秀次の白昼夢
第一章
死んだ親父はギャンブル好きで何でもこいだった。特にチンチロリンには目がなく、サイコロはいつもズボンのポケットに入っていた。きっと、単純で考えなくてもいいからだろう。ある時持って来たのは一面だけが白い珍しいサイコロだった。
「秀次!見てみろ!これは俺の守り神だ」恐らく製作上のミスだろうが親父は嬉しそうだった。そのサイコロが箪笥の上にちょこんとおかれている。縁側に座って、くい込んだ足の親指の爪を切りながら秀次は深く息を吸い込んだ。
「お袋、いるかー?」
突然、大きな声と共に玄関がガタピシ音をたてる。どうやら、長男の一雄のお出ましらしい。声もでかいが図体もでかい。百八十五センチの体躯は古家と相性が悪いらしく、鴨居の下を通るたび、ゴンと音がする。よくもまあ、毎度同じことを繰り返すものだと、呆れていると、額を擦りながら鴨居下をヒョイと首を竦め居間に入ってきた。
「あれ? 母さんは?」
親離れ出来ない子供のように妻の姿を探す。
「うーん デートだ」
くい込んだ親指の爪がようやく、取れそうだ。失敗して傷つけると後がひりひりと何時までも痛い。一雄の相手どころではない。
「ハィ? デートって誰と?」
「知らない。ウキウキしながら、お洒落して出かけた」
ようやく取れた小さな爪の欠片を陽にかざしながら、目を向けると息子はアングリと口を開けたままだ。『そんなわきゃないだろう。バカかこいつ』ふと、悪戯心が湧いて出た。暇だし、もう少しからかってやろう。
「ここのところ、毎日のように出かけている・・・・・・」
眉間に皺をよせながら少し虚ろげに遠くをみた。
「いつ頃から?」
『やった! 乗ってきた』俺はニヤ付きそうになる顔をふせた一雄には落ち込んでいるように見えるだろう。
「ひと月くらいかなー」
ちょっと溜息を付いてみる。悩めるジジィの表現は結構むずかしい。
「ちょと、勘弁してよ。今更、離婚なんかしないでよ」
やっぱり、こいつはバカだ。あるわけないだろう。そんなエネルギーあるか!
昔から人は良くて、すぐに騙される。嫁にも上手く操られていることに気付いていない。
嫁の恵子に初めて会った時、咲子と2人で首を捻ったもんだ。見てくれは可愛いが、中身隙間だらけだ。 反対しても焼け石に水だと分かっていたので受け入れたが相変わらず、上手く使われているようだ。まあ、それで夫婦仲に問題がなければ、それはそれでいい。
もう、そろそろからかうのも止めよう・・・・・・。
「あのなー」
と、言いかけた時、玄関がまた開いた。
「おかあさん~ 私、上がるわよ」
今度は、長女の洋子だ。何事だ? 咲子には適度に連絡はあるらしいが、俺には音沙汰の無い奴が揃いもそろって・・・・・・何か企んでいるなー 大体子供が自ら訪ねて来る時は九割がた頼みごとだ。 二人揃ったということはもう一人、雁首が揃うということか。
「こんにちは。優衣です。上がりまーす」
案の定だ。早く一雄に訂正しないと、おおごとになる、
「一雄、今のことは冗談・・・・・・」
「あー 良かった早く着いて。優衣、大変だよ。洋子も聞け、母さんが浮気しているらしい」
「えー」
「うそー」
このバカ。なんてこと言うんだ。本人が聞いたら卒倒するぞ。
「なー 父さん、ひと月くらいになるんだよな?」
三人の真剣な目が俺に集中する。
「イヤ、違う!」
じっとりと身体に汗が滲んできた。そそっかしい早とちりの息子を持つと、冗談も言えやしない。
「町内会の集まりだ。浮気じゃない」
「父さん、気持ちは分かるけど、今の内に手を打たないと大変だよ」
一雄は、してやったり、と、ばかり、説教めいた顔を向けて来る。
「そうよ。ややこしいことになると、面倒よ」
ややこしいこと? なんだ? こいつら、何を考えているんだ。
「お前たち母さんのこと、信用してないのか?」
「信用しているわよ。でもねー」
更年期障害が酷い洋子は、汗を拭き扇子で顔をあおぎながら優衣を見る。それまで黙っていた優衣がそっと俺を見た。洋子が畳み込むように、
「お母さん美人でしょ。今年64歳だけど見えないものね。とてもお父さんと3歳違いなんて思えないわ。周りがほっとかないかもね」
長女の言い分に、うんうんと相槌を打ち、
「親父とよく一緒になったなー って、何時も話していたんだよ」
自分のことを棚に上げ、一雄が同調して俺を見る。遠回しに、醜男と、言われたようなもんだ。 ふざけるな! 醜男で悪かったな! 第一、いくら実家とは言え、突然訪ねてきて何という言い草だ。 だんだん腹が立ってきて頭がクラッとする
「もういい! 飯食うから、おまえら帰れ」
足音も荒く台所に行き冷蔵庫を開け、咲子が用意してくれた惣菜をテーブルに並べ食べ始めると、ボソボソと話していた一雄と洋子が
「じゃ、今度、母さんがいる時に来るね」
「お邪魔しました」
バタバタと足音がして玄関がひしゃげるような悲鳴を立てて閉じられた。優衣が台所に来てお茶を入れてくれると、そっと隣の椅子に腰をかける。
「ごめんね、お父さん」
「お前が、悪い訳ではない。気にするな。それより、お前もごはん食べるか? 母さんの漬物うまいぞ。」
「ううん、いいの、お腹まだすいて無いから、それより、お母さん町内会の集まりでしょ?」
やはり、優衣は分かっている。一雄とは頭の中身が違う。
「ああ、何時ものやつだ」
「お兄ちゃんたら、何を勘違いしたのかな?」
「いや、俺が悪いんだよ。ちょっと一雄をからかったんだ」
さすがに気が引けた。一雄だけのせいには出来ない。
「やっぱりネ。お兄ちゃん、あわてん坊だから。お母さんの顔、見たいけど、午後から約束があるの。又、来るって伝えてね」
三人集まったのは気になったがあえて聞き出そうとは思わなかった。どうせ碌な事はない。 優衣を玄関先まで送ると、玄関に置かれた姿見に自分の顔が映っている。さっきの会話が気になり全身を映してみた。身長百七十五センチ、ほんの少し肉が付いている。ついでに後ろ姿も見てみる。『背骨も曲がっていない、ウン、まだまだいける』とひとりごちた。
「ただいまー」
玄関の戸が勢いよく開いて咲子の元気な声が響いた。
「あー 疲れた。秀ちゃん、お腹すいた? お風呂にする? それともあれにする?」
ひと様が聞いたらドキッとすることを言うが、二人の何時もの会話だ。
「あれにする」
「OK、日本酒二本ね。ぬるめ? 熱め?」
エプロンに手を通しながら、笑顔で聞いて来る。
「ちょっと熱めかな」
咲子は良い女房だ。
こいつにはこれから先は楽をさせてやりたい。それでなくても、今まで苦労を掛けたのだから・・・・・・。
「ハイ、お待たせ。ちょっと熱めって、難しいなーどう? 大丈夫?」
俺は頷きながら、テーブルに並べられた菜の花の辛子和えに手をのばした。今日はサバの味噌煮と筍の煮物だ。テレビのニュースは桜の満開を告げ、大勢の人が画面に映し出されている。
「秀ちゃん、明日、運動がてら、隅田川に行ってみない? まだ桜が満開よ。今年は特に綺麗みたい。秀ちゃんと一緒にいきたいな」
人込みは嫌いだ。俺は余り外出をするタイプでは無い。
「退職してからの動と静の落差が、女より寿命が短くなる原因かもしれないよ」
結構ドキッとくる台詞をはかれる。渋々うなづくと、
「やった! 明日、お弁当つくるから朝からでかけようね」
狭い廊下をパタパタと右へ左へと忙しく動く咲子を見ながら、
「花見なんて何年振りだろう」
「うん? なんか言った」
「いや、咲子と花見なんて、いつ以来だろうと思ってな」
「一緒にいくのは新婚の時以来よ。秀ちゃん仕事虫だったから」
***
翌日、出かける段になって、ふと、カメラのことを思い出し、咲子を撮ってやりたいと思った。
「ちょっと待っていてくれ、カメラ取って来るから」
急いで二階に上がり押入れの中にあったカメラを手に階段を下りかけた時、膝が一瞬、震えた。泳いだ手が手すりに掴まることも無く俺の身体は階段下に叩きつけられた。
「きゃー、秀ちゃん! 秀ちゃん!」
咲子の叫ぶ声を聞いた気がしたが、俺は暗い闇に落ちていた ***
誰かが、頬を突いている。鬱陶しいなー 何だ・・・・・・。薄く目を開けると至近距離に女の子の顔があった。
「うおっ! 吃驚した」
身体がふわふわと浮いている。女の子もふわふわしている。
「えっ! どちらさん? ・・・・・・って言うかここ何処?」
ニッと笑った顔で、指をさす方を見ると、ベッドに寝ている俺が下にいる。周りに咲子を始め三人の子供が揃っている。どうやら病室らしいことが白衣の人たちと、白い部屋で理解出来た。
意識の中でスローモーションの世界が広がる。手のひらが手すりを捕まえられず、空を切り、身体が一瞬、宙に回転した。大きな音と共に痛みが走り、咲子の悲鳴を再度聞いた。階段から落ちたことが甦る。幽体離脱か?
