1-2 破戒
× × ×
ジャンが女の子になった。
余りに突拍子がなく、奇怪極まる出来事に使用人ジーナは納得を示さなかった。むしろ主人の寝床に入り込んでいた女を叩き出そうとしてきた。
宿場町の遊女だと判断されたらしい。
僕は慌てて『詭弁論駁論』の一節を諳んじてみせたが、彼女からは「どうせ耳学問だろうが」「聞きかじるな」「原書を読め」と反撃され、ホウキの柄先で客室の隅に追い詰められてしまう。
「たしかに僕は耳学問だけど、それはジーナのおかげであって」
「ジャンはあたしが育てた男なんだ。余所のクソガキに盗られてたまるか!」
「育てられた覚えがない!」
「一ヶ月は稼げない身体にしてやる。さもなくば全裸で出ていけ。おい。村外れの肥溜めに埋められたいのか?」
彼女が提示してきた三択に選びたいカードが存在せず、僕は必死で元に戻る方法を模索する。
陰部から陰茎を引っ張りだす?
否。人体は玩具ではない。
お湯を浴びようにも室内に風呂など存在しない。宿場町の銭湯へ走るべきか。その際は女風呂に案内されるのか?
落ちつけ。自分。
スイッチが入ったなら切ればいい。同じボタンを押してみよう。
僕は背中に生えた七本目の架空の腕で、自分の尻を何度も引っ叩く。あくまで脳内のイメージに留まる。実際に七本目の腕など生えたりしない。感覚をイメージする。
バチン。
おお。俄かに信じがたいことだが。
ジャンの姿は少年に戻っていた。年相応の小ぶりな乳房が消え失せ、逸物が存在感を示し、背丈が少し伸びている。約十三年間、使い慣れた自分の身体だ。声変わり前の少年の声だ。
話しかけてみれば、ジーナはホウキの柄先を下ろしてくれた。見るからに困惑している。
「……すみません。一旦落ちつきます。ええと。何があったんですか」
「自分でもわからないんだ。布団の中で苦しんでいたら、いつの間にかあんなことに」
「壮絶な自慰行為の結果、一時的に男性を男性たらしめる熱、すなわちプネウマを放出した?」
「ジーナ。たぶん別の角度から考えたほうがいい。経典に解を求めても上手くいかない気がする」
「誰かに魔法をかけられた。もしくはジャン様が魔法に目覚めた、ということでしょうか」
彼女は冗談を言っているわけではない。
別世界には魔法使いが居る。あまねく理屈から外れた存在として、ままならない事象を解決に導く外法の使い手として。魔法使いなる「職業」が一般的に認知されている。
田舎者の僕は直接出会ったことがないが、王都には魔法使いの事務所が珍しくないそうだ。前世の法曹関係者に似た扱いなのだろうか。
ちなみに魔法は誰でも習得できるものではなく、生まれつきの才能がないと扱えないらしい。
まさか自分に素質があるとは思わなかった。
「困ったことになったわね……」
ジーナが客室の扉にホウキを立てかける。
部屋の出入りを封じられた。
「ジャン様。今ここで女子になれますか」
「再現してみるね……ほら。さっきの身体になった。やり方を覚えたら簡単だよ。ひょっとしたらジーナも男子になれるかもしれないね」
「ぞっとしない話です」
「男子なら院試を受けられるのに?」
「あたしのことはさておき。ジャン様、おそらく今の身体に興味津々だと思いますが。もう二度と女子にはならないでくださいませ。他人にその姿を見せるわけにはまいりません」
彼女の目つきが冷たいものに変わる。
鏡の無い部屋では客観視できず、詳細不明ではあるが、今の自分は一般的に好ましからざる人相なのだろうか。
僕は婉曲的に訊ねてみた。
「別に見せびらかすつもりはないけど、理由を訊かせてほしいな」
「よろしいですか。もし自由に別人に化けられる体質だと他人にバレたら。今後は院試を受けられなくなりますよ」
「魔法は聖書信仰に反するから?」
