないと彼女が言い出したんだ。彼女は私にはなにも告げずに、いつの間にか北海道を出て行った」
やっと告げられる、あの時の真実に舞は硬直する。力が抜けて、すとんと椅子へと腰が落ちていった。
「私のせいでもあるじゃん」
「菫とそっくりに生まれたのは、舞のせいではない。結婚をするなら、舞と菫の存在は認めてもらえないと家庭は作れなかったと思っている。彼女とはそれが乗り越えられなかった。それだけだ」
「お父さんに黙って消えちゃったということなの」
「取引先の社員だったから、冷却期間をおいているうちに、彼女がなにもかも引き払っていなくなっていたんだ。連絡すらつかなかった。青森の実家にも帰っていなかった。いや……、親御さんが会わせてくれなかったんだろうな。妊娠がいつわかって、彼女が生む決意をしたのがいつかもわからない。でも、十五年ぶりに会った彼女は連れ子を受け入れてくれた男性と結婚をしていたよ。彼女から連絡をしてきてくれて、いま住んでいる東京まで会いに行くことにしたんだ」
ここでまた舞は腹立たしさが湧いてきた。
「お父さんを冷たく捨てたんでしょう。子供が生まれたことさえ、知らせたくないほどに離れていったんでしょう。なんでいまさら」
また父が思わぬ事を告白してくる。
「その子を、預かって欲しいと言われた」
はあ!? 結婚して邪魔になったっていうの!? まず思いついたのがそれだった。
「どうして、今頃なの! 本来なら、妊娠がわかった時に、お父さんに認知してもらうようにするもんなんじゃないの!」
「いまから認知しようと思っている。血縁の父であれば、未成年のあの子を預かることができる」
「まさか。その子を本気で預かる気なの! まずあの人を、ここに連れてきてよ! いまになってそんな、血の繋がった家族がいました。実は繋がっていました。あなたにも責任があるから、引き取ってくださいって、そっちのほうが無責任で、私は迷惑! あのとき、私がどれだけ二人の間を邪魔したと……、思って……苦しかったか……」
怒りながら、涙が出てきた。十四歳の少女の頃の気持ちが、いまになって吹き出してくる。
「舞、悪かった。子供のおまえに、母さんに似ているのが気になると言われて別れたなんて言えなかったんだ」
「あの人がママになるって楽しみにしていたのは本当なんだから……」
「彼女もそれはわかっていたよ。お父さんもだ。だから結婚をしようとしたんだ。でも、彼女も私を愛しすぎていたんだと思う。誰よりも自分のものになってほしいと願ってばかりいた。彼女も若かったからね。彼女のなにもかもが、男である私に向けられて愛してくれるのは、お父さんも嬉しかったからね」
妻を失ってから得た、熱い恋だったのだろう。父にもそんな幸せを感じる時があったとわかり、それはそれで舞は安堵している。
涙をいっぺんに流したからか、少し落ち着いた舞は、涙を拭いて改めて父に問う。
「どうして、預かってほしいなんて連絡してきたの」
父も苦悶の表情を刻み、ミルクティーを口につけ、ひと息ついた。
カップを置いた父がその訳を話してくれる。
「彼女と夫との間に、いま三歳の男の子がいるそうだ。いちばん手間がかかる時でもあって、思春期である娘の気難しさに対応することとの両立に苦慮しているらしい。あと、ご主人の社会的地位がそれなりに裕福な階層になるらしくて、娘となったその子は私立中学へと進学させた。それはそれでその子も頑張ったらしいんだか、私立入学後もさらなる勉強漬けの毎日で、そのお父さんが厳しい要求をするようになったらしくてね。娘として認めてもらおうと頑張って疲れてしまったんだろう」
良くある血が繋がらないからこその溝でもできて、不登校にでもなったのかと舞は思ったが、もっと違う反抗をしていた。
「家出をして、援助交際一歩手前までのところで補導されたらいしい。私立の女子中学校だから、そこは厳しくて、もしこのことが学校側で問題視されるようになると、退学せざるえなくなるらしいんだ」
いまどき女子中学生の大胆さと危うさが、地方で育った自分とはあまりにも異なっていて、舞は額を抱えて唸る。
「それで? しばらく家族とも厳しい学校とも、危なげな都会とも切り離して、預かって欲しいと言うこと?」
「彼女も小さな子を抱えているし、連れ子結婚で肩身が狭く、思春期でどうにも話し合いにならないと疲れ切っていた。夫も非協力的らしくてね。弟しかかわいがらなくなっているとのことだ」
最低な再婚相手じゃないかと、舞は密かに憤っていた。しかも『十四歳の女の子がどれだけ繊細か』、誰もかれもまったくわかっていない! そう、舞はあの時の自分と妹が重なってしまったのだ。
「そもそも、その子はお父さんの存在をちゃんとわかっているの?」
「少し前まで母子家庭だったから、それはその子にも『父親は別れた恋人だった』ときちんと話していたみたいだよ。北海道でお仕事をしているってね。会えない父親がいることは、その子も理解している」
「こっちにきてどうするの。転校するの。一時的なものなの」
「体調不良で田舎の親戚のところで療養するということで、一時休学にして転校、様子見をするのはどうだろうかと」
「引き受けちゃうんだ。会ったこともない娘をいきなり引き取れると思ってるの!?」
「舞の協力が必要となるから、こうして相談している」
まただ。また舞の一存でなにもかもが動き出すような状況になっている。正直もう、うんざりだ。
「あっちの家族の問題でしょ。娘として引き取って結婚したなら、その新しい旦那さんの責任でしょ! かわいくないってなに!? そんなことすべて承諾したうえで結婚したんでしょ。あ、それともなに? 『俺だけを愛して欲しかった』とか『私だけのあなたになって欲しかった』とか、腑抜けた脳みそで家庭を持っちゃったわけ! こっちに押しつけてくるなら、もっと前に、出来ること、やれるべきこと、あったよね! あったよね!? なんで妊娠したときに、お父さんに報告がなかったの? 結婚しないにしても産むなら産むで、こっちだって十五年前から責任を取れたよね!? ずっと避けて隠してきたくせに、今頃になって責任を取れっていうの!?」
止まらなかった。あの時に叫びたかったことも、今頃になって妹が出現した驚きも、押しつけられるかのような申し出にも。しかも、わざわざ東京まで父を引っ張り出していたことにも!
