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『影華館に告ぐ』 コーヘス・ウドィ  

 紅葉の季節も終わり、そろそろ冬になりかける頃、僕と彼女は旅に出た。あの雪深い谷にある旅館へと。

 

「ふっ……はっ……」

 寒気にあてられ白く吐き出す息はすぐに周りの雪景色に消える。林を通る一本の道は白く覆われていた。隠れた石に躓く男を傍らの少女が支える。

「大丈夫ですかタケル殿? 目的の宿まであと少しです。もう暫くの御辛抱を」

「有難うイサナ。悪いね、僕が人間であるばっかりに足を引っ張っちゃって……」

「そんなことはありませんよ。こんな鬼の身が在るのもタケル殿がいればこそ。お役に立てるのなら何だって致します」

 生えかけた角を頭に持つ小柄な鬼のイサナと色黒で痩せぎすの青年タケル。共に江戸で武士として生活を営んでいる彼らは、人が滅多に来ることがないという渓谷の旅館『影華館』を目指していた。

 なんでも、溶けることのない雪に閉ざされたその旅館には時たま妖怪が訪れ逗留を楽しむのだとか。そんな噂を聞いたイサナが好奇心に顔を輝かせ行きたいと言った。その道がどんなに険しくても、タケルにとってはそれだけで十分と言える理由だった。

「とは言っても……今日中には到着したいのですが、それが叶うのかどうか」

「食糧もせいぜい明日の分まで、なんとか着ければいいんだけどね」

 一面の白、時々緑。そんな景色が続く中を半刻ほど歩くと――

「へぇ!」

「おお!」

 それまでの白に穴を開けたような漆色、そして提灯の明かり。

 間違いない。

「これが――影華館か」

 開け放たれた玄関の奥からぱたぱたと足袋の音が聞こえてきた。

 

「ようこそ我が館へ。見ての通り何もありませんが、ごゆっくりどうぞ」

 スッと大和狼の耳を生やした女将さんが襖を開け出て行った。タケル達は二週間ぶりの客だと言っていた。襖が閉められると同時に二人は炬燵に顔を突っ伏した。

「つ……疲れたぁ」

「寒いし足も棒みたいですよぉ~」

 寒く険しい道を歩いたタケルとイサナの足は見てわかる程に張れ、顔には疲労が色濃く出ていた。

「お腹すいた~」

「眠い……」

 こんな調子で数十分ゴロゴロしていた二人だったが、出されたお茶と暖かい炬燵のおかげか幾らかの休息をとることができた。

「タケル殿」

「ん?」

 ぼーっと木目の天井を見ていたタケルは起き上がりイサナに目を向ける。

「夕餉にはまだ時間があるようなので、旅館の散策などいかがでしょう」

「お、それはいいね。僕も暇になりかけてた頃だし、行ってみようか」

 二人はのそのそ炬燵から這い出ると履物を突っかけ部屋を出る。蝋燭が小さく照らす廊下に木の板を踏みしめる音が響く。

 出た先にも幾つかの部屋を見かけたが誰もいなかった。本当に自分たちが久しぶりの客のようだ。他の人間なり妖怪なりが居れば交流もできたかもしれないのだが……。

「……?」

「おっと、どうしたんだい急に立ち止まって」

「タケル殿、何か音がしませんか」

「音? 僕には聞こえないけどね」

「いえ、確かに音が……そう、水が流れる音のようですね。川のせせらぎでは無く地下から湧き出ている感じでしょうか」

「ふぅん。じゃ確かめてみようか。音の方角は分かるかい?」

「こっちです」

 イサナはタケルの手をとり歩き出す。骨ばった自分と違いその手は細くしなやかで暖かく、いつまでも触っていたいと思えるほど。こんなところで思わぬ収穫だ、とタケルは感じた。

「ふーむ、やはりこちらから音がします」

 鬼と人間の探検はしばらく続いた。

 

