『憑きたい』 零君
――その少女はひっそりと、静かに境内に佇んでいた。
透き通るような白い柔肌に、長い黒髪を風になびかせながら、そこに居座る彼女はどこか儚げでいる。水面に浮かんだ泡のように、触れてしまえばすぐさま消えてしまうような錯覚さえ覚えさせられる、幻惑的な雰囲気を醸し出していた。
話しかけてみたい。その容姿から放たれる、声を聞いてみたいとつい思ってしまう程、僕はその少女に見とれ、惹かれていた。
一目惚れというものなのだろうか。恋に焦がれる思いは、一瞬で、刹那的で、理屈を全て放り投げる。
周りから脚光を浴びるほど際立って目立ったものではない。ただ、その容姿から放たれる素朴さと、純朴さが僕をたまらなく震撼させる。
思わず意識よりも先に踏み出そうとする手足を押えこみ、僕は遠方からその少女を見つめる。
……声なんて到底。そう思い、僕が背を向けその場を立ち去ろうとした時だった。
「ねえ」
心をくすぶるように耳元で囁かれたその声には、透明感とともにどこか寒気を起こさせるような浮遊感を覚える。
咄嗟に振り返るとそこには、先程まで遠目に見ていた少女が微笑みながらそこに揺らいでいた。
彼女には人として成り立たせるものの一部、足が半透明で、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れながら空中を遊泳していた。
「見えて……ますよね?」
独特の雰囲気を持ってはいたが、まさか実体のないものだとは思っていなかったので、僕はあまりの出来事に声を喉奥で詰まらせていた。
「あ、あなたは……?」
口に出すのはそれが精一杯だった。一度心奪われ、背を向けた人が目の前に、異界の姿で浮遊している様がそこにあるのだから。
「私を、あなたの体に憑かせてください」
瞳は真っ直ぐに僕を見据え、その瞳の深さに吸い込まれそうになる。
彼女が何を抱えているのかは知らない。しかし、その、たった一言には彼女の言葉の裏を探らずとも聞き入れるには十分な効力、あるいは説得性が含まれていた。
だから、僕は静かに頭を縦に振る。
「ありがとう」
瞬間、視界がぐらつき、眩暈に似たような感覚を覚える。
暫くその場に腰を屈ませるような態勢でいると、次第に落ち着きを取り戻してくる。同時に、右肩辺りにわずかな重みが感じられる。
首を横へと振り向かせると、そこには彼女の大きな瞳が向き合う形で目先に置かれていた。きゅっと、心臓が縮む音が聞こえたような気がした。
「行きたいところ、あるの」
そう、彼女は目を逸らさずに語り掛ける。僕は目鼻の間数センチの距離にまごつき、一歩、片足を退けさせる。
「あぁ……そう」
彼女は距離の近さに戸惑っていることを理解したのか、その距離を開けていく。しかし、右肩に掛かるわずかな重みは変わらずそこにあり、彼女の存在を僕に知らせていた。
何が目的で、どこに行きたいのか尋ねると彼女は息を吸い込むように口を開け、それを言葉に表し始める。
「私は足が、ありません。けど、あなたに憑いて、いけばここを離れ動けます」
その声は列記とした言葉ではあるのだが、どこかたどたどしく、まるで舌の動かし方に慣れていない幼児のようだった。
「だからお願い、です。私を連れて行って、欲しいです」
そう言って彼女が指示した場所はここからそう遠くはない、霊苑だった。遺族なのか、友人なのかはわからない。だけど、そこにたどり着いたと同時に僕の意思とは関係なしに、ある一つの墓石の前までその足を運ばせていった。
「ここ、です」
周りの墓石と比べると幾分小さく、置かれた花や、造りが他のものより貧相なものに見えた。
僕の隣に少し距離を置いて漂っている彼女は無表情で、その頬に伝うものは無く、淡々とした表情で墓石を見つめている。
その代りなのか、僕の頬には目から零れるものがゆっくりと伝っていた。この墓石に対して何の思い出も、記憶もないはずなのに、ただ無性に悲しいという感情があふれて、涙を流さずにはいられない。
「ごめんなさい、私の、代わりに。私は、流せないから」
これは彼女の悲しみだった。彼女が僕の足を運ばせて、悲しい感情を肩代わりしている。感情の多彩さは人の特権だから。
「この子は私の隣で、私より先に、死にました。別に、話したことはないけど、目でいつも、疎通してました、から」
彼女の死因、そしてその生い立ち等、聞いてはいないし、聞かないでいる。
ただ、当たり前のように当たり前を享受している僕とは違い、日々を拘束され、生きることを縛られ続けてきたことは推察できる。
その重さ、過酷さ、辛さがいかほどのものか、同情の余地もなかった。
彼女の行きたい場所というのはここだけではなく、他にもいくつかあるようだった。とはいえど、流石に一日では回り切れないので、幾日か日を跨ぐ必要がある。
