鼠 前篇
「はぁー……」
海老原明日流は既に今日六回目のため息を自分でも知らないうちに吐いていた。疲れや不安が原因ではない。その理由は三日前に体験した出来事にあった。
――〝図書室の幽霊〟
学校で噂される出来事に遭遇してしまったからだ。
明日流本人としてはオカルト的な出来事など信用なんてしていなかったのだが、実際に体験してしまうと、それまでの考え方をいささか変えざるを得ないのかもしれないと少なからず思っていた。
未だにあのときの出来事は自分の見間違いだと思うこともできるが、実際に自分以外にももう一人、希皇未来も〝図書室の幽霊〟らしきものを見かけてしまっているため、見間違いと自分を納得させることもできずにいた。
これまで通りに自分の考え方を変えないでいるか、それともオカルトが存在していることを受け入れるか、その間で板挟みにされているのだ。
「よぉー、海老原。なに辛気臭くため息なんて吐いちゃってんよ?」
明日流に話しかける声があった。
「……ん? ああ、土井じゃねーか」
同じクラスの土井が暑苦しく笑っていた。
土井孝雄――明日流と同じクラスの男子生徒である。ばりばりの体育会系
であり、がっしりとした体格をしている。髪も短髪でまさに絵に描いたような体育会人間だった。
「おいおい、いつも一緒にいる未来ちゃんはどうした? お前ら一年通して
いっしょにいるから付き合ってるのか? って、そんな質問は野暮だったな」
土井はにやにやと気持ちの悪い笑みを明日流に向けている。その笑みに対してい、明日流は、
「……別に未来とはそんな仲じゃない。ただ、幼馴染だからいっしょにいる
ことが多いだけだ」
と、切り返す。照れ隠しと言えばそうなのだが、明日流本人としてももう
少し今以上の仲になりたいとも思っていることは確かだ。
「ちぇっ、幼馴染がいる勝ち組の言葉は一人もんには辛いぜ……
ふぁ~……」
眠そうに瞼を擦る土井。
「なんだよ? ずいぶんと眠そうじゃねーか? 寝不足化?」
ああ、首を縦に振る土井の姿は普段と違って弱弱しい印象を受けた。それに顔を良く見ると薄らと目の下に隈ができている。
「ここのところ、俺の住んでるアパートに鼠が何匹か出るみたいでな…… そいつらが壁をひっきりなしに引っ掻くから夜中がうるさくて眠れやしないんだ」
「鼠か……」
鼠と聞いて、そう言えば実際に見たことないなと明日流は思った。鼠はテレビや本なんかでは見ることもあるが、生の鼠はただ一度も見たことがなかった。
「よし、今日は俺、お前の部屋に泊まるわ。鼠みたいし」
「おいおい…… 男を部屋に招く趣味なんか俺にはないぞ。それだったら、未来ちゃんも呼べよ。うへへ……」
今度は下卑た笑みを浮かべる土井。
その顔を見て、
「絶対呼ばねー、お前やらしいことしそうじゃん」
「いや、そんなことしないって!」
「どうだかな」
「いやいやいやいや! マジでそんなことしないって! 信じてくれよ!?」
取れるんじゃないかと思うほど首を振る土井だが、明日流は最後まで呼ぶとは一言も言わなかった。
こうして未来を呼ぶか呼ばないかの無駄なやり取りは暫く続いたが、結局土井が諦めることで一応の決着を迎えた。ただ、未来の代わりに土井は大量の菓子を要求したので、それに対しる無駄なやり取りがあったのはまた別の話となる。
だが、このとき明日流は土井の部屋に行くべきではなかったのだと思い知ることになる。鼠など本やテレビで我慢するべきだったのだと。いや、このとき既に大いなる意思か、邪悪な悪意によって、自ら恐怖に向かって進んでいたのかもしれない。