現代小説『ブラックブローカー2』人が死ねば、金が儲かる。
「人が死ねば、金が儲かる」
不動産ブローカー松崎は、いつもそう口にしている。
実際、世の中そうなのだ。
人が死ぬと遺産相続となり、不動産は動産となり
お金に変わる。
「人間は裏切る。でも金だけは裏切らない」
黒田富江は、八十二年間の人生でそれだけは間違っていないと思っていた。
夫は二十年前に死んだ。
子供はいない。
親戚とは疎遠。
友人も、もうほとんど残っていない。
それでも富江は困っていなかった。
銀行預金、株式、不動産、現金。
総資産は四億円を超えている。
築五十年の古い家に一人で住み、十年以上同じコートを着て、スーパーでは午後八時の半額シールを待った。
暖房は十九度以上にしない。
電気は使わない部屋から消す。
食パンは一円でも安い店で買う。
そして毎晩、寝る前に銀行口座を確認する。
四億一千二百三十六万八千円。
数字を見ると安心した。
今日も金はそこにいる。
逃げない。
裏切らない。
何も要求しない。
人間より、ずっと信用できた。
そんな富江の家が、大規模再開発予定地の中央に取り残されていた。
周囲の住宅はすでに取り壊され、白い工事用フェンスの向こうでは巨大なクレーンが動いている。
最後に残った一軒。
それが富江の家だった。
ある日、黒いスーツを着た男が訪ねてきた。
松崎と名乗った。
「黒田さん。この土地を一億二千万円で買わせていただけませんか」
富江は玄関の隙間から男を見る。
「安いね」
「では一億五千万」
「帰りな」
松崎は笑った。
「ご主人と暮らした思い出の家ですか?」
富江は鼻で笑う。
「思い出が金になるのかい?」
松崎の笑顔が少し深くなった。
普通の老人なら、ここで亡き夫や家族の話をする。
だが富江は違う。
土地の値段しか見ていない。
「面白いですね」
「何がだい」
「あなたとは気が合いそうです」
「お前みたいな男が一番信用できないよ」
富江はドアを閉めた。
その夜。
金庫を開ける。
通帳。
証券。
権利証。
現金。
一枚一枚確認する。
富江は小さく笑った。
「ほらね」
今日も金は何も言わず、そこにいた。
翌日。
玄関のチャイムが鳴った。
昔の友人、佐和子だった。
「富江、久しぶり」
ドアは開かない。
「何の用?」
「何の用って……近くまで来たからさ。お茶でも飲まない?」
「保険?」
「違うよ」
「宗教?」
「違うって」
「金を借りに来た?」
長い沈黙。
やがて、ドアの向こうから佐和子の声がした。
「本当に変わったね、あんた」
富江は答える。
「昔の私は馬鹿だったんだよ」
「人を信用してたから?」
「そうさ」
佐和子は少し黙った。
「寂しくない?」
富江は金庫を見る。
「全然」
ドアの向こうから足音が遠ざかった。
その夜。
富江は昔の写真を見つけた。
若い頃の自分。
夫。
佐和子。
四人、五人。
皆で温泉旅行へ行った時の写真だ。
富江は笑っていた。
今の自分とは別人のように。
しばらく見つめてから、写真を伏せた。
そして銀行口座を開く。
四億一千二百三十六万八千円。
数字は変わっていない。
それでよかった。
松崎は何度もやって来た。
一億五千万。
一億八千万。
そして二億。
富江は首を縦に振らなかった。
「二億ですよ」
「だから?」
「死ぬまで遊んで暮らせます」
「今でも遊んで暮らせるよ」
「だったら、何のために増やすんです?」
富江は答えなかった。
その質問だけは嫌いだった。
何のために。
理由など考えたことはない。
増えるから増やす。
減るのが嫌だから守る。
それだけだった。
松崎はふと聞いた。
「その金、誰に残すんです?」
富江の顔が変わった。
「誰にもやらない」
「でも黒田さんが死んだら持っていけません」
「死なないよ」
松崎は静かに言った。
「八十二歳ですよ」
富江は立ち上がった。
「帰れ!」
松崎は玄関で振り返った。
「四億円持っていても、一人なんですね」
その瞬間、富江の手が震えた。
「出て行け!」
ドアが閉まった。
夜。
富江は眠れなかった。
誰にもやらない。
そう決めている。
夫は死んだ。
子供はいない。
親戚に財産を渡すつもりもない。
友人?