「俺、死んじゃったの?」
隣で浮く女の子に聞いてみた。
「大丈夫、生きているよ。だって、サイコロ、『三』だもん」
三つ編みが気になるのか指先でいじりながら、のんびり答える。
「サイコロ、『三』って、何なんだ?」
女の子が差し出した手のひらに一辺1センチ位の白いサイコロが乗っていた。
「あっこれ俺のだ。箪笥の上に置いてあった奴だ?」
コクンと頷いて俺の手に乗せてくれる。指先で転がすと、六面の内、『一』が二つ、『二』が二つ、『三』が一つ、そして何も書かれてない面が一つ、訳が分からないサイコロだ。
「ねぇー これ何? なにか意味あんの? うーんー っていうか、君は誰?」
「ココア」
相変わらずふわふわしながら答えると、サイコロを自分の手に戻す。
「ココア? かわった名前だね。ところで、このサイコロはなんなの?」
「おじさんの予測サイコロだよ」
「予測ってなんの予測?」
「知らない。今のことだけしか教えられて無いから」
おそらく、6,7歳だろう。身長は百十センチくらい髪の毛は赤いカチューシャで止められ両肩から十五センチくらい下まで編まれている。提灯袖の白い綿のワンピースと赤い靴、顔は頬がピンク色で可愛らしい。肌は抜けるように白い。
「教えられて無いって、誰から?」
「神様だよ」
「神様って、じゃあココアちゃんは天使なの?」
「そう、お勉強中なの」
秀次はガクッと来た。もう一度下を見ると、やっぱり寝ているのは自分だ。先ほどより人が増えている、一雄と洋子の連れ合いが孫たちを連れてきたみたいだ。
「やっぱり死んでいるじゃないか。あー 情けない。階段から落ちて死んだなんて、恥ずかしくてご先祖様にも会えやしない」
頭を抱えてしまった俺に、
「だからー 死んで無いって、聞き分け悪いなー」
ココアがめんどうくさそうに頭をかく。
「だって、俺、あそこで寝ているじゃないか。みんな集まっているし・・・・・・」
「もうー、鬱陶しいなー 3日間気絶しているだけだよ。もう1日経ったから、後、2日したら目が覚めて、いつも通りに戻るから心配しなくていいって」
はぁ? じゃ何でここにいるんだ? この状況はどう言う現象なんだ? 思わず猫なで声でココアにすり寄ろうとしたが宙に浮いているのでコントロールが上手くいかない。
「無理しなくていいよ。まだ、初心者マークなんだから」
どうやら見た目より精神年齢は高いらしい。なかなか小洒落たことをいう。
「あのね、おじさんはベッドに寝ているけど、それは人が見るとそこにあると言うことで、実は自由に動けるの。だから、身体をうまくコントロールして思い通りにしていいんだよ。ちなみに、人に触れたりしてみると面白いよ」
そんな話は聞いたことない。知り合いの先の知り合いの話であの世から帰って来た人の話を聞いたが、そんなことはあるはずが無いと思ったし、霊媒師の存在など論外だ。
「触るとどうなるんだ?」
「わかんない~。人それぞれだから」
と、無責任きわまりない。でもまあ、死んでないのなら怖いものはないから楽しんでみようかな? と能天気に思った。
「あっ、そうそう、これ言っとかないと叱られちゃう」
ココアはワンピースのポケットを探り、さっきのサイコロを取りだした。
「これね、おじさんに渡しとくね。『悩んだら振って見てごらん』って、神様、言っていたよ。但し、『白』は出すなよってさ。」
「『白』って何も書いて無い面か?」
「そうだよ」
ココアの身体は少しずつ上空に移動し始めている。焦って聞いた。
「出したら、どうなるんだ?」
「知らない。じゃー またね。バイバイ」
『知らない、じゃー またねー』って一体なんなんだ。ますます訳が分からない。下を見ると、医者が何かを話している。とりあえず降りてみよう。中々バランスが取れないが何とか床に足を着けることが出来た。やはり、みんなには見えてないようだ。
ベッドに横になっている自分の顔をまじまじと見た。薄く口を開け呆けたように寝ている。咲子が両手のひらで俺の手をしっかりと握り、医者の話を聞いている。
「検査は少し血圧が高いくらいで他の異常は見つからないんです。身体の打ち身はありますが、脳波は正常みたいだし、心配はしなくていいと思いますよ。階段事故が多い中、ラッキーでしたね」
「正常みたいって何なんですか? じゃ、何で目覚めないんですか?」
咲子が目を潤ませながら、詰め寄るが、医者も答えようが無いらしく首を捻る。耳に届くとは思わないが、つい声をかけた。『大丈夫だよ。2日経ったら目が覚めるから』一瞬、ピクッと、咲子の身体が反応して、きょろきょろと見回す。『えっ』と、思わず肩に触れてみたが、手は透明感をもって身体をすり抜けた。今の反応は何だったんだろう。
『咲子・・・・・・』今度は変化が無い。良く分からなくなって次は一雄の頭を突いてみた。
「うん?」
手を頭に持っていき擦っている。洋子の頬を突いてみると、手のひらで蠅でも払うような仕草をする。 全員順番に触っていくと、咲子と優衣、一雄の次男、健介の3人以外はたいした反応はない。これはどういうことなのか? 意味が不明だ。考え込んでいたが、視線を感じて目を転じると、健介が薄く笑いかけている。思わず振り向いて後ろを確認したが誰もいない。恐そるおそる自分の顔を指さすと、健介がコクンと頷いた。
「うそだろー 見えてんのか?」
昔から、利発な子供だったが、両親の思い入れの強い兄の真一が目立ち過ぎて、一歩も二歩も引いている間に自分の存在感を薄めて来ていた。俺は真一よりも健介の方が気に入っている。真一にはよく解らないところがある。長男の期待を受け過ぎて本当の自分は殻の中に閉じ込めているのだろう。 今の子供は可哀想に感じることがあるが、俺の思い込みかもしれない。こんな世の中だが、健介は自分に正直に生きている。時々、一雄と揉めるようだが、大事には至っていない。
「ジィの声きこえるか?」
ウンと、頷くとブイサインを送ってきた。『やった!』肩が軽くなった。ただ、会話を人前でやると、健介が精神病院に送られることになる。ふたりになる必要があった。
病室内は答えが出ないまま空気は澱んでいたが、やがて、看護師の女性と咲子、優衣を残し、三々五々散って行った。健介がそっと手をあげて出て行く。振り返ると咲子はジッと手を握ったままだ。その背を支えるように優衣が手を差し伸べている。
「大丈夫よ、お母さん。脳波に異常はないんだから、もうすぐ目を開けて、『よう!』とか言いそうよ」
「いつ言ってくれるのかな? このまま起きてくれなかったら、母さんもお父さんのところに行きたい」
鼻をぐずぐず言わせながら、優衣を見上げる。
「変なこと言わないの! さっき、2日たったら目が覚めるって聞こえたよ。空耳かも知れないけど・・・・・・」
驚いたように咲子が優衣を見つめる。俺もびっくりだ。
「優衣ちゃんにも聞こえたの?」
「えっ! お母さんも聞いたの?」
看護師のいることも忘れ、ふたりして口を開け唖然としている『よし! このチャンスだ』もう一度話しかけてみた。
「大丈夫だよ。すぐ帰るよ」
ワクワクしながら、反応を見たが静止画のように反応は無い。また分からなくなった。
いったい、何のきかっけで伝わるのか数学の難問を解いている様ようだった。こうなると、やはり健介しかいない。頼みの綱を捕まえて話をしなければ。 慌てて病室を出ようとして、ハタと身体が止まった。
