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プロローグ


     × × ×     


 ずっと勉学に励んできた。

 学問も学歴も人生設計の助けになると信じ、毎日机にかじりついてきた。いつか未来の僕自身を救うだろう、と。母から教わったとおりに。必死で努力してきた。二年間の予備校生活にも耐えてみせた。

 そうして手に入れた成果が、アルコールの一気飲みで全部吹き飛んだ。


 美味しかった。甘露だった。大学の合格祝いとして両親が用意してくれた『シャトー・イケム』が、乾ききった灰色の人生に染みわたった。

 グラスに手酌で注ぎ、黄金色の貴腐ワインを口に含むたび、自分史上もっとも幸福な時間が訪れた。


 美味すぎる! 美味すぎる!

 甘味に溺れる! 永遠に呑んでいたい!

 気づいた時には、僕は死んでいた。


 待て。おかしいだろう。

 本当に身体が死を迎えたなら、すなわち死に気づくことさえ出来ない。逆説的に僕は生きていることになる。

 今、僕の周りには何もない。全身が生温い暗闇に包み込まれている。地底の温泉に浸けられた気分だ。物音は聞こえない。

 ここが生死の狭間だとするなら、いささか居心地が良すぎる。


 やがて目の前に映像が現れ──否。脳内に外部情報が流れ込んでくる。

 何なんだこの感覚は。本来見たことのない光景が記憶の中に書き加えられていく。未体験の感覚だ。むず痒い。歯痒い。人体に外部接続機能があるのなら、もう少し早く習得したかった。受験で苦労せずに済んだ。

 僕は外から流し込まれた記憶を思い出してみる《・・・・・・》。

 情報を要約すると、何かしらの事由により世界が光に包まれ、惑星、星系、銀河、宇宙まるごと消失していくというプロセスの説明だった。カタストロフ。日本語ならば「破滅」と呼んで差し支えない。悲惨極まりない光景だ。

 よもや、あれを止めろという天命なのか。もしくは自ら世界の終わりを引き起こせというのか。仮に後者だとしたら良心が痛む。


 それにしても──いつまでこの空間に居たら良いのだろうか。

 暇つぶしに脳内で東海道新幹線の駅名を西から並べていたら、少しずつ周りが明るくなってきた。全身が生温かい空間から外に放り出される。


「おめでとうございます! 旦那様、元気な男の子でございます!」


 途端に女性の声が聞こえてきた。聞き覚えのある外国語だった。

 寝床の周りでは老若男女が「ブラヴォー!」と歓声を上げている。

 僕はひとまず泣くことにした。



     × × ×     



 オギャアと生まれて三ヶ月。

 母親の乳首を吸い続け、生来の欲求に基づく号泣と惰眠を繰り返すうち、自分なりに周囲の状況がつかめてきた。

 今の僕は別世界の伯爵家に生まれた赤ん坊、らしい。

 両親には「ジャン」と呼ばれ、使用人たちには「坊ちゃま」と笑顔を向けられる。貴族の子供に相応しい扱いだ。文系学生の就職先としては破格の好待遇といっていい。


 父親の城館シャトーの周りには古代に掘られた運河と、木々の生い茂る林、そして一面の麦畑が広がっていた。ちょうど季節は黄金の秋。例の甘いワインが恋しくなるが、今の身体で呑めるようになるのは随分先になるだろう。

 まあ、あんな目にあった以上は二度とアルコールなど嗜めそうにない。そうでなければ、我ながら学習能力に欠けるというものだ。


 学習能力といえば。自分ジャンには五つ年上の兄がいた。名前はラファエル。小学校入学前の年齢ながら父親から読み書きを教わっており、早くも落書きの腕前のほうが上達しつつあった。やる気が沸かないのだろう。

 しまいには羽根ペンを放り出し、運河で魚釣りに興じる始末。

 夕食前、家族にその日の釣果を見せつけてくるラファエル兄さんの顔は、いつもキラキラと輝いていた。

 対照的に父親は苛立ちを隠せずにいた。


 ある時。ラファエル兄さんが育児室まで灰色の魚を持ってきてくれた。今の自分は赤ん坊なので反応のレパートリーに乏しく申し訳ないのだが、兄さんは弟に自慢できて満足そうだった。