とりあえず、一日を通してわかったこといえば、彼女は僕以外には見えておらず、必要時以外はその姿を消しているということだった。
ただ、肩かかる重みは消えず、常にそこにある。
翌日も僕は彼女とともに、目的の場所へと向かった。
いくつも電車を乗り継いで、人の建てた建造物の群れから、山荘の連なりへと景色が移り変わる様を車窓から覗いていた。
彼女はその必要もないはずなのに、隣に座って無表情に前を見つめたまま何も語らずにいる。
「ここ、私の家」
その指さす先にあるのは山の間にある、小さな村に建つ廃屋だった。人が住まなくなってもう幾年たったのか、家の周りには蔦が這い上っており、周辺には雑草が蔓延っていた。
既に人の気はなく、生活感もまるでない。
「なんの用か知らないが、この家の者はもう死んでるよ」
散歩をしていたのか、腰を曲げた小さな老翁が話しかけてきた。ごわついた服を身に纏い、おぼつかない足取りでその体を支えている。
「もう十年も前に娘さんを亡くしてから、ここに戻ってきてない」
話によると、その娘さんは大病を患って都心の病院に入院したらしい。それから、何年もの闘病生活の末、治療にいたらず、命を落としたとのことだ。
もともと土地持ちだったこの家の者は業者に土地を売ることで何とか費用を工面し、その挙句死んでしまったものだから、絶望に明け暮れたらしく、その後の行方は謎のままだという。
僕はふと、隣に漂う彼女を見つめる。浮かない表情をしており、何も言わずにただ、人の居なくなった廃屋を見つめているのみだ。
自然と僕も気が沈み、晴れやかではなくなってくる。あまりいいものではないが、彼女の心を知れたと思うと、少しはましに思えてきた。
翌日、そのまた翌日も僕は彼女の望む場所へとやってきては彼女の心を感じていた。
何度も涙を肩代わりしたし、彼女の心の起伏や孤独、寂しさといったものを味わってきた。
その場所に訪れるたびに彼女は何かを語り、また周囲の語りから彼女を知り得た。それは到底軽いものではなく、しがらみの中必死に抵抗し、動けない自分を悔やみ、感情の渦の中で泣き叫ぶ彼女の姿を優に想像できるくらいに、僕は彼女を知りすぎた。
知っていけば知っていくほど、彼女に対する気持ちは膨れ上がり、それは一目見た時の物より一層厚く、深いものへと変容していた。
僕らの旅は一月を超え、何もない空っぽの僕を彼女は埋めてくれた。
頑張ろうとしても、頑張ることが許されない人がいる。苦しみの中でさまよい続けるしか道のない人もいる。
そんな人たちの存在を僕は目の当たりにし、そして同時に自分の平凡さ、非凡に対する無関心さを思い知らされた。
それはいつか紐解かれなくてはならなかった、呪縛を鋏で絶たれたようなあっけない感覚だった。
「いろいろ、ありが、とう」
僕はまたこの、始まりの出会いの場へと戻っていた。二人並んで、隣り合って境内に腰を下ろしていた。
「ここ、お母、さんの住んでたところで、一度だけ連れてきてもらっ、た」
未だにたどたどしい口調で彼女はそう言った。
「お母、さんいなくなる前、小さい頃、一度だけここにきました。そこで、遊んでもらって、たのが今でもよく覚えて、います」
物憂げに見つめる目はどこか遠くを見つめているように、空を目でなぞりながら彼女はそう語る。
一人の少女が放つには達観しすぎているような、いやに大人びているような風貌をしていて、僕は自分の気持ちから悲しみを覚えていた。
「私のために、ありが、とうございます」
僕の気持ちなど彼女には筒抜けも同然だった。もちろん、彼女に抱く焦がれた思いも。
「でも、私はこれで最後、です」
そう言った瞬間、僕の右肩から重みが消えた。
憑いていた彼女が僕から離れたのだ。
「いろいろ、ご迷惑、をかけました。ありがとう、ございます」
これはあの言葉。つまり、この先の意味することは一つしかなかった。
「こんな私の、ためにありがとうございます。そして――」
やめてくれという言葉が出なかった。何としてでも引き留めたいのに、もっと、話をして触れ合っていたいのに、肩の重みを感じていたいのに。
「そして、愛して、くれてありが、とう」
僕が彼女の手を掴もうとした瞬間、それはまるで幻影であったかのように無へと昇華していく。
それと同時に、僕の記憶から彼女の存在が薄れていくのを感じた。旅の思い出、彼女の顔、彼女と出会った時に感じた気持ち。その全てが、彼女の消失とともに消えて行き、悲しみの感情だけが取り残されていく。
僕は声にして泣きわめいた。
仕舞いには何に対して泣いているのかもわからず、ただ悲しいという感情のみをぶつけるように泣きわめく。
その声はいつしか枯れて行き、次第に悲しみでさえ、どこかへと消えてしまった。
少し、右肩に異様な温もりを感じた。なぜかはわからない。
ただ、そこに何かがあった。
――僕はその日、夢を見た。