『俺、このドア通れるよな?』 なんせ初心者マークだ。上から降りて来ただけで、まだ何処にも動いていない。ドアノブを触ってみたが、やはり、スゥッと空振りだ。ドア全体を腕で押すと徐々に身体が埋もれて行く。こんなシーンを何かでみたことがあるな、向こう側に通り抜けるんだよな。分かっているが、実際にやろうとするとすごい恐怖心だ。
―クッーと、笑いを含んだ音が聞こえた気がして振り向いたが咲子と優衣に変わりは無く、看護師の女性と目が合った。見える訳が無いので無視して恐怖心と戦った。永遠に消えてしまうのではと疑心暗鬼になる。と、言って誰かが開けるのを待つ訳にはいかない。覚悟を決めて身体全体でぶつかってみると、スゥーと廊下に出た。身体をあちこち触ったが異常は無いようだ。
『あー疲れる・・・・・・。そう言えば、俺って眠らなくても、食べなくてもいいんだな。精神的疲れだけなんだ』
改めて考えて、なんとも不思議な感覚に陥った。
『こんなことに時間を取る訳にいかない、早く健介を捕まえなければ』
理屈で考えてもどうしようも無いことに気付き焦りが勢いをつけたようだ。体力はあり余っているように感じ、身体は軽く疲れはまったくない。まるで、10代に帰ったようだ。嬉しくなって走っている―実は空中遊泳だがー
病院の花壇の脇にあるベンチに健介の姿をみつけた。待っていたらしい様子だが空中で走っている俺の恰好はかなり面白いらしく腹を押さえている。
「よーし! 健介みっけ!」
「やめてよ、ジィ! 子供みたいで恥ずかしいだろう」
と、キョロキョロと周りをみる。『まだ、お前は充分子供だよ』と、思ったがこれから先のことも考えて、健介が周りから誤解されないようにしなければいけない。
「健介、周りに分かるのはお前の言動だけだよ。ジィのことはみんなには分からないからな」
軽く脅すと、慌てて口を押えた健介はコクコクと首を振りながら、
「どうすればいいの?」
と、不安そうに聞いて来る。何時も斜に構えているが、まだまだ可愛げがある。
「2人だけになれる場所あるか?」
少し考えている様子だったが、案の定、思った通りの答えが返って来た。
「俺の部屋が一番いいかな?」
唇をあまり動かさずまるで腹話術のようにぼそぼそと話す。
『まあ、そうだよな、お前の部屋しかないよな』
「よし! じゃ行くぞ、案内しろ!」
「偉そうに・・・・・・」
「何か言ったか?」
これから頼みごとをする立場だが、孫に舐められては男がすたる。いい機会だから男気を叩きこんでやろう。
一雄たちが住む家は、JR目黒駅から5分位歩いた先の目黒川近くにあるマンションだ。 恵比寿から救急で白銀にある大学病院に運ばれていたので、電車に乗らずバスにした。乗らなくても空中を移動できるだろうと分かっていたが経験が浅いし、俺はもちろんバス代はかからないからそっちを優先した。 妙に混んでいるため、どうしても身体が他人と触れ合ってしまう。感覚を感じる訳ではないが、気持ちが悪いので上に浮きたいと思うと自然に目線が高くなり頭がバスの天井に着きそうになった。このまま行くと突き抜けてしまいそうだ。慌てて横にすると、乗客の頭がベッド代わりになった。ここで一発、屁をこくとどうなるのかな? 確かめたい欲望に尻の筋肉が緩み始めた時、健介の心配そうな顔が見えた。親指を立てて笑うと、同じように返してきた。うっかり気を抜くとリタイアしてから緩んだ危ない気質が出てくる。少しずつ今の状態に慣れてきているが、まだまだ不安だ。 バスを降りて目黒川方面に歩くと、人の多さに閉口したが理由はすぐに分かった。川沿いに桜並木がみごとに連なり大き目のピンクの花びらが誇る様に咲いている。
「すごいな。いいなー 健介、毎年見られるんだろう? いい所に住んでいるよな」
「べつに、いい加減イヤになるよ。人が多くなるだけじゃなくて、街も汚れるからね」
俺が一雄のマンションを訪ねたのは、購入した時の祝いと二人の孫が産まれた時に来た3回くらいだ。桜の時季に来たことはない。咲子はどうなんだろう? 孫の世話で通ったんだろうな。あの嫁のことだ、きっとこき使ったことだろう。
一雄と一緒になって20年程立つが恵子とは会うことが少ない。最初の印象が良くないせいか中々、理解出来ないでいる。やがて見覚えのあるマンションが見えてきた。9階建ての901号室だ。9階はファミリータイプが三件あるだけで一雄達のタイプは3LDKだ。今では二人の子供が各々一部屋、使っているらしく客間も無い。ベランダと言うかテラスと言うのか分からないが、そこだけがやたら広い。建築法の日照権の問題で建物上部がスライドしているから、総面積はあるが一雄たちの部屋はせまくなっている。
健介はブルゾンのポケットから鍵を取り出しドアを開けた。
「恵子さんは留守か?」
「近くのスーパーにパートに行ってるよ」
「スーパー? 何をしているんだ?」
「レジ打ち」
語彙の少ない話し方をしながら、冷蔵庫から水のペットボトルを出す。俺の方に掲げながら、
「あっそうか、何にもいらないんだったね。いいなー 楽ちんで、金はかからないし」
まあ、確かにそうだが若い健介に言われると違和感があった。Gパンには太い鎖がダラリと輪になり付いている。自分の孫が、ただの怠け者に見えてくる。今は気にしないことにして、とりあえず本題に入らないと時間が無くなってしまう。
「なあ、どうして俺が見えるんだ? 会話も出来るし、反応しているのは咲子と優衣とお前の三人だけだし」
「えっ! バァと優衣ねえも、分かるの?」
「お前程じゃないけど、一度言葉に反応したよ。もちろん姿は見えて無いけどな」
「ふーん。どうしてって聞かれても困るけど、普通に見えているから。最初はびっくりしたけどね。本当に親父たちも分からないの?」
さっき病室で試したことを話すと健介は笑い出した。
「ジィがみんなの傍に行って何かやっているなって、思ったけど、みんなを突っついていたんだ」
今度は横腹を押さえながら大笑いしている。
「でも、お前どうしてその時、周りに話さなかったんだ?」
「だって、変人扱いされるのは嫌だからね。そうでなくても風当り強いんだから。落ち着いて周りみると誰にも見えて無いみたいだったから、これは話さないでいようって判断したんだ。」
賢明な判断だ。大騒ぎされたら俺が困る。それでなくてもややこしいのに。
「実を言うと、明後日の朝には目が覚める予定になっている」
「ああ、そう言っていたね。だからあんまり心配しなかった」
「そこで頼みがある。俺が目覚めた時、傍にいて貰いたいんだ」
「どうして?」
健介は不思議そうに顔を見て来る。この不安感は当事者じゃないと分からないだろうな。
「三日間気絶している訳だろう? 目が覚めた時、今の状態を覚えているかどうか心配なんだ。あと、お前の記憶がどうなっているか知りたいし、全部が無になればそれはそれでいいんだけど、神様と天使見習いの言っていることも気になるし」
健介が飲んでいるペットボトルを落としそうになりながら、吹きだした。
「神様? 天使見習い?・・・・・・。なにそれ?」
健介の目に初めて心配そうな光が宿った。やっぱり、こうなるよなー。健介の気持ちが良く理解できる。 俺自身、嘘みたいな話なんだから。
