第一章 雛竜の名前(7)
宿舎に一晩の部屋を借りることに、トラブルはなかった。エリオルが入れる部屋が限られており、値段の張る大型の部屋でなければ泊まれないと言われたのは正直痛かったが、エリオルが雛としても大型だと分かっていた筈のことで、仕方がない出費と、シルフィナは納得した。
宿舎は五階建ての大きさで、まるで城砦のような広さだった。どうやらもとはその通りで、竜使いや竜乗りの修業場も兼ねているらしい。竜の登録所も同じ建物内にあるようだったが、昼間しか受け付けされておらず、相談したければ明日になると、宿舎の受付で聞かされた。
シルフィナ達の部屋は最上階の五階で、竜と一緒に乗れる昇降機で向かう構造になっていた。食堂は二階。やはり同じ昇降機で、部屋からは降りれば良いと聞いた。
部屋に置く荷物も特にない。シルフィナ達は部屋にはすぐに入らず、食堂へ直行した。食堂も一階と同じようなホールで、テーブル席と、カーペットの上に直接座る席に分かれていた。
生憎テーブル席にはエリオルが座れそうな大きさの椅子はない。だいいちエリオルは、身体構造が、椅子に座るのに適していない。シルフィナは迷うことなく、床席を選んだ。個室としては最大サイズの特別室を借りることになっただけに、食事は豪華だ。山中では貴重だろうに、ステーキや、ふんだんに野菜が盛られたサラダ、マッシュルーム入りのスープなど、これでもかと料理が運ばれてきた。床席にはテーブルがなく、すべて高い足のついた盆の上に乗せられていて、床から拾い上げて食べるような姿勢にはならないように工夫されていた。
シルフィナはどちらかと言えば食は細い方で、大量に持って来られても、すべては食べきれない。そこは彼女もエリオルの食欲に期待したのだが、それすら、あてが外れた。
もきゅもきゅと音をさせて、両手で抱えたパンだけを、エリオルは美味しそうに齧っている。肉など眼中にないようだった。携帯用の物とは違う、ふかふかの上質なパンだ。目を輝かせて、エリオルは本当にパンだけを夢中で食べていた。
「ねえ。パン以外も食べないと、力になりませんよ?」
その偏食ぶりはシルフィナも心配になる程だ。こんなことは聞いていない。食育ができていないのは明らかだ。流石に少しエルカールの育児下手を恨んだ。
「ほら、お肉も食べないと。野菜も食べろとは言いませんから、せめてパンを一回置いてください。もうパンばっかり四個目ですよ?」
肉の乗ったプレート皿をエリオルの前にずいと移動させるシルフィナだったが、
「がう」
エリオルは、初めて見せる、心底嫌がる顔で激しくかぶりを振った。偏食どころの騒ぎではない。肉を嫌がる竜など、聞いたこともない。
「駄目です。ちゃんと食べてください」
菜食主義者とも違う。エリオルはパン以外嫌がるのだ。よほどトラウマでもあるのか、ステーキには特に激しい拒絶を見せた。
「これは……」
思い当たる原因はひとつだ。
「どういう食べさせ方したのかしら?」
エルカールが食べさせた肉が、よほどいつも不味かったのだ。或いは、食べ物として成り立ってすらいなかったのかもしれない。それで、口にするのも拒絶するようになったとしか思えなかった。多分、パンが好きなのではない。旅人達の荷物を漁って見つかる携帯用パン程度しか、まともな味がするものを食べたことがないくらい、食生活が劣悪だったのだ。
「大丈夫です。これはちゃんと美味しく焼いてあるお肉です。ひと口食べてみて。きっとこれまで食べたことがあるお肉とは全然違いますから。本当は、お肉は美味しいんです」
そう言って、自分もひと切れステーキを口にして、シルフィナはエリオルに不味くないことを伝えようとした。実際にはもうシルフィナは満腹感の限界で、これ以上食べ物を口にするのもつらかったが、エリオルの食はすぐに改善しなければならないと我慢した。
「がう」
エリオルが齧りかけのパンを置く。それを見たシルフィナがフォークでステーキを一切れ刺して差し出すと、目を瞑ってエリオルはそれを口にした。
実際、切られたステーキは人間が食べるのに適したサイズで、エリオルが食べるにはあまりに小さい。にもかかわらず、エリオルは、薬が苦くないかと怖がる子供のように、その小さな肉片を、おっかなびっくり咀嚼した。
