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蓮蓉月綺譚―月の欠片―

作者: 白藤宵霞

この作品は『江談抄』の説話を下敷きにしたものです。実際の説話、或いは史実とは異なる「創作」が含まれていることを、あらかじめご了承下さい。

 ――鬼の住む楼がある。


 そう聞いたのは昼間のことか。

 聞いたといっても、ふと通り過ぎた人々の声を耳が拾っただけである。

 噂話が好きなのは、唐も倭も……いや、国だけではなく身分さえも関係ないらしい。

 ふとそんなことを思い、男は小さく笑いを零した。

 だが、その笑いに加わるものは何もない。ただ、夜の(しじま)に男の声が空しく響くだけであった。


 人も、ましてや虫の音も聞こえぬ不自然な静寂。

 鬼が住むと言うのも、どうやら噂だけではなさそうだ。


 男は名を真備(まきび)と言う。

 倭国、つまりは日本からやって来た遣唐使である。


 諸道、芸能博く達り、聡恵なり――頭脳明晰な才人だったと、後の書物では評されている。


 さて、そんな人物に周囲は妬み、どうせなら自分たちの手を汚さずに……鬼に食べさせてしまおうと考えたらしい。鬼が住むというこの楼へ、真備を閉じ込めてしまった。

 けれども、彼らの思惑を裏切って、当の本人は些細な恐怖すら感じていないようである。

 倭でも「鬼」と言う存在は信じられていたし、人々は同じように夜の闇に只ならぬ気配と恐怖を感じ、怯えていた。


 だが、どうやら彼は怯えるどころか、寧ろ面白がっている節があるようだ。

 実はこの楼へも、面白半分、噂を承知しての籠城なのかもしれない。


 この楼も、以前は季節の草木に溢れていた。

 春には李に藤の花、夏には橘の香が夜闇に溶け、秋には歌う虫の音、冬には深々雪積もり雪月花。風流を求めて詩人が集まり、毎夜毎夜の宴に灯りの途絶える日はなかった。

 そこへ鬼が住みついたのはいつからか。正確な日にちは、最早、人々の記憶に遠い。


 庭は既に荒れ、人の手はない。ただ自然のままに、そこに在った。


「侘しいことだ……」


 隠し持っていた酒瓶を懐から取り出し、僅かな月明かりと荒野の如き庭とで真備は密やかな宴を始めた。

 楽の音も、朗々と響く詩人の声もなかったけれど、逆に悲哀に満ちた空気は良い酒の肴となった。

 だが、細い月がゆるゆると高く上る頃、灰色の雲が群れを成してそれを飲み込んだ。


 瞬く間に、新月と変わらぬ闇夜になる。


 か細く揺れる、部屋の灯台の光だけを残して真備を闇が取り囲んだ。

 濃い雨の匂いがむんと大気を支配し……間もなく、ザァ――っと激しい雨脚が屋根を叩いた。土が吸い切れなかった水が弾かれて、びしゃびしゃと泥が跳ねる。途端、世界が騒がしくなった。


 ……と。


 その音に混ざって、小さな足音が耳へと届いた。

 どうやら部屋の奥……それも、真備の元を目指しているようだ。


(盗人か、それとも……)


 ――鬼、か。


 好奇心に心躍らせた彼は、そっと口の中で呪を唱えた。と同時に突風が吹き、灯台の火を掻き消した。

 焦げた灯りの残り香が、煙となって闇の中を彷徨う。

 暗視の術のお蔭で、暗闇の中でも何かがやって来るのが見えた。



 ひた、ひた……



 素足が湿気を含んだ床に吸い付き、そしてまた離れて行く。



 スル……シュル、シュル……



 長い薄絹を引きずる不気味な音。そして、



 シャン……シャン……ッ、シャン!



 一際大きな宝玉の触れ合う悲鳴に、その姿がぱっと浮かび上がった。


 少女である。

 年の頃は十五か十六か。たっぷりと豊かな黒髪は結い上げられ、額には睡蓮に似た紅い花弁が咲いている。鎖骨の覗く、長安の都にいる仕女(女官)に良く似た衣。耳飾と簪の宝玉は細かく震え、響き、きらきらと清い輝きを宿していた。

 甘い香りが雨で清められた大気に溶け込んだ。


「申し、申し……」


 大きな黒い瞳を揺らして、紅蓮の少女は真備の方へと声をかけた。

 大人びた容姿とは違い、何処か舌足らずな幼い声だった。


 真備が沈黙を返すと、少女は口を開いた。

 流暢な祖国の言葉が小さな唇から零れだす。


「申し、倭より参られた方とお見受け致します」

「……そなたが、噂に聞く鬼か……?」


 少女の質問には答えずに、彼は尋ねた。


「……分かりません。けれど、わたしが近寄ると何の危害を与えるつもりはないのですが」

「皆、鬼の気に耐え切れない……か」


 その言葉に、少女は哀しそうに瞳を伏せた。

 鬼は、鬼であるが故に生者に死をもたらすと言う。人ならぬ身と人たる身では、馴れ合わないこともあるのだろう。術者にも等しい真備には別段、影響はなかったらしいが……とにかく、この男は何に関しても図太かった。



「……わたしは、唐で生まれてすぐに倭へと渡りました」



 そう話し始めた少女は、蓮蓉(れんよん)と名乗った。


「とあるお屋敷でお世話になりまして、そこの若君――渡月(とげつ)と言う少年を探しているのです。彼はあなたと同じように遣唐使として唐へ渡りましたが、未だ帰っては来ません……」


