1-1 彗星
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一七八七年・五月某日。
偶然にも高等法院採用試験の試験会場に向かう途中だった。
十二歳になったばかりの自分は馬車の車窓から巨大な彗星を目撃した。
黄昏時の紫雲の向こうで燦燦と煌めき、幾重にも光を散らす天体。
僕は街道上で馬車を止めてもらう。特段の信仰心を持たない自分ですら、神の存在を信じそうになるほど荘厳な光景が、北の空に映し出されていた。
不思議と勇気が湧いてくる。これを試験前に見られたことは「吉兆」なのだと自ずから錯覚してしまう。
試験前に良いものを見せてもらった。
「彗星ですね」
馬車の中から付き人のジーナが出てくる。彼女は行楽用の服の上に羊毛布を被っていた。その足取りは覚束ない。長らく椅子に座っていたためだろう。
僕は彼女に右手を差し出す。
「うん。幸先良いよね」
「そんなんだから去年の郷試に落ちたんですよ。おバカさん」
「おバカさんって」
「古代文明の頃より彗星は凶兆なんです。ジャン様。去年の春に読み聞かせた『古代帝国史』の天文伝・第六章をお忘れですか」
「一度聞いただけで全部覚えられるわけないだろ」
「三回ほど読み聞かせましたけど。仕方ありませんね。次の村落に到着するまで復習しましょう」
ジーナは天体ショーに見向きもせず、そそくさと馬車に戻っていった。
彼女なりに彗星の存在を恐れていたのだろうか。
車中の彼女曰く。
別世界では人類が文献を残すようになった太古の昔から、彗星・流星の類は天変地異の前触れとされてきたらしい。
数世紀の栄華を誇った古代帝国の崩壊前も彗星が現れ、翌年には時の権力者が蛮族に殺されたという。
他にも北方の島国に野蛮人の集団が押し寄せたり、傾国の美女が大規模な内戦を引き起こしたりと、彗星の飛来にまつわる逸話は枚挙に暇がない。
であれば。今回の彗星も歴史の引き金を引くことになるのだろうか?
こちらの心配を知るよしもなく、ジーナは他人事のように解説を加えてくる。
「人間は何事にも理由を付けたがりますけど、古代の哲学者は彗星の到来を『徳』の喪失と同一視していた節があります。王者が王者たる資格を失ったから彗星が現れる。そういう理屈です」
「自然現象なのに、ね」
「経典には経典の理屈がありますから。ぶっちゃけ。あたしだって怖いものは怖いですよ。バチが当たりそうだもん」
馬車の座席で彼女は毛布に包まっていく。
車輪が石を踏み、車体が揺れる。
「彗星が世の中の反映だったら、今の王様には『徳』が無いわけだ」
「数年来の天候不順。一昨年の蝗害。去年の干ばつ。昔話の世界ならとっくに反乱が起きてます」
彼女は毛布の中で「紅天すでに死す、蒼天まさに立つべし」と呟いた。
今のライム王家の公式カラーが朱紅色であることを踏まえれば、相当に踏み込んだ発言だった。
× × ×
ライム王国の高等法院採用試験(通称:院試)には数度の予備試験が設定されている。
これは毎年数万人に及ぶ受験者を選別するための仕組みであり、まずは地元共同体の「郷試」に合格しないと次の段階に進めない。高校野球で例えるなら地方大会のようなものだ。つまり試験内容自体は本番と遜色ない。
郷試の合格者は続いて「州試」に挑戦する。
州内各地のエリート同士で学識を競い合い、上位合格者が本試験たる「院試」の参加資格を得る。
本試験たる院試は毎年秋頃に王都で行われる。
国内屈指の天才たちが容赦なく「ふるい」にかけられる。
院試に合格した時点で将来の栄達は約束される。
自分の父親であるファニョン伯ライモンは院試の上位合格者だった。
国王陛下の御前にて演習試験「殿試」に参加し、王国最高位の学位「進士」の称号を与えられた。とてつもないエリートだ。
そんな父の先祖にあたる初代ファニョン伯は進士の中でも首席合格者にのみ与えられる「状元」の称号を持っていたというから恐れ入る。受験を極めた存在と言えよう。