一度。
それから三度。そのあとは、堪能するように口の中で転がすように噛んだ。しばらく肉を味わい、飲み込むと、
「がう」
と、満足げに鳴いた。美味しかったのだ。それどころか、パンをシルフィナに渡し、手を振って何かを伝えようと、がうがうと要求してきた。
「ええと」
すぐには、シルフィナにその意味が読み取れなかった。すると、隣の席から、助けの声が上がった。
「割って挟んでくれってさ」
という言葉が、シルフィナに掛けられる。気が付くと、隣の床席には、門番をしていた男が、飛竜共々座っていた。ベテランの竜使いなのだろう。彼にはエリオルの態度が言葉として分かるようだった。経験の差だ。
「ありがとうございます」
男に礼を言い、エリオルの要求に応じようとしたシルフィナだったが、生憎、席にはナイフがない。パンに切れ込みを入れることができなかった。
「貸してみな」
男が手を差し出してくる。シルフィナも断りかねて、言われた通りにパンを男に渡した。
男は門番をしていた時と同じで、革鎧姿だったが、腰の後ろにポーチをつけていて、その中に細かい工具を納めていた。折り畳み式のナイフを取り出し、手慣れた様子でパンに切れ込みを入れ、すぐにそれを、シルフィナに返した。
「竜を連れるなら、同じようなものを買って用意しておいた方がいい」
すべて、飛竜の世話の為の道具だと、男はいう。鱗のトラブルや爪や角、牙のトラブル。何かと工具なしには対処できない問題に直面することはあると。
「そういうことを学びに来ました。どこで教われるんでしょうか?」
まさにそういうことだ。それを知る為に、シルフィナはロダルーシュの集落を、ひとまず落ち着く先として、選んだのだった。
「そうだったな。おっと、その前に。俺はラグルだ。それでこいつがターナ。よろしくな」
門の時とはだいぶ印象が違う。こちらが素なのだろう。門番の仕事中は規則で丁寧に話していたに違いなかった。
「よろしくおねがいします。わたしは……改めて名乗る必要はないですよね。この子はエリオル」
ラグルと名乗った男に、シルフィナもエリオルを紹介する。ラグルはエリオルに、
「よろしくな、エリオル」
気さくに声を掛けるが、一方でエリオルは何を言われているのか分からないと惚けているように、首を傾げただけだった。
「ははは、流石に立派な竜の雛だけはある。気難しいな。それだけに、君がいかに懐かれているかってことでもあるが」
ラグルは気にした様子もなく笑った。門番の装備であろう皮兜を脱ぎ、あまり手入れされていない黒髪を露にした。顔は日焼けして浅黒く、瞳は深い焦げ茶だった。顔立ちは精悍で、シルフィナが思っていたよりも若い。二〇才前後だろうか。
「そうなんでしょうか。まだ全然竜のことはよく分からなくて」
シルフィナは、率直に答えた。ここで取り繕っても意味はなかった。
「ああ。竜から気に入られる人間ってのは、そういうものだ。難しく考えることはない。エリオルが君の一番の先生になってくれる。君は、エリオルの信頼に誠実であればいい」
と、ラグルは言う。その頭を、彼の飛竜が突いた。
「いて。ああ、そうだな。俺もなかなかできていない」
彼には、ターナに突かれた理由も分かっているようだった。信頼関係が確立しているのだと、シルフィナからは見えた。
「それで、その」
とはいえ、今は聞きたいことがある。先程の質問の答えを、まだもらっていない。
「ああ、竜を扱う基礎だったな。ふーむ、教えてくれる人物には、俺も何人か心当たりがあるが、単刀直入に言って、飛び込みで引き受けてもらうのは、かなり厳しい。教えてもらいたいと思っている奴等は、それこそ幾らでもいるからな」
竜使いや竜乗りを目指す若者は少なくない。彼等全てが、いってしまえば入門希望者だ。誰も彼もを弟子にはできないと言われれば、当然のことだった。
「とはいえ、今のままじゃエリオルが可哀想だもんな。よし、明日は非番だし、口をきいてやるよ。それでどうだ?」
ただ、諦めろとは、ラグルも言わなかった。
「ありがとうございます。お願いします」
エリオルの為に。シルフィナも、頷いた。