 外見からは想像できない宿の内側の広さに戸惑いながらも歩き、二人は館の端までたどり着いた。

「タケル殿……これは……」

「うん、そうだねイサナ……」

 竹筒から止めどなく湧き出るお湯。もうもうと立ち込める温かな蒸気――。

「「温泉ッ!!」」

 温泉だった。

 二人は目を輝かせたままぽーんと着物を放り投げ我先にと飛び込んだ。

「うわぁあったかいですねぇ~!」

「あははっ! もっと早く気付けばよかった!」

 彼らの他には誰もいない露天風呂で彼らは子供のようにはしゃぎ回った。

 湯の掛け合いが一段落ついた頃、イサナとタケルは背中合わせで風呂の中央に座り込んだ。

「ふぅ……。こんなにはめを外したのは久しぶりだねぇ」

「偶にはこのような事もいいと思いますよ。私も楽しめましたから……」

 それから二言三言会話を交わし、穏やかな沈黙が訪れる。立ち昇る白い煙は見上げるうちに空へと消えていく。きっとそこが、地上との境界線。

 お互いが感じる背の温もりを感じながら、時は静かに流れていった。

 

「タケル殿ぉ、もっと飲んでくださいよぉ」

「こらこら、もう四杯目だよ。そんなに飲んじゃダメだって」

 温泉を後にした二人を待っていたのは美味しい料理と地酒だった。

 この地酒、話を聞くに異国から伝わった特殊な製法で造られたものだそう。透き通る綺麗な琥珀色、という普段飲む酒には見られない色が特徴か。一口呑むと香りが鼻腔に溢れ、舌は強い度数にピリピリと痺れる。

 彼らはこの地酒を共に楽しんだが、イサナは特に気に入ったようで先ほどから徳利を離そうとしない。

「大丈夫ですぅ、私は鬼ですから多少のお酒は問題ないんですぅ……」

「ダメだ、飲み過ぎ。普段飲んでるのとは違うんだから。はい没収」

「うぅ~……」

 見かねたタケルは徳利を引き剥がすように取り上げた。すぐさま酔ったイサナによる追撃を警戒するも、手は伸びてこなかった。

「うー、ダメ、ならタケル殿が飲んでください」

「僕が? うん、そのほうがいいかな」

 そもそも空ならこれ以上飲むことが出来ない。彼女に前後不覚になられても困るので、タケルは徳利を傾け琥珀色の液体を口に含む。その時イサナが身を乗り出しぐいと顔を近づけてきた。

「?」

 一体なんだとタケルが一瞬固まった、その瞬間。

「んっ……」

 イサナが唇を押し当ててきた。

「っ!」

 タケルは突然の事に全く身動きが取れなくなった。一方イサナは唇を密着させたまま弾力のある舌で器用にタケルの結ばれた口を開け、含んでいた酒を吸い始めた。

「んっ……むぅ…んくっ……」

 そのままどれくらい経ったのだろうか。総てを吸った鬼の娘はどこか満たされた表情で含んだ酒を味わい、飲み下した。

「んぅ……ぷはっ」

 その行為を見る者は、只々茫然しているばかりだ。

「あぁ……うぁ……」

 予想だにしなかった彼女の行動に考えが追い付かない。彼女が触れていた部分がはっきりと熱を持ち、心臓は今にも飛び出してしまいそう。

 そんな青年を知ってか知らずか、イサナは近くににじり寄る。

「んん……えへへ、タケル殿の分、頂いちゃいました。とっても、美味しかったですよ」

 そのときイサナが見せた、あどけなさと妖しさの混じった笑顔を、タケルはずっと後まで忘れることが出来なかった。

 

 その夜。当然の如く青年はぼうっとした状態のまま、なかなか寝付けずにいた。

 月明かりが降った雪に反射し鈍い白を障子越しに満たしている。浮かび上がる影は穏やかな顔で小さく寝息を立てる少女のものだ。タケルは横目でその姿を捉え、それから視線を天井に向ける。

「……」

 イサナが――口吸いを、した。他の誰でもなく、この自分と。

 確かに酔ってはいた。単にそれが引き起こした気紛れなのか。しかしいくら理性が無くとも、分け隔てなくする事か。好意を抱いていなければ、こんな自分の口から酒を奪うことなど、するだろうか――。