「まあー、信じて貰えるかどうか分からないけど、一応、話すな」
成り行きを出来るだけ詳しく伝え、ポケットからサイコロを出した。健介はくっ付きそうなほど顔を近づけて、不思議そうに見上げて来る。
「触っていいの?」
「いいと思うよ。何も注意されてないから。振るのはきっと駄目だけど触るくらいは大丈夫だと思う」
健介の指先がそっと触れる。
「ほんとだ、『一』と『二』と『三』しか無い。数字は多分、今回のことから考えて、気を失う日数だと思うけど。でも『白』は何なんだろうね。ちょっと気味が悪いな。出すなよって言われてもね、サイコロだもん。博打だよ。うーん」
腕を胸元で組みサイコロを睨みつける。なるほど、数字は失神日数か、だからココアはまたねーって、言ったのか。だけど、俺が振らなきゃ成立しないだろう。ずーと、やる気に成らなかったら、どうなるんだ? ふたりして考え込んでいると部屋のドアが突然ノックされ慌てた。どこに隠れようあたふたとする俺を尻目に素早く立ち直った健介がドアを開ける。
「帰っていたの? 今日は随分早いのね。話し声がしていたけど、誰かいるの?」
嫁の恵子の声だ。
「誰もいないよ」
わざとらしくドアを全開にする。俺はまたあたふたする。恵子の顔が見えたが、表情は変わらない。当たり前だと思うがどうも、いごこちが悪い。やがてドアが閉じられた。
健介は声を殺してベッドの上で身もだえしながら笑っている。こいつはどうやら俺で遊んでいるらしい。
「ごめん、ジィの恰好がおかしくって」
『バカ野郎! わざとやってるだろう』内心で毒づいたが立場上、我慢することにした。
「じゃ宜しく頼むな」
フローリングの床をポンと軽く蹴ると身体が浮いた。大分操縦しやすくなった。
「ジィ! 何処に行くんだよ?」
「ちょっと、色々見に行ってくる」
「色々って・・・・・・。気を付けて行くんだよ。転ばないでね」
まるで親のように声をかけるが、現状を思い出したらしく
「あっそっか、関係ないよね」
俺は、浮きながら、プリマドンナのごとくターンをして、健介にサービスをした。また、腹を抱えて笑っている。『こいつ、こんなに笑い上戸だったっけ?』
台所を通る時、一応常識として、恵子に挨拶したが、やはり、存在はみえないのだろう。反応が無い。 玄関に向かいかけると、言葉が耳に入ってくる。恵子の独り言のようだ。気になって後戻りすると、呆けたような顔でひき肉をこねている。夕食はハンバーグらしい。
『お父さんに何かあったらどうなるんだろう? お母さん1人に出来ないし、お父さんが寝たきりになったら、介護のこともあるし、やっぱり同居になるんだろうな』
今度はハッキリ聞こえたが恵子の口は動いていない。どうやら心の声が聞こえているようだ。『いやー参ったなー 人の気持ちなんか聞きたくないな。でも、咲子たちや健介の心の声は聞こえなかったぞ。どういうことだ?』頭の中に《?》が増えた。クラッと、くる。逃げよう! 恵子の本心なんか知りたくない、知らなくていい。
第ニ章
両手を伸ばすと気持ちよく登って行く。春の景色が、眼下に広がっていた。車の運転は程よくこなして来たので方向感覚は悪く無い。夜が近くまで忍び寄って、夕方の薄闇が身体を包み込む。視力は老眼にはなっているが遠方はまだ良く見えるので余り不自由は感じない。ただ夜間飛行は初めての経験なので一旦、病院に帰ることにした。大学病院は周りを圧するように建っている。
この中で悲喜交々、人生模様があるのだろう。病室に入ると優衣はソファーで、咲子はベッドの端に頭を乗せうたた寝をしている。疲れただろうなー手を差し伸べようとして無駄なことに気付いた。それより話しかけてみよう。
「咲子、咲子」
ガバッと頭を上げキョロキョロと周りを見るがやっぱり姿は見えていないらしい。
「咲子、ごめんな、心配かけて」
「秀ちゃん? 秀ちゃんなの! どこにいるの! 姿見せて!」
祈る様に両手を組み合わせ、俺を探している声に優衣が目を覚ました。
「お母さん、どうしたの?」
「優衣ちゃん! お父さんが居るの。声が聞こえたのよ」
「えっ!」
優衣がぐるりと室内を見て、咲子の傍までやってくる。母親の身体にぴたっとくっ付き、大きく深呼吸すると、
「お父さん、いたら返事をして。お母さんの名前を呼んで」
二人がゴクリと息を飲み込むようすが、不謹慎だが面白い。こうなるよな、あり得ないことだからな。余り脅かすのも良くないので優しく話かけた。
「咲子、優衣、驚かせてごめんな」
「秀ちゃん!」
「お父さん!」
涙で顔がぐしゃぐしゃになるのも構わず、咲子は両手を振り回し、俺を捕まえようとするが、無駄なことに気付きドッカリと椅子に座った。
「お父さん大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。悪いな心配かけて。あさっての朝には元通りだから、待っていてくれ」
「そう言えばそんなこと、言っていたけど、どう言うことなの?」
「俺にもよく分からんが、そう言うことらしい」
優衣と咲子が顔を見合わせると、お互い頷き合い
「わかった。待っている。もとに戻ったら話を聞かせてね」
「ああ、覚えていられたらな。俺もイマイチ自信持って言えないから。それよりもう帰っていいぞ。疲れただろ?」
「秀ちゃんはどうするの?」
咲子が心配そうに聞いて来るが、ここにいてもしょうがないと判断したのか
「明日、また来る。十時には来るから、秀ちゃん、ここにいてね」
「十時だな、待ってるからな」
隣で会話を聞いていた優衣が、
「まるで、恋人同士みたい」
と、クスクス笑いながら、笑顔を向けて来る。
「イヤーネ、優衣ちゃんたら。親をからかうもんじゃないわよ」
手を振りながら帰っていく二人を見送って、もう一度自分の寝顔を見たが最初と何の変わりもなく呆け面だ。さて、どうするか。眠る必要は無いらしく、一向に睡魔はやって来ない。『あと、一日半ある。時間にして、三十六時間だ。有意義に使わなければこんなことは二度と無いかもしれない。やはり、先日のみんなが訪ねてきた件が気になる。どんな状況か一雄から順番に行ってみようと思った。相手には無断だが仕方がないよなと、くそ真面目な考え方をしてしまう自分に呆れながら上空まで行くと、何色もの光の粉を撒いたように東京の街並みが見える。
『綺麗だなー』
周りに気を配りながら、おそるおそる夜の空を移動した。いつも残業が多いと言っていた一雄はそろそろ家に帰る頃だろう。九階の部屋に入ると、肉の焼けるいい匂いがした。長男の真一も帰っているようだ。居間(今風に言うとダイニングキッチンと呼ぶが、どうもカタカナ日本語は馴染みが悪い)テーブルに三人が揃っている。一雄はまだ帰っていないようだ。入っていくと、今まさに米粒を口に頬張った健介が思いっきり噴出した。
「えー 何だよ! 汚いなー」
「どうしたの? びっくりしたー」
「ゴメン、悪い」
恵子と真一が米粒を拾い出すと、健介が『どしたんだよ』と唇の動きだけで聞いて来る
俺は相手にしないことにした。健介がうっかりミスをすると、面倒臭い話になる。不満そうに睨んでくるが、諦めたらしくホウバリ始めた。あまりの早飯食いに呆れて、
「お前良く咬んでるのか?」
今度は健介の方が無視をした。
「おうおう、イッチョ前にそうきますか」