「魔法使いは試験を受けられない決まりだからです。間違いなく不正行為に繋がりますからね」
「なるほど」
「魔法使いであることを隠して受験した場合も不正行為とみなされます。つまり投獄されるということです」
院試は大勢の人生を左右する。それゆえに不正行為を固く禁じている。
先日受験したばかりだから状況を精緻に思い出せる。郷試会場では不正対策が徹底されていた。
試験期間中、受験生は升席同様の狭苦しい独房に閉じ込められ、夜中であっても抜け出したら失格扱いとなる。
例外はトイレに行く時だけ。ただし排便中すら試験官の監視を受ける。お尻の穴に豆本を隠し持つ者が後を絶たないからだ。
過去には替え玉受験が摘発された例もあるらしい。指紋の相違が調査の決め手になったという。
それほどに厳重な監視体制が取られているのだから、当然「この世の理」を外れた魔法使いの受験などは許されるはずもない。
だから二度と女体化の術は使わないほうがジャンの身のためである。
ジーナの言い分は正しかった。
しかしながら。自分の学力を鑑みるに──宝の持ち腐れは避けるべきではなかろうか。
「わかった。僕たちには発想の転換が必要なんだ」
「いいえジャン様。重ねて申し上げますが。不正行為は重罪です」
「夜中にこっそり女の子に化ければ、試験官の目を盗んで会場外のジーナから豆本を受け取れると思う」
「あたしは手伝わないわよ!」
拒否された。共犯扱いで連座・投獄されたくないらしい。
僕は尚も説得を試みる。
「ジーナにはハッキリ言っておくけど。大前提として。この世界では、君ぐらいの天才でなければ院試に挑むべきではないんだよ。そもそも在野の天才を探すための仕組みなんだから」
「ひざまくら」
「なのに我が家では生まれた子が凡人であっても進士及第が求められる。家名存続のためにね。思うに家柄重視の貴族制と、実力重視の科挙制度の食い合わせがよろしくないんだ。現実の歪みには歪みで対抗するしかないと思わない?」
「ひざまくら!」
彼女はいつものようにベッドに座り、足回りのスカートをシーツの如く丁寧に整えていく。身体を貸してやるとばかりに両手を広げ、こちらを学びの空間に誘おうとする。
その苛立ちまじりの目つきは、薄暗い宿の中であっても華やかだった。
僕は数年来の習慣に抗わず、彼女の膝を枕とさせていただく。やはり少しだけ固い。
「ジャン様。言い訳せずに経典を頭に詰め込んでください。つづりがわからない時は右手を上げて。ゆっくり話していきますからね」
「僕は天才ではないんだよ」
「ジャン様。今は焦らないことです。あなたのお父上が進士になられたのは三十路の頃でしょう」
「あと二十年も勉強漬けになるとか、絶対に耐えられない」
「あたしがいつまでも付き合いますから。せいぜい頑張ってくださいな」
「うへえ」
やがて耳元に垂れ流されてきた『自然博物記』の一角獣の章が、比較的面白い内容であるにも関わらず、脳内に入ってこない。
いい加減、受験勉強から離れたい気持ちもあるのだが──それ以上に。
今、僕は女の子のままだ。
何となく元に戻るタイミングを逸してしまったから。
異性の身体のまま。乳房が膨らんだ状態で。布団に横たわっている。
冷静に考えれば考えるほどに頬が紅潮してくる。
如実に実感する。男物の衣服との布ずれ、乳房に掛かる若干の重力、クーパー靭帯に掛かる負荷、股間の心元なさ。
自分も男子であるからには好奇心の高まりを否定できない。気になる。変身の因果関係を含め、粘り強い調査の必要性を訴えたい。
本来なら受験どころではない。
バシン。
唐突に尻を叩かれた。空想の話ではなく。本当に叩かれた。
「うぎゃっ」
「ジャン様。いつまでその姿でいるのですか。女の子になるのは禁止だと言いましたよね」