とんでもない。
なぜ他人に自分の金を渡さなければならないのか。
銀行員にも聞かれたことがある。
「遺言書を作っておかれては?」
「いらない」
「お世話になった方への遺贈も可能です」
「誰にも世話になってないよ」
富江は怒った。
その頃からだった。
人の視線がすべて金庫へ向いているように感じ始めた。
家政婦が財布を動かした。
「盗ったね?」
「触ってません」
「嘘つくんじゃないよ!」
宅配業者が玄関の奥を見た。
「何見てるんだい!」
銀行から電話が来る。
「私の金を狙ってるんだろ!」
やがて家政婦も辞めた。
最後の日。
玄関で泣きながら言った。
「黒田さん、誰もあなたのお金なんて盗みません」
「じゃあ何で辞めるの?」
「誰も信じてくれないからです」
また一人、いなくなった。
富江は一人になった。
だが金庫は残った。
四億円も残った。
だから問題ない。
そう思った。
冬。
富江は風邪を引いた。
熱が出ても病院へ行かなかった。
「医者なんて金を取るだけだ」
ある夜。
台所で水を飲もうとして、足元が揺れた。
グラスが落ちる。
床に手をつく。
立てない。
助けを呼ぼうと思った。
電話はテーブルの上。
だが手が届かない。
その時、佐和子の顔が浮かんだ。
家政婦の顔も浮かんだ。
松崎の顔まで浮かんだ。
富江は笑った。
「馬鹿だね……」
誰の電話番号も、すぐには思い出せなかった。
翌日。
新聞が玄関に残った。
その翌日も。
三日目。
近所の人が警察へ連絡した。
富江は病院へ運ばれた。
一命は取り留めた。
病室へ松崎が来た。
手には契約書。
「二億五千万です」
富江は弱々しく笑った。
「こんな時まで金の話?」
「こんな時だからです」
「売らないよ」
「なぜ?」
「お前が儲かるから」
松崎は椅子に座った。
「死ぬまで意地を張ります?」
「そうさ」
「その後は?」
富江は天井を見た。
「国にやる」
松崎の表情が止まった。
「国?」
「誰にもやらない」
「四億以上ありますよ」
「知ってる」
「友人にも?」
「やらない」
「親戚にも?」
「やらない」
「もったいなくないんですか」
富江は笑った。
「生きてる人間に取られるより、ずっといい」
松崎は何も言わなかった。
数週間後。
黒田富江は死んだ。
八十二歳だった。
葬儀は小さかった。
参列者は数人。
佐和子も来た。
遺影の富江は、昔の写真と同じ顔で笑っていた。
佐和子はその写真を見ながら呟いた。
「馬鹿だね」
涙を拭う。
「一回くらい、お茶飲めばよかったのに」
遺品整理が始まった。
通帳。
現金。
証券。
土地。
総資産は四億三千万円を超えていた。
しかし受け取る家族はいない。
遺言による特定の受取人もいない。
必要な法的手続きを経て、最終的に残った財産は国庫へ帰属することになった。
数か月後。
松崎は富江の家に立っていた。
家具はなくなっている。
棚もない。
通帳もない。
金もない。
ただ大きな金庫だけが残されていた。
扉は開いている。
中は空だった。
部下が聞いた。
「結局、あのお婆さん、何のために金を貯めてたんでしょうね」
松崎は空の金庫を見る。
「安心するためでしょう」
「幸せだったんですかね」
「さあ」
玄関を出る。
ゴミ袋の横に、一枚の写真が落ちていた。
若い富江。
夫。
友人。
皆で肩を組み、笑っている。
風が吹いた。
写真は道路を転がっていく。
松崎は拾わなかった。
やがて携帯電話が鳴った。
「次の案件です」
「資産家の老人が、土地を売らないそうで」
松崎は歩き出す。
「資産は?」
「かなり持っています」
松崎は笑った。
「それなら簡単です」
「どうしてです?」
工事用フェンスの向こうで、重機が動き始める。
松崎は振り返らない。
「金が好きな人間には――」
一瞬だけ、空になった富江の家を見る。
「値段をつければいい」
その夜。
富江の家の明かりは、もう二度と点かなかった。
金は最後まで富江を裏切らなかった。
一円も逃げなかった。
一円も嘘をつかなかった。
ただ金以外のすべてが、
富江より先に、彼女のそばから人間は誰もいなくなった。
現代小説『ブラックブローカー2』人が死ねば、金が儲かる。
――完――
漫画化しました。
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