何も抵抗できない孫を相手に遊んでいると、玄関先でドアの閉まる音がした。疲れた様子の一雄の声が聞こえ、恵子がいそいそと迎えに出る。息子たちは飯をもくもくと食べているが、健介は時々俺を盗み見する。やがてスエットの上下に着替えた一雄が入って来ると
「お帰り」
「ごちそうさま」
を同時に行って息子達は立ち上がった。
「おいおい、それは無いだろう。少しくらい会話しろよ」
親達はどうなんだ? と見ると、ごく普通だ。良く分らん、寮生活でももう少し会話があるぞ。今の男の子はこうなのか? 一雄は良く話したけどな。あとから、健介に聞いてみよう。
「お疲れ様でした。ハイどうぞ」
恵子がグラスにビールを注ぎ、かいがいしく食事の世話をやきながら一雄のようすを見ている。
「ねえ、お父さんの病院に寄って来たの?」
「ああ、顔みてきたが、前と同じだな」
どうやら俺がいない間に病院に寄ったようだ。いい息子じゃないか、元気な時も顔みせろよと毒づいていると、焼き立てのハンバーグがテーブルに置かれた。大き目に切ったひき肉の塊を口に入れる様子は子供のころから変わっていない。一雄の大好物だ。おかげで、我が家の食生活は形を変えて週に三日はひき肉料理が並び、ステーキより安上がりで助かるわと、咲子が喜んでいたことを思い出した。
「お父さん、大丈夫かな? このまま寝たきりなんかにならないよね?」
「医者が言ってるんだから大丈夫だよ」
「そうよね。元通り元気になるよね」
「何だ? お前、余計な心配してるんじゃないぞ」
「そうだけど、もうそろそろ同居しなければいけないのかなって考えちゃった」
「同居? まだ大丈夫だよ。親父達には親父達のライフスタイルがあるんだから」
「だけど、今回のことを考えても私達が傍にいた方が良かったのかなぁって、思ったのよね」
「俺達がいても階段から落ちる時は落ちるだろう」
そりゃそうだ。ごもっとも。単純に不注意なんだから。しかし、同居のこと考えてくれていたんだ。ちょっと、恵子を見直した。
「でも、あの話は出来なくなったね」
「そうだな。まさか真一が医者になりたいなんて、ビックリしたよな」
フー と、溜息を付き楊枝に手を伸ばす。
「今まで貯めたものじゃ追い付きそうに無いよな。親父に相談しようと思った矢先のことだったからな」
ビールの少し残っているグラスを一気に空けると、
「一発で国立に受かってくれればいいけど、二浪、三浪されたらアウトだよな。まあ浪人しなくても医者になるには金がかかるからな。一介のサラリーマンじゃちょっと辛いな」
と、恵子の顔を見る。頷く恵子も複雑なのだろう。息子の夢を壊したくない思いが表情に出ている。
「私、もうひとつパート増やそうかな。真一もアルバイト増やすって言っているし」
「真一は無理だろう。そんなことしたら勉強の時間が減って本末転倒になるぞ。お前だって、身体壊したら元も子もないんだから」
絵にかいたような、くさい家族愛に俺は鼻水が垂れそうになった。『真一ってそんなに頭良かったっけ? うちの家系だぞ、ホントかよ? うーん、でも確かに医者によくある何考えているか、わからないタイプではあるが……ここはイッチョ調べてみるか。だけど、医者になるのにナンボかかるんだ』
よく金とコネの世界だと聞くけど、想像もつかない。とりあえず孫達の部屋にいってみることにした。居間を出ると狭い廊下にそってドアが並んでいる。奥のドアが少し開いて、見え隠れしているのは健介の頭だが無視することにした。先ずは真一からだ。手前のドアが真一の部屋だろう。ドアを抜けると六畳くらいの部屋の中にいい匂いが漂っている。コロンでもつけているのかな? 傍によると机の上になにやら小難しい本が積まれている。鼻をぴくぴく動かすとシャンプーのいい匂いがした。どうやら風呂に入ったらしい。顔を覗き込むと真剣な目をして問題集を解いている。本気で医者を目指しているようだが、もう少し様子をみなければ判らない。江戸間の六畳は恵比寿の家より狭く感じる。壁は十センチ程の厚みしかない。真一の性格か、部屋の中はきちんと片付いている。おかげで気分的に通り抜けやすい。隣の部屋が健介の部屋だろう。
「うっ! 臭い」
スーッと、入った壁の先は同じ六畳の部屋だが、体臭と、埃がまざり、何とも言えない空気が鼻を刺す。前に入った時は余裕が無かったが、今回は真一の部屋との落差があり過ぎた。健介が何かを言いかけて慌てて手で口を覆い、片方の手で一番奥まったところにあるベッドを指さす。
「そこに座われって言うのか?」
うんうんと首を振る。
「やだな! もっと臭そうだ」
イヤイヤするように首を横に振る。健介を見ているとパントマイムを見ているようで面白いが、いつまでもからかっていられない。仕方なく腰を掛けると、
「臭いは無いだろう、ジィ! 青春の香りと言ってくれよ」
アホは相手にしたくない。何が青春の香りだ。ただ汗臭いだけだろう。
「どうしたんだよ? 急に来て。来るなら来るで、電話してよ」
言っている間に、気付いたらしく、―あっ、無理かーと、呟く。よく気が付いた偉い! と褒めてやろうと思ったが、アホらしくてやめた。
「今できることをやろうと思ってな。目が覚めたら出来なくなるだろ。一雄と洋子と優衣の様子を見ておこうかなって、父親としての愛情かな」
「いまさらって感じもするけど、まあ、ジィがそうしたいんだったらそうすれば」
と、生意気な口をきいて来る。
「あのな― 健介、そのジィって、何とかならないのか?」
「なんとかって?」
「じいちゃんとか、おじいちゃんとか色々な呼び方があるだろう? お前にジィって言われると、なんか家来みたいで卑屈になりそうだ」
まじまじと俺の顔を見ていたが、突然、プッと吹きだし腹を抱えてベッドに転がる。
「またまた、今更って感じだけど、そんな風に思っていたの?」
「いや、いつもは会話が多くないから感じなかったけど、今は近いせいか気になるんだよな」
「やだよ! ジィはジィなんだから、小さい時から呼んでいるから変えられないね」
譲りそうにない孫を仕方ないなと思いつつ、また、悪戯心が湧き起った。
「実はな、健介、いうこと聞かないと、お前の口閉じることが出来るんだぞ」
一瞬、ピクッとなって聞いて来る。
「口閉じるって?」
「声を出せ無くすることが出来るのさ。あと、嫌な奴に『転べ!』って言うと、本当に転んじゃうんだよな」
疑心暗鬼な顔をして、俺の目をじっと見て来る。やがて、胸を張ると、
「嘘だね、そんなこと出来る訳がないよ。じゃ、試しにやって見てよ」
「ホントにいいんだな? 元に戻らないぞ」
「元に戻せないの?」
「ああ、神様がまだ教えてくれていないんだ」
胸の前で両手をぷるぷると振る。その様子が、またまた面白い。何だかんだ言ってもまだ子供だなーと、可愛くなった。
「嘘だよ。出来る訳ないだろう」
「ジィ! 勘弁してよ。この現実でさえ初体験なんだから」
「ジィだって初体験さ。お互い頑張ろう!」
「何をどう頑張んなきゃいけないのか分かんないけど、慣れるしかないよね」
至極まともに頷く顔が、今の俺には頼もしく感じる。突然、一雄の声がした、
「健介、入るぞ」
声と共にドアが開き、ゆったりと立ち上がった健介はそれに輪をかけて大きくドアを開く。また、あたふたと踊っている俺を見て笑いをこらえている。さっきの仇を打たれた気がして、少し前に思ったことは撤回することにした。
