第十三話 引き金と引き換えの潤い
**第13話:引き金と引き換えの潤い**
「サラ……お前、まだ……」
レンの両手の中で、小さな水滴が微かな光を保ち続けていた。周囲の海はすでに、あらゆる記憶を失った、ただの塩水と化している。この一滴だけが、長老が最後に「継いだ」と言った、サラの残滓なのかもしれなかった。
水面近くを旋回していたドローンの光が、ついにレンを捉えた。
『侵入者発見。第七境界壁沖合、座標特定。回収班、急行せよ』
無機質な合成音声が海中に反響する。
レンは水を蹴り、浮上を試みた。だが、電磁沈殿剤の余波を浴びた海水は、まるで彼の身体そのものからも「何か」を奪い去ろうとするかのように、重く粘りついてくる。
「くっ……」
海面から顔を出した瞬間、眩い探照灯の光がレンを照らした。
境界壁の岸辺には、すでに武装した兵士たちが整列し、電磁銃をこちらへ向けていた。
「動くな! 両手を挙げろ!」
指揮官の声が、拡声器を通して響く。
レンはゆっくりと海から這い上がりながら、両手で包み込んだ水滴だけは決して手放さなかった。
「その水を渡せ。それはすでに国家の管理下にある『資源』だ」
「これは資源なんかじゃない」
レンは声を絞り出した。
「これは、サラだ。名前を持った、一人の人間の――記憶だ」
指揮官の目が、わずかに冷たく細まった。
「元監査官、レン。貴様の反逆行為は、すでに国家反逆罪に該当する。最後の警告だ。その水を渡せ」
レンは答えなかった。
代わりに、水滴を包む両手にそっと唇を寄せ、囁くように語りかけた。
「サラ……もし、聞こえているなら」
その時、指揮官の合図とともに、一人の兵士が電磁銃の引き金を引いた。
閃光が走った。
「――っ!」
レンの肩口を、鋭い衝撃が貫いた。灼けるような痛みと、電流にも似た痺れが全身を駆け巡る。膝から力が抜け、彼はその場に崩れ落ちた。
「レン!」
崖の上、身を隠していたトウマの叫び声が遠くに聞こえた。だが、駆けつける余裕などない。兵士たちがレンを取り囲もうと、じりじりと距離を詰めてくる。
朦朧とする意識のなか、レンは倒れ込みながらも、両手だけは決して開かなかった。
水滴は、彼の体温に守られるようにして、まだ微かに光り続けている。
(サラ……お前が、こんな世界を捨てて、海を選んだ理由が、今なら分かる気がする)
背中に境界壁の縁の感触があった。傷ついた身体を支えきれず、レンの身体はゆっくりと、崖の向こう――再び海へと傾いていく。
「待て、撃つな! 生きたまま拘束……!」
指揮官の声が響いた、その一瞬遅れで、レンの身体は重力に引かれ、暗い海面へと真っ逆さまに落下していった。
風を切る感覚。
迫りくる水面の輝き。
その刹那、レンの手の中の水滴が、まるで彼を迎え入れるように、ひときわ強く発光した。
『……レン』
懐かしい声が、確かに聞こえた気がした。
次の瞬間、レンの身体は、飛沫すら上げることなく、静かに海の中へと吸い込まれていった。
(第13話 了)
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