三話 小さな香り
食後の紅茶もそこそこに、ミシャの目の前でハルは荷物の中身を取り出した。昨日は疲れていたのもあったし、いろいろ話をしていたので、荷物はずっと部屋の隅に置きっぱなしで。
お腹も満たされたところで、いそいそとハルは自分の荷物を引っ張ってきたのだ。
魔法式の教科書らしき、そこそこ厚い書物の次に出てきたのは。
「……香水?」
「はい。香水です」
自信たっぷりにミシャの前に並べられたのは、小瓶に入った香水。かわいらしくラッピングまでされているところからすると、これはプレゼントというヤツなのだろう。
そこに添えられていたのは、懐かしい姉弟子ミレアナの手紙。
例の魔女狩りの一件で助けてもらった彼女は、以降もミシャを案じていたらしい。しかし立場が立場なので動けずに、ちょうどランドールに向かうというハルに手紙などを託した。
――あなたが、幸せでありますように。
そんな文字で締めくくられた手紙を、ミシャはそっと胸に押し当てる。
こちらでの生活が安定したら、自分から彼女に会いに行こう。それまでに、もっと立派な魔女になっていなければ。ミシャはそんなことを、静かに胸の奥で誓う。
「それにしても、香水……かぁ」
太陽の光をすかしながら、ミシャはぽつりと呟く。
確かに、年齢を思うとこれくらいの『おしゃれ』は、してもいい……はずだ。
しかし、問題はつける理由が、特に思いつかないこと。人前に出る仕事ではないから、宝の持ち腐れになりそうだった。しかしそうするには、少々もったいない品である。
例えばジュジュだったなら、まさに最適の贈り物になっただろう。
とりあえず試しにつけてみると、思ったより仄かで優しい香りがした。
少し、どこかで嗅いだ気がして思案する。しかし、これまでそれなりに植物を扱ってきたミシャでも、この香りが何の花やハーブなのか、すぐに答えを導き出せない。
そう、花かハーブだ、ということしかわからなかった。
ふわりとした、優しい香りだ。
「ハルはこれ、わかる?」
「んと……」
ミシャは、香水を軽く吹き付けた手首を差し出す。
ハルは少し嗅いで、やはり首をかしげた。
「メルフェニカの王都なら、植物園がたくさんあるから探せるかもだけど……」
呟くハルは、がっくりとうなだれる。そんなもの、ランドールには存在しない。公園に花はあるだろうけれど。まぁ、悪い香りではないから、買い物のついでにつけるのも悪くないか。
などと思い、もう一度嗅いでいると。
「……何やってんだ、お前ら」
心底呆れた表情のリオが、家の中にズカズカと入ってきた。一応人様の家なのだからノックぐらいすればいいのにと思いつつ、よくあることになってしまったので突っ込む気力もない。
彼はハルに目を向けて、問いかけるような視線をミシャに向けた。
「えっと、この子はわたしの妹弟子で……」
「は、ハル・シェルシュタインです!」
「妹弟子?」
「お師匠様が新しく弟子に迎えた子なんです。今はメルフェニカの魔法学校に通ってて」
手短にハルがここにいる理由を伝える。……よく考えれば、別に説明する必要はないようにも思えたのだが、まだまだ受け入れられていない魔女が増えたとなると、隠せはしない。
妹ねぇ、とリオはしげしげとハルを眺めた。
「ティーより、下か」
「……たぶん」
もっともミシャは、リオの弟ティエリスの年齢を知らないのだが。
しかしハルよりは年上だろうなという気はする。
「で、何やってんだ、姉妹揃って」
「えっと……わたし達の姉弟子が、これを」
「姉弟子ってあれか、宮廷魔女のミレアナ……とかいう」
思い出すように腕を組んだ、彼の視線がテーブルの上の小瓶に向かう。
それは、と問うような目を向けられ、ミシャは香水であることを伝えた。二人でなんの香りなのか考えていたけれど、どうにもこうにも答えの候補すら上がらなかったとも。
「香水ねぇ……」
と、リオは呟いてミシャの腕を掴んだ。袖をまくっていたそこに、軽く吹き付けて手で煽るようにして香りをかぐ。たったそれだけのことなのだが、なぜか妙に恥ずかしい。
自分でつければいいのに、という言葉が出掛かって、しかしミシャはいえなかった。
やけに真剣な表情をしていたので、口を挟めなかったのだ。
「んー、たぶん複数の香りを合わせてるんだな、これ。メインになってるやつに、他数種類ってところか。甘いだけじゃなくて、結構爽やかな……柑橘っぽいのもする」
「わ、わかるんですか?」
「立場上、嫌というほど嗅がされるんでね。あと、一応それなりの場所では俺もつけるし」
「男の人なのに、香水つけるんですか?」
「あ、ハル、あのね。この人は」
「ちょっとした家柄の生まれなんだよ。まぁ、貴族ってやつ。これも嗜みなんだとよ」
面倒なもんだ、とリオはため息混じりに苦笑した。
どうやら領主の息子ということはあまり言いたくないらしい。ミシャも、あんなことさえなかったら何も知らなかっただろう。普段の言動からは、貴族らしさはあまり感じないし。
「にしても、お前みたいなのに香水か」
「わ、悪いですか? わたしだって、もう年頃なんですからっ」
一応、成人とみなされる年齢にも達しているし、結婚だって許される。
生憎とミシャに相手はいないが、教会のエミリアはミシャの年齢で結婚した。まだ生まれていないものの、すでに子供だって授かっている。ミシャも、やろうと思えばできるのだ。
張り合うように睨むと、なぜかリオは気まずそうに視線をそらす。
いつもなら、ここで負けじと睨み返してくるか、嘲笑に近い笑みを浮かべるのだが。
「まぁ……なんだ、お前でもこういうのをつければ大人と見なされるんじゃないか? 見目はそんなに悪くはないんだし。黙っていれば、どこかの令嬢に、見えないこともないしな」
「あ、ありがとうございます……?」
褒められたような気がしてお礼を言ったが、だんだん何か違う気がした。
しかしそれを告げる前に、リオは香水の中身を揺らし、しげしげと眺め始める。
「それにしても、さすが王族に仕えるだけあってセンスがいいな。キツすぎない香りは嫌いじゃない。やっぱり香料を合成するより、植物から抽出した香りを使ったヤツがいいな」
「やっぱり、そういうのって違うんですか?」
「ぜんぜん違う。比べるのは一回で充分なぐらいにな」
いいか、とリオはいつになく真剣な表情をする。
「香料を『作った』ヤツはな……混ざると、ひどいんだよ」
「ひどい、ですか……」
「花とかは、たくさん咲いてても香りが混ざらないっていうか、綺麗に混ざるだろ? あれは多分自然のものだからなんだろうな。人工的に作ったやつは、どうにも自己主張が激しい」
吐き気がする、と心底うんざりした様子で、リオはため息をこぼした。
何でも、貴族のたしなみとして強制参加させられる夜会の類で、毎回令嬢が纏わせる香水の前に死ぬような思いをしているらしい。混ざり合った香りは、ある意味で毒だと彼は言う。
「つけてる本人はさ、自分の香りしかしないんだろうけど……勘弁してくれって感じだ」
ため息をこぼすリオは、どこか遠い目をしていた。
貴族というのは、いろいろと大変らしい。




