鼠 後編
「おっし、そんじゃ俺は寝るわ。お前はどうすんだ? やっぱり鼠が出るまで起きてるのか?」
「ああ、そうじゃないとここに来た意味がないからな」
「そうか、そらなら俺の代わりに鼠を捕まえておいてくれると助かるんだがな」
「せいぜい、期待しないでおいてくれ」
「へへっ」
土井はのそのそとベッドへと大きな身体を横たえた。
時刻は午後一時半。
明日流が土井のアパートに来てから六時間半が経っていた。
(……土井は明日の朝練のために早めに寝たから、やることがねぇな…… ばりばりの体育会系だから、ゲームなんて気の利いたもんもないし、何か持ってくればよかったな)
土井の住んでいるアパートは築何十年かもわからないほど古く、所々軋む個所があったり、天井にはいくつもの染みができていた。
どうしてこんなボロアパートに住んでいるのか土井に聞いてみた。同じ値段でももう少し綺麗なところはいくつもあるはず、そっちでもいいのではないかと。
その問いについての土井の回答は意外なほど簡単だった。
――学校が近いから。
ただそれだけだった。
(土井らしいって言えば、らしいが…… それにしてもなぁ……)
改めて部屋を見てみるが、汚いの一言だった。学校の制服はハンガーに掛けられずそのままになってグシャグシャとなっていし、学校指定の鞄は土埃で汚れている。
さっきまで使っていた机の上も所狭しと物が置かれているが、そのうちのいくつかは明日流が持ってきた菓子類もある。
(どうするかなぁ…… ん……?)
ポケットから振動が伝わってきた。携帯電話のバイブレーションだ。
普段から携帯電話はマナーモードにしてあるので、その振動回数からメールだとわかった。
(未来からか…… なになに、ネズチュー出た~? ……か。出てないっと。はぁ~、やることねーなぁ)
時刻はもうすぐ二時になる頃合いだった。
部屋には土井のいびき以外の音はせず、明日流もそろそろ瞼が重くなり、眠たくなってきていた。
(話に聞いていた時間は深夜って言ってたけど、鼠出ねーな。いつもと違って俺がいるから鼠のやつら今日はおとなしくしてるってことなのか? それに、クソッ…… 眠気も強くなってきやがった。俺も寝るか……)
明日流の記憶はここで一度途切れる。つまりは寝たと言うことである。
次に目を覚ましたのは、窓から差し込む朝日…………によるものではなく、軽く身体に衝撃を受けたからだ。
「うにゃ……? 土井……?」
土井が起き上がったようだった。
明日流の霞む瞳には土井の後ろ姿しか見えない。
(トイレか……?)
そう思った矢先だった。
――カチャ
ドアの開く音がした。
(土井? トイレじゃないのか? 外に買い物に行ったのか?)
どれぐらい寝てたかはわからないが既に深夜、普通ならちょっと気になるところだが、このとき明日流は眠りと言う沼に半分以上浸かっている状態。通常の思考は全く働いていなかった。
(まあ、いっか…… すぐに戻ってくるだろう……)
すぐに瞼を閉じると、再び眠りの沼へと身を沈めていった。
異変に気がついたのは少ししてのことだった。
半分夢から脱したときに何かを聞いたような気がしたのだ。
(……音?)
まだ思考が定まらないが、確かに音は聞こえていた。明日流は耳をジッと澄まして聞いてみた。
シャリシャリシャリシャリシャリシャリ――
何かを引っ掻くような音がリズミカルに聞こえた。
(なんだこの音は? あっ! これが土井が言ってる鼠が引っ掻く音ってやつか!)
明日流はここに来ることになった目的を思い出した。
「おい、土井! 鼠だ! 鼠が出たぞ! 起きろ!」
鼠が逃げてしまっては意味がないので、小声で土井に呼びかける。
だが――
「土井……?」
いくら呼びかけても返事が返ってくるどころか、物音一つしない。おかし
い。何かがおかしかった。
明日流は状態を起こしてベッドを覗き込む。しかし、そこには本来いるはずの土井の姿はなかった。
「土井? どこに行った?」
ふと先ほどのトイレのことが思い浮かんだが、さすがに長すぎる。かなりの腹痛ならまだわかるが、寝ぼけ眼で見た土井の後ろ姿に焦りは感じられなかった。
(それならどこに……?)
シャリシャリシャリシャリシャリシャリ――
依然として音は聞こえる。
明日流はどうするべきか考える。土井を探しに外へ出るか、それとも帰ってくるのを待つか。
しかし、土井はなかなか帰ってこない。
(しゃーない、俺だけでも鼠を見るか……)
とうとう、痺れを切らした明日流は一人で鼠を見に行くことにした。その前に土井が寝ているベッドに触れてみた。
冷たかった。
それは土井がベッドを離れてからそうとうな時間が経っていることを物語っ
ていた。
鼠に気がつかれないように足音を殺して、部屋の入口のドアまで辿りつく。
そうっと、ドアを開き足下を確認する。
鼠はいなかった。
だが、まだ音は聞こえる。
(反対の方か……)
身体が通るギリギリの隙間を空けて、より慎重に外へと出る。ここでドアを閉めようと思ったが僅かな音でもしたら鼠が逃げてしまうと考えてドアは開けっ放しにしておくことにした。
そして、ドアの反対側を覗きみた。
――いた。
壁を引っ掻く音の主は確かにそこにいた。
しかし、音の主は明日流が考えていたような鼠ではなかった。いや、鼠と
言う存在ですらなかった。
そこにいたのは――土井だった。
屈みこみ、壁に向かって爪を立てて、シャリシャリシャリと何度も何度も
繰り返していた。
「……ぁっ……!」
あまりの光景に明日流の口から声にならない悲鳴が漏れる。
それに気がついた土井が振り向く。
明日流と土井の視線が交差する。
そして、
「チュウ?」
土井が鳴いた。
「うわあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
明日流は絶叫した。
明日流が見た土井の顔はおよそ人間とは思えぬものだった。顔は鼻から前
に向かって尖り、目は白目を剥いていた。
絶叫する中、恐怖に支配された明日流は無我夢中で駆け出していた。どこに行くかあてなどないが、それでもここからは一秒でも早く離れたかった。
こうして逃げ出した明日流が、次に意識を取り戻すのは公園のベンチの上だった。どうやってそこまで辿りついたのか明日流自身わからなかった。
その日は学校を無断で休み、翌日登校するとある事件が起きていた。
土井が前日から行方不明になっていたのだ。
一人暮らしなので、行方を知る者はおらず、家族にも何も連絡はされていなかった。ただ、いなくなった日に誰かが持ってきた菓子の残骸と、入り口横の壁に何度も引っ掻いた後があったのは確かなことだった。
それは、あの夜、明日流が見た光景が事実だったことを物語っていたのだ。