「お前! 誰と話しているんだ。母さん心配しているぞ。誰かいるのか?」
楊枝を口にくわえたまま腹を擦りながら一雄が部屋に入って来る。立派なメタボオヤジだ。我が息子ながらこの腹の出具合は許せない。ウエスト一メートル以上ありそうだ。まあ、会社はそれなりのところで、営業部長だ。このご時世でも酒席はあるのだろうが俺より先にポックリ逝くタイプだ。目が覚めたら説教しとかないといけないな。俺の心配をよそに、頭をボリボリ掻きながら、大きなオナラをする。
「ちょっと! 親父やめてくれよ。そうでなくても臭い部屋だって言われたんだから」
「誰に? 今更何いってんだよ。お前の部屋は昔から臭いんだよ。気にするな。それより健介、今日病院で何となく変だったけど大丈夫か?」
さすが父親だ。よく見ている。健介は一瞬慌てたが俺をチラッと見ると
「何が? なんか変だった?」
偉い! 立ち直った。惚け方も堂に入っているが悪事に流用させないように、今後監視の必要あり‼
「まあ大丈夫ならいいが、たまには勉強しろよ」
と、部屋を出て行く。やはり、詰めの甘いところは変わってない。
「ほらみろ、ジィのせいで嫌味言われたじゃないか。あーぁ、早く卒業して働きたいなー」
「なんだ、お前大学に行かないのか?」
「いかないよーって言うか、いけないだろうー兄貴に金が掛るんだから」
両手を頭の後ろで組み、天井を見上げている。
「真一のことと、お前が大学行くのは別だと思うけど。いいのか? それで」
「いいんだよ。まぁ、それ以前に俺、頭悪いし大学っていう玉でもないから」
「玉で大学行く訳じゃなし、今は大学出といた方がいいんじゃないか?」
「俺、身体を動かすことが好きだし、今もバイトしているから」
「バイト・・・・・・って、何をやっているんだ?」
中学三年だから義務教育だ。一応バイト禁止のはずだが。
「レストランの厨房で雑用係、いろんなことやらせて貰っているよ」
楽しそうに話をする。こいつ、ひょっとして料理人になりたいのか?
「雇っている経営者はお前が中学生だって知っているのか?」
「知っているよ。だから無給でバイトも週に二日だけだよ」
「それはバイトとは言わないな。都合のいい小間使いだ」
「小間使いじゃないよ。河岸にも連れてってくれて色々教えてくれているよ」
それから健介は魚や肉の見分け方。ひいては野菜のことまで嬉しそうに話す。
「健介、料理人になりたいのか?」
あっ! と、口元を手で押さえると
「ジィ! 内緒だよ。まだ誰にも話して無いから」
「なんで料理人になりたいんだ?」
「―兄貴が医者になりたいって俺に話した時があったんだー一年位前だった。俺はその時将来のことは何にも考えて無かったのに兄貴はちゃんと考えていた。凄いと思ったよ。応援するにはどうすればいいのか分からなかったけど、親が出してくれる俺の学費分は兄貴に使って貰いたいと思って。高校ぐらいは出ないと不味いから、この一年で知識を増やして、高校に入ったらバイトで堂々と自分の学費ぐらい稼ごうと思っているんだ。両親にも負担かからないだろう」
驚いた。語彙の乏しいガキだと思っていた健介が、文章立ててキチンと話せることに目が点になった。おまけに、兄思いの親孝行息子だ。とても鎖ジャラジャラのイメージでは無い。
「なんで一雄達に話さないんだ?」
「そんな話したら、反対するに決まってるじゃん。親の面目潰れるだろ。だからあんまり話さないんだ。うっかり口滑らすと不味いからさ」
なるほど、それで会話がないんだ。こいつも自分の抜けさ加減は分かっているようだ。
離れて暮らしていると、理解していないことがいっぱいあるんだなと核家族の欠点をあらためて認識した。
「判った。ジィも応援するから頑張れよ。じゃまたな」
「行っちゃうの」
一瞬、寂しそうに感じたのは健介に対する俺の気持ちのせいだろうか。改めて愛おしさが増していた。
*
話し込んでいたせいか時計を見ると十時を過ぎている。これから洋子の所に行くと十一時になってしまうがどうせ見えないし、会話が出来る訳でも無いから行くだけ行って様子を見ることにした。洋子の一家は小田急線登戸駅にある賃貸マンションの二LDKに住んでいる。夫の幹夫は洋子と同い年だ。運送会社の事務職で一雄の会社のように住宅ローンの補助をしてくれるほど大きい会社では無い。『ローンを抱えると身動きが取りにくいので、賃貸でいいんです』と以前聞いたことがある。これも一つの選択だから俺は何も言わないが、洋子は咲子相手に不満を漏らしているようだ。
見下ろす景観は徐々に暗くなっていた。地面すれすれに飛んでいると建物にぶつかり思わず悲鳴がでた。関係ないのだと思いつつも冷や汗がでる。心臓によくないがどこまで自分の本体に影響があるのか? 今度、ココアに会うことがあれば聞いてみよう。
樹木が多くなったのだろう、周りが暗さを増していた。空気は都内より美味しくなってくる。これ程違いがあるとは思っていなかったので、驚きだ。身体に随分違うのだろうな。恵比寿は交通の便はいいが、仕事をしなければ関係ない。咲子を空気のいいところに住まわせてやりたいな・・・・・・。今からじゃ時すでに遅しの感はあるが。街並みが少し増えてきたころ、登戸の駅が見えてきた。眠りについている家も多いのだろう。駅だけが灯りを我が物顔に放っている。
『確か、駅から二、三分の五階建マンションだと言っていたな』
洋子の自宅は訪ねたことがない。行く必要がないくらい一家でよく恵比寿に来ていた。洋子は来るたびに冷蔵庫を物色して食糧を持って帰る。幹夫が申し訳なさそうに俺をみるが、娘は大概そうらしいから気にするなと声を掛けたのがついこの間の事のように思い出す。大人しくて優しい男だ。そのせいか洋子の尻に敷かれている。
部屋の中は薄暗く、もう寝ているようだ。健康的な生活をしているらしい。いいことだ。中学一年の春菜と洋子が同じ部屋に寝ている。洋子は暑がりなので布団を踏み脱ぎ大の字になって軽い鼾をかいているが、春菜は布団に包まり洋子に背を向け眠っているようだ。よく見ると耳に何かが付いている。顔を近づけると耳栓をしていることに気が付いた。洋子の鼾がうるさいのだろか。そろそろ自分の部屋を持ちたい年頃なんだろうな。女の子の微妙な心理は二人の娘で経験していたが、男の自分には今ひとつ、理解しかねることなので、咲子に任せて来た。今でも範疇を超えるものは咲子頼みにしてしまっている。もう一つの部屋には深い眠りに落ちている幹夫と枕元のスタンドを付け漫画に夢中になっている小学六年の雄太がいた。
「目を悪くするぞ、雄太」
頁をめくる手を止め周りをみるが、一時的なことですぐに漫画に目をもどす。期待はしたが今の状態で俺のことが分かるのは三人で充分だ。これ以上増えると俺の頭の中で小象が踊り出す。今日は病院に戻り、大人しくしていることにした。《明日は明日の風が吹く》死んだ親父が使い古したセリフを思い出した。
*
「秀ちゃん! 秀ちゃん」
咲子の呼ぶ声で、病室の中が朝の光で満たされているのに気付いた。いつの間にか眠っていたらしい。この状態を眠りと同等に扱っていいのかどうか分からないが、結構精神的に疲れたのだろう。身体はまだ動かせない。不安そうな咲子の顔が覗き込んでいる。
