第一章 雛竜の名前(5)
再び、空へ。
気付けば、日は遥か大地の向こうに沈んでいこうとしている。空は朱に染まり、気の早い星がひとつ、瞬き始めていた。
「南へ、ええと、こっちです」
というシルフィナの言葉と指差す向きに応じ、エリオルは南下を始める。エリオルはまだ、方角という知識をもたない。シルフィナが、身振り手振りで方向を指し示してあげる必要があった。
当然、これからシルフィナとエリオルが向かう、ロダルーシュのことも、何も知らない。シルフィナは、何故そこに向かうのかを、語って聞かせなければならないと、理解していた。
「角ヶ峰は、飛竜や妖精竜が住まう山で、ロダルーシュの集落は、竜乗りや竜使い、竜飼い達の修行の地です。あそこなら、竜を連れていても、目立つことがないんです。だから」
シルフィナは人間で、才覚があったとしてもまだ魔導師にすぎず、人里離れた場所でも自分の生活を確立できるような賢者ではない。そして、カルザークやサーラに、飼われてもいない竜をいきなり連れ込んだら大騒動になる。シルフィナが捕らえられる以前に、街の住民にも、エリオルにもそんなことになるのは申し訳なかった。なにより、
「カルザークは学術都市で、竜を捕縛したらまず解体されて研究素材にされます。それは避けないといけません。サーラは都で、軍の中枢でもあります。身元を引き受ける人間がはっきりしていない竜の雛が立ち入ったら、すぐ退治されちゃいます。遺跡都市ララーカとか、北の鉱山都市ダラフでも、だいたい事情は変わりません。ほとんどの人の街だと、エリオルの身が危ないんです」
それが真っ先に問題点として、あげられた。しかし、幸いなことに、ロダルーシュは違う。
「ロダルーシュで雛の訓練をする人はたくさんいますし、あそこなら、わたしを身元引受人としてエリオルを登録できる施設もあるので、それをすれば、他の街にも入れるようになります。そうやって、竜使いや竜乗り達は、相棒を得ているんです。規則ですし、そこはちゃんとしましょう。余計な騒動を起こしても、あなたが不幸な目にあうだけですから」
エリオルと暮らすのに、これ以上適した場所はない。登録をせず、こっそりエリオルを育てるという選択肢を選ぶ理由はなかった。合法的にどこにでも行けるようになる手段があるのだから、それに逆らう理由もない。
「ただ、あなたがエルカールの子だということは、伏せないと。あなたには分からないでしょうけど、人間の間でエルカールという名はとても有名で、そして、多くの恐怖と憎悪を呼び覚ます言葉なんです。あなたがエルカールの子だと知られれば、きっと登録は許可されないでしょう。登録されたとしても、わたし個人の相棒として認めてもらえません。あなたは国の管理下におかれ、ひょっとしたら、あなたの父、エルカールとの戦いを強要されることになるかもしれません。そうならない為に、それはわたし達だけの秘密です」
薄暗くなっていく地上を見下ろし、シルフィナがエリオルに約束を聞かせる。エリオルは意味を理解したのか、
「がう」
という変わらぬ声を返した。
遠く日が沈む。夜の訪れに、シルフィナは短く身震いした。夜風が冷たかったからではない。夏が近いドラー平野の風は温かく、湿り気を帯びている。むしろ本来であれば汗ばむくらいの空気だ。
「がう?」
風の熱さはエリオルにも分かるのだろう。不思議そうに、シルフィナに問い掛けるような鳴き方をした。
「夜は不安になります。自分がひとりぼっちで世界から取り残された気分になるんです」
これが、他の誰かであったのなら、そもそもシルフィナがひとりでいるのかを問いかけることができたのかもしれない。だが、エリオルはそれが不思議なことだということも知らなければ、本来、能力の高い魔導師であれば、旅の空の戦士達から引く手あまたであるということも理解していなかった。それでもシルフィナが寂しそうだと感じる心はエリオルにもあり、
「がう」
自分がいる、ひとりではない、と励ますように、落ち着いた鳴き声を上げた。エリオルは聡明で、そして、優しかった。
「ふふ、ありがとうございます。少し、わたしの勝手な身の上話を、聞いてくれますか。なんとなく、話したい気分なんです。あ、気にしなくてもいいんですよ。あなたに迷惑を掛けたい訳じゃないですからね。ただ、聞いてくれるだけでいいです」