「~~っ!!」

 火照った身体、小さな手。柔らかい唇、貪欲な舌。あの目、あの声。そして、あの笑顔。

「イサナっ……僕は……」

 あの娘が屋敷に引き取られた日から、二人はいつでも一緒にいた。人間、鬼の隔てなく、兄妹のように接してきた。隣にいる存在を当たり前だと、そう感じてきた。思えば、距離が近すぎて見えなかったものも、あるのかもしれない。

「ぐっ、うぅ……」

 止めどなく溢れる激しくも暖かな想いに、堪えきれず青年は涙を流す。

 拭いても吹いても流れる涙は、自覚した想いの総量か。

「タケル殿……?」

 振り向くと瞼を擦りこちらを見るイサナと目が合った。眠たげな顔は青年の異変にすぐさま当惑の色を示す。

「た、タケル殿っ! 一体どうされたのですかっ」

「イサナ……」

 タケルは泣き腫らした目で慌てて寄ってくるイサナを見据えた。

「何があったのですかタケル殿、そんなに悲しまれては――」

 心配そうに見上げるイサナを、強く掻き抱く。

「イサナっ」

 突然の動きに息を呑む音にも構わず、その感触を確かめるように抱き続ける。

「あぁ此処にいる、イサナが居る……っう、ぐっ……」

「タケル殿……」

 夜空に溶けてしまいそうな色の髪を、何度も何度も一心に撫でつける。

 艶やかな髪も、甘酸っぱい匂いも、時折当たる生えかけの角の感触も。今のタケルにとっては何よりも大切に思える。

「イサナ、行かないで……どこにも行かないでくれ。ずっと、僕のそばに居てくれよ……」

 懸命に絞り出した言葉の後には、嗚咽だけが明かりのない部屋を包む。

 そんな彼をイサナは真摯な目でひたと見据え、それから耳元に顔を寄せ囁いた。

「ご心配には及びません。私は、イサナは一人では行きませんよ。これまでも、これからも貴方と、タケル殿と歩んでいきますから」

「――ああ、ありがとう、ありがとう、イサナ……」

 白の満ちる和室に、声を上げ泣く青年と、静かに涙を流す少女がいる。

 一方は人間、一方は鬼。違いだらけの二人が流す涙は、共に暖かな気持ちで出来ていた。

 

「え……憶えて、いないのかい?」

 翌朝。泣き疲れてそのまま眠ったのか、タケルとイサナは同じ布団の中で目を覚ました。お互いの顔が文字通り目の前にあったことに驚き、それから何となくこそばゆいような気持ちで固まっていた中、タケルは思い切って昨日の一幕について聞いてみたのだが――。

「も、申し訳ありません。あの地酒を三杯飲んだあたりまでは憶えているのですが、それ以降は全く……」

 元々小さな体をこれ以上ないほどに縮こませ恐縮しているイサナ。

「じゃあ、夜中の……アレはどうだい?」

「あのコト……ですね。勿論ですよ! 不肖イサナ、たとえこの身が朽ちようと、貴方の傍で共に在り続けます!」

 華奢な腕を持ち上げグッと握り拳を作る。真っ直ぐな志と瞳がタケルを捉えて離さない。

「うん、それはとってもありがたいし、嬉しいことなんだけど……」

 肝心なその前を憶えていないのなら、イサナのあの行為の意味を知る術はない。

 それでも彼女が、共に在っていてくれるのなら、自分と同じ道を歩んでくれるのなら。

「……いや、なんでもないよ。僕にはそれだけで十分だ」

 そう告げて、今度は優しく抱きしめた。

 

 翌日。出立の朝は快晴だった。

「またのご利用をお待ちしていますね」

 唯一人の女将に見送られ、鬼と青年はゆっくりと歩を進めていく。

「いい旅館でしたねぇ」

 にこにこと陽だまりの様に笑うイサナにタケルもつられて口角が上がる。

「今度は向かいのニケも連れてこようか。夏場なんかまた景色が変わっていいかもしれない」

「お、でしたらその時は途中の大滝にも寄りましょうよ! そこで水浴びがしてみたいです」

 雪の積もる道を二人が通り、過ぎれば辺りは再び静けさを取り戻す。

 連れそう二人の足跡はしっかりと刻まれ、それはどこまでも続いていた。


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