 だから心配で、ここまで追って来たのだと言う。


「けれど、見つかりません」


 そう言うと、少女は尋ねるように首を傾げた――あなたは、渡月の行方を知りませんか、と。


 だが、その瞳を喜ばせる返事を、生憎と真備は持ち合わせていなかった。


「すまないが、渡月と言う少年は知らない……だが、元服後の名ならば心当たりがあるかもしれぬぞ?」


 おそらく、渡月とは渡月丸――つまりは、幼名であろう。

 遣唐使としてやって来たと言うなら、その少年は既に元服を済ませていたはずだ。ならば、こちらでは大人になった名前で呼ばれていただろう。記録を探すにしても、そちらの方が確実だ。


 しかし、蓮蓉は困ったように首を小さく横に振った。


「渡月とは、幼い頃に逢ったきりなのです。ただ、風の噂に唐へ渡ったと……」

「それでは、答えたくても答えられぬではないか」

「申し訳、ありません……」


 責めるような真備の態度に少女は声を震わせた。

 涙の色の混じった様子に、さすがの彼もたじろいでしまう。思えば、年の離れた妹と言ってもおかしくはない容姿なのである。何とも居心地が悪かった。


 人々を震え上がらせた鬼が、今、こうしてひとりの男の言葉に小さくなっていると言うのも妙な話である。

 そして、そんな鬼に同情する真備もどうかしているのかもしれない。


「分かった、分かったから泣くな。……せめて姓は分かるだろう、屋敷に仕えていたのだから」


 極力、柔らかな声色で彼は尋ねた。

 ぐすんと鼻を啜り、未だ濡れた目元を拭いながら彼女もぽつりと答える。


「安部」

「安部か。それなら、幾人か知ってるぞ……その、渡月がいるかは分からないが……」


 落胆させぬようにと前置きをしながら、真備は覚えのある「安部」家の者を、七、八人ほど答えた。

 全ての名が連ね終わり少女を窺えば、その口の端には嬉しそうな笑みが溢れていた。


「その中で、唐に残っている方は……」

「それは詳しく覚えていないが……いると、思う」


 曖昧な答えだったが、蓮蓉は満足したらしい。

 尚もそこには愛らしい笑みがあった。


「有難うございます……本当に、何とお礼を言って良いのか」

「礼は良い。俺はただ、阿部家のもの名を教えただけだ」


 少女のあまりの喜び様に照れたように言い放ち、彼はごろりと背を向けた。

 掌をひらひらさせて、早く帰れと促す。


「さぁ、満足だろう。俺は明日も早いのだ、そなたも帰れ」

「はい。本当に有難うございました」


 丁寧に頭を下げる気配が、やがてすっと消えた。

 振り返れば少女の姿はなく、嵐の過ぎ去った朝の木漏れ日がそこに静かに降り注いでいるだけであった。


「……結局、一睡も出来なかったではないか」


 少しだけ悪態をついて。それえも、口元の笑みは慈愛に満ちていた。


 唐人たちが来るまで、まだ少しばかり時間があるだろう。

 欠伸をひとつ、真備は浅い眠りについた。


***

 『江談抄』に「吉備大臣入唐の間の事」と言う説話が残されている。

 吉備真備が赤鬼と出逢う話で、この鬼は安部仲麻呂であったとそれには記されている。


 その後、無事に鬼の楼から生還した真備は、唐人たちから様々な試練与えられる。

 だが、楼で出逢った鬼に幾度も助けられ、最後は無事に故郷へと帰ったそうだ。


 賭けに敗れた唐人たちを尻目に、意気揚々と鼻歌を吹きながら船に乗る彼の姿が目に浮かぶようである……と言うのは、個人的な意見だが。


***

 時は過ぎて平安時代。

 小さな童子がひとり、遊んでいた。使い古された鞠を蹴っては、ぽーんぽーんと足は弾む。

 自由気ままに飛び跳ねる軌跡を追って、何処までも走っていく。


 そして、いつしかその足は自然に同化して寂れた屋敷跡に着いた。


 そこには辛うじて小さな池の面影。

 その傍らに、見慣れない大陸風の衣を身にまとう少女がひとり。

 捕まえた鞠を胸に抱いたまま、彼はそっとその姿を双眸に映しながら首を傾げた。


「蓮の精霊さん?」


 そう尋ねる童子の言葉に驚きながらも、少女はゆっくりと嬉しそうに笑った。

 ……そう、笑ったはずだ。けれども、その眦には光るものがある。


「どうしたの、哀しいの?」


 その言葉は、初めてもらったものと同じ響きだった。

 故郷を離れて泣く少女に、少年が始めて投げかけた優しい言葉。


「何処か、痛いの?」


 心配そうに歩みを進める彼へ、いいえと少女は頭を振った。

 哀しいのではなく、痛いのでもなく、涙腺を震わせるのは――嬉しいと言う感情。


 あぁ、間違いない。

 あんなにも愛した月は、何百年もの時を越えて逢いに来てくれた。

 魂は覚えてくれていた……あの幼い約束を。他愛もない、その約束を。


「あなたの、名前は……?」


 蓮蓉が尋ねると、一瞬の間を置いて彼はゆっくりと答えた。



「セイメイ――僕の名前は、晴明だよ」




 そう言って、月の欠片を宿した少年は懐かしい面影で笑った。



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