 そこに突如として父親が乱入してきた。


「ラファエル。いつまでそんなことをしている。お前は父祖が歩んできた道を外れるつもりなのか。ファニョン家の次期当主が遊び回るなど」

「お言葉ですが。父上、英雄ラウルマーニュの忠臣も釣り人でしたよ」

「まずは経典の一節でも諳んじてから口答えしてみろ」

「そういうのは全部ジャンに任せます。オレには向いておりません。」

「戯言を抜かすな。我が家は学問の家柄だぞ」

「試験勉強には心がありませんから」


 ラファエル兄さんは自分ジャンの頭頂部に触れながら笑みを浮かべ、そして手持ちの川魚を父親に投げつけてみせた。


「ぬわっ。さ、さかなを投げるな。みっともない!」

「ホシスズキでございます。父上は何も知らない」

「おのれ、四書五経リベラルアーツを修めた進士相手に何をぬかすか。待て。どこに行く」

「夜食を釣ってまいります」


 走り去っていく兄さんの姿に、父親はため息を堪えきれない。

 やがてその険しい眼光はベッドに横たわる赤ん坊に向かう。


「ジャン。お前がやるしかなさそうだ。ラファエルの代わりに勉学に身を捧げ、王都の高等法院採用試験に合格してくれ」


 父から祈りにも似た言葉が降りかかってくる。

 勘弁していただきたい。僕は泣き出してしまった。

 せっかく別世界に転生したというのに、こっちでも家族から受験勉強を強いられるなんて。


「狭き門ではある。千人に一人と合格できない。しかしファニョン家の男ならば、学び続ければ、必ず合格できる」

「うえええええええ」

「二十年、三十年かかっても良い。必ず合格しろ。然る後、殿試において国王陛下より禁色を賜れ。願わくば「状元いちばん」を勝ち取りたまえ。お前が我が家の伝統を受け継いでくれ。宮廷で栄達の道を歩むのだ」


 もう未来の話は要らない。誰か僕を救ってくれ。もうあんな灰色の日々は送りたくない。


「──そして、お前の愚かな兄を支えてやってほしい」


 一七七五年。八月某日。

 ファニョン伯爵家の次男ジャン・ド・ファニョンは生後三ヶ月にして、ライム王国最難関の官僚採用試験・通称「院試」に挑むことが決定づけられた。

 それは苦難の日々の始まりだった。



     × × ×     



 子供は背が高くなるにつれ、視界が広がっていく。

 生まれ変わってから九度目の収穫祭を迎えた頃。我が家に新しい使用人がやってきた。

 烏色の髪が艶やかな、見目麗みめうるわしい少女ながら、その双眸には確かな自信が滾っていた。あるいは自分より背丈があったからそう感じたのかもしれないが。

 彼女はラファエル兄さんと同い年だという。自分ジャンにとっては年上のお姉さんになる。


「初めまして。ジーナと申します。実家の口減らしで奉公に出されました。これから大恩ある領主様のお世話をさせていただきます」


 彼女の物言いに他の使用人たちが眉をひそめる。言葉尻を捉えられない程度に皮肉めいていたからだ。

 昨今ライム王国では天候不順による穀物の凶作が続いていた。食料品の値上がりは家計を直撃し、なけなしの収穫物を年貢として取り立てられた百姓たちは貧困に喘いでいた。

 一部の地域では家庭内で養えなくなった子供を売却・放逐する者さえ出てきており、我らがファニョン伯爵領も例外ではなかった。


 自分ジャンの父親・ファニョン伯は小娘の皮肉を気に留めなかった。むしろ父親の関心は彼女の別の部分に向けられていたらしい。


「小娘。先週、渡しておいた『器具経オルガノン』の第一章は読み終えたか」

「面白い本ではありませんでした」

「理解は求めていない。噂通り、一字一句違えず暗誦できるなら我が子ジャンの家庭教師を任せたい。どうだ」

「それがあたしのお役目ならば──」


 ジーナは目をつぶる。

 そして古代の哲学者が残したという『範疇論』の一節を滔々と語り始めたが、僕にとっては彼女の睫毛の長さのほうが気になった。

 我が父ファニョン伯は、彼女の記憶力に満足したらしい。しきりに手を叩き、天を仰いでいる。


「──ああっ。お前が小娘でなく。我が息子ならば。我が家は五十年安泰であっただろう。小娘。何故にお前は小娘なのだ」

「あたしに訊かれても困ります」

「今日からジャンの付き人になれ。片時も離れることなく、耳元で経典を語り続けよ。ジャンの脳に刻み込んでやるのだ」

「かしこまりました」


 ジーナがこちらに会釈してくる。

 今後、彼女には生きたリスニング教材になってもらうわけだが、聞き流すだけで学べるなら前世の日本人はみんな英語が話せるようになっている。

 彼女の能力ならもっと他に生かす方法があるはずだ。父親には再考を願いたい。このような可愛らしいお姉さんに耳元でささやかれ続けたら、生涯を特殊な性癖に苛まれてしまう可能性がある。


「やあやあ。スヴニール村のジーナじゃないか。会うのは久しぶりだな」

「ラファエル様」

「先週も鹿狩りに行ったところだよ。あの森は美しいね」


 僕の傍らに居た兄上が、狩衣姿のまま彼女の元に近づいていく。会話から推察するに旧知の仲らしい。

 同年代の美男美女でお似合いに見える。とはいえ身分差から結ばれることはなさそうだ。この世界はそういう社会なのだ。


「ラファエル様の家庭教師は鹿が務めていらっしゃるようで」

「ははは。相変わらず辛口だな。自分以外はみんなバカだと思ってそう」

「滅相もありません」


 ジーナは半笑いで否定したが、ラファエル兄さんの指摘は正鵠を得ているように思えた。

 彼女は明らかに自身を『天才』だと規定している。若さゆえにそれを隠しきれておらず、今はまだ一介の村娘でありながら全身に自信があふれてしまっている。前世の進学校に少なからず存在したタイプだ。

 あの手の人間は凡人ぼくに全く同じ視線を向けてくる。


「ジャン様。以後、よろしくお願い致します」

「こちらこそよろしくお願いします」


 ありがたいことに今回出くわしたのは同級生ではなく使用人。競争相手ではなく味方であれば、鼻持ちならない存在であっても心強いことこの上ない。

 そして何より。彼女の皮肉めいた半笑いは美しかった。


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