「咲子、おはよう」
「あーよかった。おはよう。昨日、約束したけど不安で早く来ちゃった」
「何時なんだ」
「まだ九時半」
落ち着かなかったのだろう気持ちは良くわかる。ありがたいなとつくづく感謝した。咲子には見えないだろうが一応、起き上がってみた。ベッドの上では普通に俺の身体は横になっている。妙な気分だ。
「変わったことは無いか? 大丈夫か?」
「うん大丈夫。ただ救急車呼んじゃったからご近所の人達が結構来てくれて、対応に追われたけどね。昨日、早めに帰ったのに寝れたのは、十二時過ぎちゃった。みんな心配してくれているよ。結構、隠れファンいたみたい。一躍有名人になったよ。良かったね、秀ちゃん」
「言い訳ないよ。鬱陶しいだけだ。まいったなー。明日退院するのに気が重くなったよ」
「平気よ、ちゃんとフォローするから。ところで明日、何時ごろ元に戻るの?」
「階段から落ちた時間だから朝の八時ごろかな?」
咲子は嬉しそうに手を叩くと
「じゃあもう残されたのは二十二時間だね。何が食べたい? 退院祝いしようね。みんな喜ぶよ。秀ちゃんの好きな煮魚でしょ、それから春の野菜の煮物とーあっ体力付けないといけないから唐揚げも作ってそれからー」
病室の扉がそっと開けられ、洋子と恵子が顔を覗かせた。咲子はタイムストップしてしまっている。
「お母さん? 大丈夫? 誰と話しているの?」
洋子が心配そうに聞いて来る。恵子は部屋の中を見回す。
「あぁ、独り言。お父さんに話かけていたの」
素早く立ち直った咲子は何事もなかったように俺の額を擦りながら答える。
「ビックリした。お母さんまでおかしくなったのかと思った」
と、恵子と顔を見合わせる。
「ホント、驚かせないで下さいね。心配しました。そこでお姉さんと一緒になったから良かったけど、一人だったらドア、開けられなかったですよ」
まぁ、一言多いのがこの嫁の欠点だが、さすがの咲子も負けていない。
「あら! 開けないで帰ろうとでも思ったの?」
「だって、どうすれば良いか分からないから」
また、考え無しの言葉を吐く。こういうところが咲子の神経に触るらしく
「分からなくても取りあえずは声を掛けるものよ」
「まあまあ」
嫁姑戦争勃発前にようやく洋子が取り成した。
「お前、いつも一拍、遅いんだよ!」
俺の声が聞こえる咲子だけが反応して、ぷっと吹きだす。
「まあいいわ。恵子さん、わざわざありがとう。お父さん昨日より顔色良いみたいだから大丈夫よ」
「本当だ。何となく良いみたい」
洋子がわざとらしく、調子を合わせて来るのを見て、恵子にも笑みが出た。まったく女は面倒くさい生き物だ。同居なんかしたら俺も一雄も地獄だ。咲子は俺には良く出来た女房だが、常識的なことには正論を吐く。自分にも他人にも厳しく、特に同性に対して顕著にでる。男はすでに切り捨てられているらしく、躾の対象では無いらしい。洋子も優衣も正しく躾けられているので、大きく外す無礼は無い。一時間近く女三人に囲まれていたが、耳が疲れた頃になって、ようやく帰っていく二人を見送ってから咲子に話しかけた。
「俺ちょっと出て来るからお前も帰っていいよ」
「出かけるって、何処へ行くの?」
「洋子の様子を見て来る。こんな機会なかなか無いからな」
それだけで意味を飲み込んだようで頷く。
「分かった。私も帰って明日のお料理の下ごしらえするわ。気を付けてね」
外に出ると春霞につつまれていた。穏やかな気候だが、少し湿り気を帯びないと、花粉が我がもの顔に散り始めている。マスクの売れ行きに製造業者は嬉しい悲鳴を上げているだろう。バス停のところで、所在なさげに立っている恵子を見つけたが洋子はいなかった。余り近寄って心の声を聴くのは嫌だ。洋子を探すことにした。病院は交通の便が悪くバスかタクシーしかない。結構歩くと地下鉄があるがそっちに行ったのかな? 取りあえず向かうと少し太めの身体を持て余すように歩く洋子がいた。地下鉄経由で帰る気らしい。
「地下鉄かー。初めて経験だ。バスとあまり変わらないだろう。行くか!」
簡単に考えていたことをたちまち後悔した。地下鉄は息苦しく、あまりの深さに身体が上手く調整できない。なんとか頑張って恵比寿で地上に出た時は目眩がおきそうだった。おかげで洋子の様子も観察出来なかったが、なんとかはぐれることも無く付いていけた。結局、それから山手線、小田急線と経由し、登戸まで三、四十分、電車の中で揺れていた。久々の乗り物と人に酔い、思わず寄り道もしないで帰る洋子に『一言いえよ。先回りして待てただろうが』と毒づいた。
夕飯の買い物だろう、スーパーに寄ってからマンションに向かう後ろ姿に付いていくと、ご近所さんなのか中年の二人の女性に軽く会釈をする。洋子の背中から緊張感が伝わって来た。心の声は無音だが、雑音のような溜息が混ざる。周りの音を拒絶しているようだ。
「うん? なんだ?」
振り向くと洋子の後姿をみながら聞こえよがしに話している会話が耳に入ってきた。
「ホント、どういう教育しているのかしらねー」
「結構、アバズレらしいわよ」
「なに! 聞き捨てならぬ! アバズレって誰がアバズレなんだよ」
大きな声をだしたが、当然聞こえる訳が無い。洋子を追いかけて顔を見ると悔しさで口元が歪んでいる。娘と会話が出来ないことが今更のように辛く感じた。部屋に入ると春菜が両肩を落としてソファーに座っている。学校はまだ終わっていない時間帯だが洋子の顔を見ると抱き着いて泣き出した。俺には何が何だか分からないが、どうやらあのババアどもが話していたのが春菜のことだということだけは理解できた。
「泣かないの! 春菜は悪く無いんだから堂々としていなさい。我慢できなくなったら今日みたいに早引けしてもいいから、毎日学校だけは行くんだよ」
泣きながらコクンと首を振るが辛そうだ。俗にいうイジメにあっているみたいだ。怒りの炎がメラメラと燃え上って来るが、時間が足りない。残りの時間は十八時間、これじゃ何もできない。初めて時間のないことが悔しかった。春菜の泣き顔が目の前で揺れる。心の声が悲しみを響かせている。抱きしめてやることもできない自分がいる。目覚めたら洋子に詳しいことを聞かなければ。咲子と相談して策を練らなければいけないな。
ふと不安が胸を掠めた。もし、すべてが無かったことになると、記憶が消えてしまう。咲子達の記憶も消えてしまったら、洋子や春菜に何もしてやれない。どうすればいいのだろうか? 健介と話して、何かいい方法を考えるしかない。臭い部屋に入るのは気が進まないが、この際、仕方がないだろう。健介の授業もそろそろ終わる頃だと思い、俺は目黒を目指して全速力で飛んだ。目黒駅に着くと丁度、友人と立ち話をしている健介を見つけたが、友人に誤解をされたら可哀想なので少し待つことにした。だが、女の長話しのように中々終わりそうにない。我慢にも限界がある、
「バカ野郎ー 何時までクッチャベっている! いい加減にしろー」
短気な性格は階段を落ちたくらいでは変わって無いらしい。俺の声に反応した健介の身体がビクッと跳ね、慌てて周りをみる。鳩が豆鉄砲をくったような顔だ。友達が辺りを見るが見える訳が無い。健介に向き直り顔面で広げた手の平を振る。
「どうした? 誰か知り合いでもいたのか?」
「あーうん、悪い! 今日は帰るわ」