主人の集中力の欠如に気づかないほど、使用人との関係性は浅くない。
僕はやむなく男子の姿に戻り、彼女の柔らかい語り口に耳を澄ませる。
伝説によると一角獣は清らかな乙女の膝に飛び乗ってくるらしい。いつか試してみたいものだ。
× × ×
六月初旬。僕たちは長旅の末に実家の城館に帰還を果たした。
旅路の護衛を務めてくれた王国軍の兵士たちは近隣の駐屯地に戻っていった。彼らは我が家の家臣ではないが、時折ファニョン伯に使役されている。
城館の玄関口には素行のよろしくない男性たちが屯していた。父親が雇い入れた年貢の徴税業者だ。腕力自慢の連中だが、およそ練度においては王国軍の正規兵とは比較にならないと見受けられる。振る舞いが粗暴すぎる。
「お帰りなさいませ、坊っちゃん」
業者の団長と思しき髭面の男性が、丁寧に会釈してくださった。僕たちも返礼しておいた。
執務室。
ファニョン伯は不出来な息子を温かく出迎えてくれた。
「一度や二度落ちたくらいで落ち込むな。来年頑張ればいい。お前はまだ若い。チャンスが尽きることはなかろう」
「自信がありません」
「気持ちはわかる。お前の父も若い頃はそうだった。何度も挫けそうになった。しかし今はどうだ。陛下より州の刺史を任された士大夫なのだぞ」
刺史とは州政府の治安機関の統率者だ。州知事に相当する「太守」の副官でもある。
上役の太守に何かあれば、我が父ファニョン伯が太守代理を務める。
いわゆる「雲の上の人」だ。
「僕と父上は違います」
「同じだ。我々は恵まれている。蛍の光・窓の雪を灯にせずとも、ロウソクの灯りで学ぶことができる。お前も幸運に応えるのだ」
「一生を古文書と過ごせと仰いますか?」
「ジャン。進士になれ。今は辛いだろうが、努力を惜しむな。いずれ道が拓かれる。このように」
ライム王国では進士のことを「ローブ持ち」とも呼称する。王族にまつわる朱色のローブを下賜されることは大変な名誉とされた。
我が父・ファニョン伯は息子を元気づけるため、久方ぶりに納戸の禁を解いたらしい。
心地良い香りの布地が、僕の双肩に掛けられていく。子供の将来像にピントを合わせるための予行演習。一種の予祝だ。
その力強さに、子供は抗うことができない。
今、執務室の姿見には禁色の衣装に包まれたジャン少年が映っている。
この状況で息子が女子化した場合の父親の反応を妄想し、僕はどうにか笑みを浮かべることに成功した。わははは。あってはならないことだ。
「よく似合うぞ。さすが我が家の男だ」
「はい」
「ジャン。来年の試験に向け、家庭教師のジーナ共々、一層奮励努力せよ。未来はもう見えている!」
ファニョン伯は満足そうに笑う。
ジーナも笑う。周りもみんな笑っている。
僕は命尽き果てる時まで受験生を続けることを覚悟した。合格率小数点以下の世界に挑み続けよう。終わりのない戦いに身を投じよう。
ジャンの人生をかけて、自分が不出来であることを証明して差し上げよう──。
しかしながら。
しかしながら、である。
前世であれ別世界であれ、永遠に続くものなど存在しない。文明は滅び、都市は砂に還る。
太陽はいつか冷え込み、地球はそれより早く蒸発する。
諸行無常。有為転変。中世盛期以来、数世紀続いた制度も例外ではなかった。
一七八七年・七月七日。
ライム王国の王都イル=ド=トリスケルにて大規模な暴動が発生。市街戦の末、郊外の王宮が市民のデモ隊に制圧された。
史上初の市民革命の始まりだった。
同年八月。革命政府は世情不安を理由に同月中に実施予定だった「州試」の中止を決定。
翌月には『旧時代的制度の廃止宣言』に伴い、進士制度・高等法院採用試験自体が廃止された。
父親から事の顛末を知らされた僕は、初めて別世界の白ワインを口にした。
最高に美味しかった。