「舞、やめろ。そのへんにしとけ」
いつの間にか、優大がダイニングキッチンの入り口に立っていた。
「すみません。部屋まで舞の声が……」
ばつが悪そうに佇んでいる優大に止められたことで、また抑え込もうとしたなにもかもが溢れ出そうになった。そうしたらまた、なんの遠慮も要らない家族である父を罵ってしまいそう。
堪らずに舞は立ちあがり駆け出す。入り口にいる優大の胸元をすり抜け、店舗へと入るドアを開け店内用の靴を無造作に履いて、ベーカリー厨房の側にある勝手口のドアも開けていた。
雪がしんしんと降りしきる外へ、舞はコートもなしに飛び出す。どこへ行くなんて考えていない。走って走ってどこかに行ってしまいたい!
「舞、待て!」
優大の声が追いかけてくる。
「待ちなさい、舞!」
その後、少し遠くから父の声も。
知らない、知らない。あのとき、家族になれたかもしれないのに、母と舞の存在を乗り越えられずに勝手に捨てていなくなった彼女のことも、勝手に妹を産んで育てていたことも、黙っていてくれたら父とこのままなにも知らずに過ごしていけたのに、今頃かき乱しに来て。あのとき、家族になってくれていたら!
雪が覆うガーデンへと一直線に走り出したその時、ドンとなにかが舞にぶつかる。前進する舞を強く阻止するなにかが。なににぶつかったのか、闇雲に目をつぶって走っていた舞は、止められたものがなんなのか目を開けて確かめる。
雪が降りしきる中、黒髪の男性が舞を抱き留めていた。
暗い雪空の下でも、その黒髪は虹色の光沢があり、見慣れぬ民族衣装姿――。
紺地に白と朱の文様があるアイヌの衣服をまとったカラク様が!
『どこへ行くつもりですか。今夜はこれから吹雪いて迷子になりますよ。落ち着いて!』
いままで一度も触れられなかったはずなのに。信じられないくらい、ぬくもりを感じていた。
「舞!」
気がつくと、舞は走り出したそこで転んだように、雪の中に倒れて埋もれていた。
「舞、大丈夫か」
呆然と倒れているだけの舞を、優大が抱き起こしてくれる。
「なにしているんだよ。どこに行くつもりだったんだよ!」
焦って慌てるように、いつも彼が着ている黒いダウンコートを羽織らせてくれる。
真っ先に来てくれた彼の背中から父の顔も見えた。
「さあ、舞。中に入ろう」
父も雪の上に跪き、舞の黒髪に被った雪を払いのけてくれる。
「断るよ。舞。ずっと前に、結局、子供だった舞の心に負担を掛けていたんだ。いや、きっとずっとだな。ずっと一緒に暮らしても良かったのに、頑張って頑張って一人で生きてけるようにと家を出て行ったのも、お父さんのせいだ。だから……」
この庭と家に来たのは、どうしようもない理由もあったかもしれない。父が母を思って購入したのも本当の気持ちだと思う。でも、諸々の理由の中のひとつに『出て行かなくてもいいのに、出て行った娘』への父の贖罪だったのかもしれない。自立できるのならば、父の負担にならないのならば、どんな仕事でも良かった。園芸は望んで就いた仕事ではない。もし、舞が父も母もいる家庭で育っていたのなら、どんなことを夢見て巣立っていったのだろうか。父はそう思っていたのかもしれないし、園芸という仕事を全うさせてやりたいと思って、この土地を買う決意をしたのかもしれない。
『舞、よく考えて。舞なら、きっとわかっているはず』
そこにいないのに、あの人の心地よい声が聞こえる。
どうして。今日に限って、あの人に触れられたのか。
どうして。アイヌの姿をしていたのか。
やはり、あの人はアイヌの幽霊? それとも……。
父が泣いている。舞を抱きしめて泣いている。優大も辛そうに俯いている。
「いいよ。私、その子に、妹に会う。連れてきて、ここに」
舞の呟きに、父も優大も目を見開いて驚いている。
その子は、あの時の私だ。心を押し殺して彷徨う少女だから。