その態度に、シルフィナは、何故自分が他の人間達、戦士や魔導師同士などと共に行動しないのかを、話す気になった。彼女が誘われなかった訳ではない。自らすべて断り続けているのだった。
「わたしね、他の人が怖いんです。普通と達と違う容姿をしている人間相手だと、人間って、時々とても残酷になれるものだから。わたしの髪と目の色は普通の人と違っていて、幼いころは、いろんな人たちから、いろんな目で見られました。珍しいものを見る目。恐ろしいものを見る目。なかでも、一番印象に残っているのは、おぞましいものを見る目でした。そういった目で見てくる人は、決まって大人のひとで、それがとても怖かったのを覚えています。それで、いつしか他人に見られること自体が怖くなって。知らない人と一緒にいると、壊れてしまうように息苦しいんです。魔導師の修業をして力をつけたら治るかもしれないと期待していたのだけれど、駄目でした。それで、今も、いつもひとりで」
相手が負かすべき敵だと意識した時だけは気が楽だ。どんな目で見られようと、どうせ敵なのだからと割り切れる。だから臆することなく呪文に集中できたし、全力もだせた。だから、たとえ相手が人間であろうと、勝負に負けたことは、一度しかない。エルカールには負けた。ただその一度だけだ。
「ひょっとすると、他人が怖いわたしは、対決した人間をやつあたりのように負かすことで、溜飲を下げたかっただけなのかもしれません。だから全力が出してこられたのかも。そんなことだから、いつまでも、他人が怖いままなのかもしれません。ずっと独りで。他人との深い付き合いから逃げ続けて」
はあ、とため息をつき、シルフィナは空を見上げた。夜の帳が下りつつある天蓋には、星の光が満ち始めていた。
「暗い話を続けていると、言いたいことを忘れてしまいそうですね。ええと、伝えたかったのは、安心してくださいってことです。わたしはこれからも他の人とは組まないし、あなたにも、いろんな人との深い交流を強いることもない筈だってことです。きっと、ずっとね。安心してください。わたしと、あなただけ。ふたりで、頑張っていきましょうね」
それはふたりにとって良いことなのか悪いことなのか。そんなことは子供のシルフィナには分からない。だが、そうやってエリオルのことを知る人間が増えれば増える程、エリオルがエルカールの子だという秘密が白日の下に晒されやすくなるリスクが増えるのだということだけは、彼女にも分った。
「明かりが見えます。ララーカの灯ですね」
暗闇に包まれる地上の一ヶ所に、寄り添いながら燃える街の家屋の灯が見える。夜の街の姿を正確に眺めることはできないが、位置的に遺跡都市ララーカであることは、間違いなかった。
「向こうの切り立った山は分かりますか? あなたの夜目は、どのくらい利くんでしょうね」
シルフィナが前方を指差すと、
「がう」
エリオルは元気な声で応じた。しっかり見えるらしい。
「あれが角ヶ峰です。こちらからは右側になる、西の中腹に、目指すロダルーシュの集落はあります。この時間でも、まだ門は開けてもらえる筈なので、野宿の心配もありません」
シルフィナがロダルーシュの場所を説明する。エリオルは力強く風を掴む翼を大きく羽ばたかせ、飛行速度を上げた。
夏の夜空の下、竜が飛ぶ。
暗闇が、シルフィナとエリオルの姿を、ふたりの秘密ごと包み隠してくれた筈だった。東の眼下にララーカの明かりを見下ろしながら、彼女達は通り過ぎ、しばらくの飛行ののちに、吹き上がりはじめた風がシルフィナ達に、ドラー平野の南端に、彼女達が差し掛かったことを教えた。
今や角ヶ峰の姿は眼前で、厳めしく影のように黒く一人と一匹(あるいは、シルフィナの定義の中では、自分達のことを、ふたり、という認識になりはじめていた)を出迎えた。エリオルはシルフィナの説明の通りに角ヶ峰を西に回り込み、やがてその中腹に心細そうに揺れる灯りを、シルフィナ達は見つけることができた。
集落の灯はふたりよりもやや上にあって、崖のむこうにぼんやりと見える、漏れ出た薄明りのようだった。
エリオルは上昇気流に乗って大きく上昇し、一度ロダルーシュの集落の高度を通り過ぎてから、場所を確かめるように緩やかに下降に転じた。幸い門を闇に浮かび上がらせる松明が灯されていて、その外に舞い降りることは、難しいことではなかった。
シルフィナを乗せたエリオルの足が、門の前の崖路の土を踏む。門の前には、一人の男と一体の飛竜が見張りに立っていた。




