『悩み』 とろろ
わかった気がする。私にとって、彼にとって、一つの物に対しての考え方はまるで違う。私が何事もなかったかのように考えることでも、彼女にとってはそれは重大なことであって、思い悩むことが多い。その度に彼と話すか彼が相談したのをなんだかんだお節介が好きな同級生が私のもとに愚痴交じりに伝えてくる。今まで何度として彼との価値観の違いについて議論になろうとしていたことはあった。
お互いの価値観というものの差は大きいと思っていたけれど、これほど違うとは思わなかった。例えば、何か一つの発言に対して邪推して心の中の不安をあおられて、精神が壊れてかけるまで自分を追い詰めてしまう彼に対して、一方の私はその発言はその発言として何かは考えるものの、深くは考えずにそれはそれとしてあっさり処理してしまう。それこそドライと言われるほどには他人に興味がない。
しかし、彼は人間が大好きだ。彼にとって、その人間の思考を理解することや考えることが楽しいらしく、普段からさまざまな人の話を聞いている。私もそうすることには異論は持たない。他の人を知ることは大事であり、世間には多くの考え方が存在しているから。だからといって、理解できない考えを無理に納得しようとして、精神的にくることを胸のうちに潜めて心が壊れてしまっていっては元も子もない。
正直、他人の思考の理解は消化と同じだと考える。消化は物を食べて、栄養素を取り込んだ後に不要物は排出される。これを繰り返すことで人間というものは出来上がっていくのに対して、彼の場合は食べたものの毒素までをも吸収してしまい、体を壊してしまう。毒素を吸収してしまった体はその毒が抜けるまで体を蝕む。それは彼にとって、ものすごく体力や精神力に影響することである。
「だからこそ、君は無駄に考え込む必要性はないということじゃないかな」
「別に、そんなことないんだけど」
「そんな、いかにも寝不足と顔に証明したように隈を作って何を言っているんだ」
「これでも隠してるんだけどね」
女のほうに指摘された男はおもむろに携帯を取り出して自分の顔を確認していた。その姿はそれはそれは滑稽で、どうしたって、笑いをこらえることは出来ない。くすくすと笑っている。男は不満そうに唇を尖らせて、文句を言いたそうな顔をしている。しかし、女のほうはそんなことを意に介さないように口元を押さえて笑い続けている。そんな姿を見て、男は呆れたように空を仰いで溜め息を一つついた。頭上には七色に輝くステンドグラスが敷き詰められていて、目に優しくない。男はすぐに視線を女のほうに移すが、女のほうも上を向いていた。その横顔は七色に輝き、なんともいえない神聖さをかもし出している。男はよくわからないまま、もう一度上を向く。
やはり、その光は目に良くない。
この部屋には彼女らのほかには誰もいない。ただ、床に薔薇が敷き詰められ、部屋の中央に円卓とソーサーが二つ置いてあるだけ。そんな異質な空間にも関わらず、彼らは話を続ける。
「私にとって、他人とは興味の対象にならなかった時点で見下しているのかもしれないな」
「かもしれない、じゃなくてしているんだろう」
「実際、そうだしな。だが、興味を持った人間には話を聞くし、連絡も取る」
「他人、っていうのは知っておくべきだと思うんだけどなぁ」
「それで何になる? 何かを得られるのか?」
「少なくとも、一人の人間は知ることが出来る」
「一人の人間を知ってどうする。この世には何億人と人間がいる中でたった一人のことを知ってどういった知識が得られる。そんなことをするんだったら、歴史書や民俗学で大多数の人間のことを知ったほうがマシだ」
女の口から出てくる言葉は止まらずに次から次へと出てくる。男は反論しようとするが、ある種、女が言っていることも正論なのだ。確かに、一を知るよりは五を知ったほうが得になるかもしれない。実際に、そういった考え方のほうが多いだろう。勉強だってそうだ。一つのことを突き詰めるよりは多くのことを知っていたほうが得になる。学者などの例外はいるが。だからこそ、男は女のいうことに下手に反論できない。ついでに言うと、この男の精神状態もそれこそ疲弊しているのだ。理解できないことがあり、それが溢れ返って、情緒不安定や不眠、仮眠を繰り返すなど体にも変調をきたしている。それは女のいう損である。だが、損得勘定で動くことは男の中の理念に反する。それが彼の面倒なところで良いところなのかもしれないが。
「理念だのどうだのと並べて正論としようとしているようだが、結局はやはり、馬鹿を見ることになっているんだぞ?」
「別に馬鹿を見たって構いはしないよ。やって後悔する分には俺はいいと思ってる。ただ、その間に文句を言ったりするかもしれないがな」
「そんなことをするんだったら、最初から関わらなければいいものを」
「それでも、俺は人間が好きだから。面倒くさい性格だとか言われるかもしれない。だけど、僕にとって、人を知るということは最大の喜びなんだ。悪いことが目に付いてしまうかもしれない、自分に火の粉が掛かるかもしれない。それでも、好きなことは止められない。 君だって、こうして興味がある人間とは話すのがすきなんだろ?」
「ふむ……」
わからいこともないな。
そう言って女は口角をほんのわずかに上げた。座っている椅子にもたれかかる様にしながら、目の前にあるソーサーを拾い上げて一口すする。男も一口と手を伸ばしたところで女が声を出した。
「私も、他人に興味が湧いたのは久々だな」
「偶にはいいじゃない? こうやって話すのも楽しいだろう?」
「なんてこと、言うと思ったか!」
「はぁ!?」
「それでも私に、こんなことを話させるだけマシなのか」
「意地を張るのもいい加減にしろよ……」
「意地は大切だぞ」
女がカップに口をつけて会話が終わる。男もカップに口をつけてゆっくりと喉に通した。時間がゆっくりと流れていく。これからもこの二人に永遠の問題を話させるように。