「大丈夫か? 顔色悪いぞ。送ろうか?」
気色悪いこというな! 送るのは女だけにしろ! 友人の優しさにもイラつく自分がいた。足早に歩く健介について部屋に入ると、
「ジィ! いったい何なんだよー。俺のプライベートに入って来るなよ」
健介の怒る気持ちも分かるがそれどころでは無い。
「どうしても相談したいことがあるんだ。時間が無いから焦ってしまって。悪い、悪い。」
疑わしげな目でみるが、諦めて聞く気になった健介に、今の状態を残して置く策はないか聞いてみる。しばらく考えていたが
「全員記憶が無くなるってことだろう。メモに残す手しか無いと思うけど、難しいこと書いてもそれ自体が『?』になると、逆効果だからね。そうだ! 短く箇条書きにして誰のことか名前入れとけば良いんじゃない」
「そうだよな。それしか無いよな・・・・・・。だけど誰に預けておくんだ、預けた方も預けられた方も忘れる訳だろ?」
「ジィ、日記書いてない?」
「バカか! 男一匹、日記なんか書くか!」
「男一匹ってー、 関係ないと思うけどなー」
「何だ、お前、日記書いているのか?」
「イヤ、書いてないよ。書いていても悪いとは思わないけど。そうだ手帳は?」
「手帳なら持っている。仕事で必要だったからな。習慣で今年も買ってるさ」
「それでいいじゃない。そこに挟んどけば忘れないよ」
「そうか目が覚めた時開くからな。今のうちに書いとけばいいんだ!」
ポンと手を叩く俺見て、
「書くって何を?」
「階段から落ちた日と退院の予定日を書いとかないと。そうだ! そこに今の出来事をメモっておけばいいんだ」
「それって日記のショートバージョンだよ。何が男一匹だよ」
「日記とは違う! 日記は女々しい。手帳は確認帳だ」
「はぁ、訳わかんない」
健介は呆れ顔だが俺は一件落着した。
最後の夜が近づいてくる。健介の部屋を出てから、夜景を楽しむ自分がいた。こんな経験はもう無いだろうと思いつつ、優衣の住む街に向かった。
*
優衣が独り立ちして三年になる。実家を出たいと言ってきた時、俺は嫁にやるまで家を出ることは許さないと頑張ったが、咲子は一人で住むことは本人にとっていい経験だし、今、許さないと女にとっては出来る期間が無いという。いつも同居する人間がいると、優衣みたいな性格の子は周りの人のことばかり優先して自分の時間を後回しにしてしまうから。自分をみつめる時間は必要だと優衣の味方をする。結婚したら家計を預かるのだから、テッシュ一枚から大切にすることを現実に学ばなければ良い嫁になれない。それに、小田急線の下北沢なんだから近いでしょと、言い切られてしまった。
それでも往生際の悪い俺は、洋子は嫁にやるまでこの家にいたぞと言うと、洋子と優衣は性格が違うでしょ! と一蹴されてしまった。咲子に正論を言われると、ただ可愛いから傍にいて貰いたい、いないと寂しい、一人住まいは危険だし、心配だと思うのは単純に俺の我が儘に思えてしまい何も言えなかった。
押し切られた格好で、送り出す日は拗ねて寝ていた。休日だったのでそれしか方法が浮かばなかった。咲子は、子供みたいと笑ったが、俺は泣きたかった。
だが、時間が立ち、慣れて来ると訪ねてくる優衣を待っている自分がいた。時々連絡もせずマンションの前で待っていると、呆れられたが住んでいる周りをチェックするのは親の役目だ。おかげで、下北沢に詳しくなった。だが、それも引っ越して一年くらい迄のことで徐々に優衣のいない生活に慣れてきた。最後はやはり咲子と二人だけだ。それが夫婦の形だと遅まきながら学習した。
商店街を通り抜け住宅街の始まるあたりに七階建てのマンションが見えてくる。優衣の住む部屋は三階だが、灯りが点いていない。姿が見えないといえども娘の留守宅に入る訳にはいかない。屋上の縁に座って待つことにした。優衣はなかなか帰ってこない。大学は四年生を進めたが、どうしても、保母さんになりたいので、一年でも早く現場に出たいし、短大で資格が取れるからいいと譲らなかった。本人の希望通り、今は渋谷区にある保育園に勤めている。さすがに職場までは行ったことはないが、楽しくやっているようだ。今や保母さんとしても中堅だろう。
もう、十時近い、明日のこともあるから病院に帰らなければと思うが、このまま、優衣に会わないで行くのはなんとなく気掛かりだった。そろそろ帰って来てもいい頃だろうと駅の方を見下ろすと、街灯の逆光の中にふたつの人影が浮かび上がっている。女性は優衣だとすぐに分かったが、もうひとつの人影は知らない男だ。そっと顔が確認できる近さまで降りた。年齢は三十代半ばくらいか、背広をきちんと身に着けてアタッシュケースを持っている。男らしい容貌だが、表情が沈んでいる。隣の優衣もうつむき加減だ。
『何だ? この空気感は?』
男は突然立ち止まると、優衣の腕を取って抱き寄せる。
「ナァッ、何ー、離せ! 優衣を離せ!」
男の頭を殴り、蹴りをいれるが、何の効き目も無い。優衣も俺の声が聞こえて無いらしい。やがて、唇が重なった。
「ギャアーッー、 やめてくれ! テーメー、 許さないぞー 覚えてろー」
俺の声は闇夜に飛び散り消えた。優衣がそっと身体を離して背を向け走って行く。
「優衣さん!」
「やかましい! 気安く呼ぶな」
聞こえる訳が無いと分かっているのに、わめき過ぎて喉がヒリヒリしてきた。男の正体も気になるが、どうして聞こえないのか優衣に確かめる必要がある。三階の部屋の灯りが点き、開け放たれた窓から入る風に、レースのカーテンが揺れている。ふと、下を見ると歩いていく男の後ろ姿が街灯の中で淡い光に包まれている。今まで、男を見送っていたのか。ベランダから覗くと一LDKの部屋の中で、ベッドに腰掛ける姿がみえた。
「優衣、今、いいかい?」
反応が無い。考え込んでいるようだ。無駄かもしれないと思いつつもう一度声を掛けたが返事は無かった。ただ物思いに沈んだ横顔がみえるだけだ。咲子も聞こえないかも知れないと不安になったので、自宅に行くことにした。十一時近くなるが、夜は強いので起きているだろう。久し振りの我が家だ。案の定まだ起きている。
「おーい、咲子、ただいまー」
パタパタと走って来る足音が聞こえ、咲子がびっくりした顔を覗かせる。
「どうしたの? 秀ちゃん! もう、目が覚めたの? 明日じゃないの? どこにいるの? 隠れて無いで出てきて」
立て続けに聞いて周りを探し出すが、やがて自分には見えないのだと納得したらしい。
「イヤ、明日だよ。これから病院に帰るところだ。咲子の顔が見たくなってな、ちょっと寄ってみた」
「ヤーネ、秀ちゃんたら、照れちゃうじゃない! 明日楽しみに待っているから、早く帰って休んで」
「そうだな。そうするよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
と、口を尖らす。唇に触れたがチュと言う音だけ聞こえるようだ。
「うーん、やっぱり、分かんないなー」
と、不満そうだ。楽しい女房だ、話が出来てホッとしたが、疑問に思うことが多すぎた。明日、目覚めて記憶が残っているのか。もし何も覚えていない自分に戻るとしたら、考えただけで背筋がぞわぞわして冷や汗が流れそうだ。ココアに聞きたいことが増えてくる。ココアに会いたいと心底思う。俺はもう一度『天空』に戻るだろうと確信した。