初代以来、歴代のファニョン伯爵家は地方領主であり進士=士大夫として宮廷社会に確固たる地位を占めてきた。今は辺境の地方官だが、王宮の高官を務めたこともあったらしい。
それゆえに次世代に向けられた期待は尋常ではない。
合格必然。上位合格当然。進士に昇るのは当たり前。願わくば「状元」を勝ち取りたまえ。
しかしながら。
元々は日本人の自分が、別世界の受験用語をあえて中国史の科挙用語で訳していることから察していただきたいのだが。
高等法院採用試験。全く合格できそうにない。
別世界に赤ん坊として生まれ、羽根ペンを持てるようになってから約十年間。僕なりに必死で向き合ってきたのにも関わらず。僕の実力では一次試験の「郷試」合格すら危うい。
あまりにも難しすぎる。
以下、問題点を列記する。
①出題範囲が広すぎて対策が取れない。
古代哲学、聖書、歴史、天文学、占術、地誌学、幾何学、詩学、文芸その他、経典の内容を全部覚えなければならない。
②文献の丸暗記が求められる。
試験当日に指定された経典の一冊を、古代語の綴りを含め、一字一句完璧に記入しなければならない。
③小論文の出題の癖が強すぎる。
回答を八単語ずつ区切り、適度に韻を踏まねばならず、詩作の才能も試される。意味がわからない。
④競争相手のレベルが高すぎる。
一次試験「郷試」の段階で地元の天才・秀才が火花を散らしている。中には四半世紀以上も試験に挑み続ける者まで存在する。才能があっても必ず合格できるとは限らないらしい。
いわんや、凡才の末路など目に見えている──。
僕は去年の時点で心が折れそうだった。
合格・不合格以前に周囲のレベルについていけそうになかった。
思えば、狩猟の道に逃れたラファエル兄さんの選択は正しかった可能性が高い。父親の話によると、兄さんには王立士官学校の騎兵科から誘いが来ているらしい。それはそれで家門の栄達につながるはずだ。
自分には逃げ場など存在しない。僕には役目を押し付けられる弟がいないからだ。
結局のところ、僕は別世界に転生しても受験生を辞められないらしい。
そうして半ば諦めかけていた矢先の彗星飛来は──思いもよらぬ「吉報」をもたらしてくれた。
全身全霊を経典に漬け込まれた秀才たちが、凶兆の到来に恐れおののき、軒並み自宅に引きこもってしまったのだ!
「これなら劣等生のジャン様でも上位合格できそうですよ!」
付き人のジーナは大いに喜んでくれた。郷試会場の宿舎に合格祝いの白ワインを持ち込んでくれたほどにウキウキしていた。
僕は合格できても絶対に呑まないと心に決めていた。もうアルコール中毒で命を失いたくないから。
結果は──不合格だった。
「うぎゃああああああああああ!!」
叫ぶしかなかった。
第一関門の郷試すら突破できないようでは一生このままだ。一生、別世界の古文書と向き合い、生涯にわたり挫折を味わい続ける。
地獄の底に落ちた気分だ。もう勘弁してくれ。解放してくれ。許してくれ。
僕は帰りの馬車の中で、宿場の布団の中で、頭の中で、ひたすらに悶えることしか出来なかった。
いっそ気が狂ったほうが楽なのかもしれない。全部投げ捨てて川に落ちてやろうか。来世の方が成功を期待できる。
そんな末期的な発想が脳内を去来した。何度も。
叫びながら悶え続けた。
そうしていると。
自分の脳の中で、変なスイッチが入ってしまったらしい。
今まで全く認知してなかった感覚に触れた途端──具体的には背中に生えた七本目の架空の腕で、自分の尻を強く引っ叩くような──人体を操縦する上では想像が及ばなかった感覚に、転がり悶え続ける中で偶然にも至ってしまったがために、肉体の方が「錯誤」「勘違い」を引き起こしたのだろうか、奇妙な反応を示してきた。
あるいは中島敦『山月記』の如き理屈が働いた可能性もあるが。いずれにせよ、だ。
よもや、ジャン・ド・ファニョンが女体化してしまうとは思いもよらなかった。




