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最後の魔法は竜の背で  作者: 奥雪 一寸
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第四章 自由への飛翔(8)

 海が歌っている。

 竜の羽音に混じり、遠く、微かに、水面で揺れる波の音だ。エルカールが宣言した通り、王城を飛び立った人食い竜は、東の大海へ、真っ直ぐに王国を抜けた。

「すまなかったな」

 と、シルフィナに、エルカールが詫びる。意外なことだ、と、シルフィナ自身は驚いた。

「え? いきなり何ですか?」

 エルカールの背に、エリオルと一緒に座っている彼女は、エリオルよりも騒々しく飛ぶエルカールに、大声で答えなければならなかった。そうしないと、自分の耳でさえ、自分の声が聞き取りづらかった。

「そんなにがなり立てなくていい。俺には聞こえる」

 エルカールには、そう言われた。それならば、と、彼女も安心して声量を落とした。

「それで?」

 もう一度、聞く。エルカールは、

「人間共が、エリオルを純粋に友と思ってくれるとは限らぬことを、忘れていた。そのせいで、お前には苦労をさせてしまった」

 そのことだ、と、弁解した。

「ああ、そういうことですか」

 シルフィナは笑う。彼女にしてみれば、エルカールのせいだとは思えなかったからだ。

「結果的にわたしは自由を手に入れられました。国王陛下の危機も救えました。すべてが解決した訳ではありませんけど、あとは王家の問題です。わたしにはもう、関わりのないことです。それよりも、わたしに謝るんなら、エリオルを褒めてあげてください。一番頑張ったのは、エリオルです」

 シルフィナの反論に、

「がう」

 たいしたことはしていない、と言うように、エリオルは鳴いた。エルカールの背中は広く、ずっと空を飛ぶときは自分の翼で飛んでいたこともあってか、のんびりと海原の広がりを楽しんで眺めているようだった。

「そうかもしれん。偉かったな、エリオル」

 エルカールは言うが、エリオルは、その声には答えなかった。

「エリオル、寂しいぞ。せめて何とか答えてくれ」

 間違いなく、エルカールは自分の子を愛しているのだろう。だが、極端に、父であることが下手だということも、その通りなのかもしれなかった。

「それを期待するのは、あなたがエリオルのいいお父さんになるのが先じゃないですか?」

 シルフィナがエリオルに視線を向ける。目が合うと、

「がう!」

 エリオルも、また鳴いた。同意のようだ。

「そうか。うむ、難しいな。前に言った通り、俺にはどうしていいのか、分からぬのだ」

 確かに、マデラ山でも、そんなことを言っていた。あの時のエルカールの言葉を、シルフィナも忘れたわけではない。だが、今度は、言い返す気に、なれた。

「それがいけないんじゃないんですか? 意気地なし」

 率直な意見だ。シルフィナは、自分が間違っているとは、思えない。

「……意気地なしか。その通りだな、何も言えぬ」

 エルカールも、あろうことか、認めてしまった。そうなると、何か子供が生意気な口を利いたような、自分が悪いことをした気分になるものだ。

「それずるいです」

 シルフィナは文句を言い、いつの間にか、自分がエルカールのことを、恐いと思わなくなっていることに、気付いた。それどころか、恐がる必要など、本当はなかったのだとさえ、思えた。

「そろそろ見えなくなるぞ?」

 不意に、エルカールが話題を変える。言葉の意味は、当然、シルフィナも分かった。

「いいんです。もう帰らないと決めた国ですから。それが王家との新しい約束。唇の化粧を落としたからには、わたしはもう、あの国には戻っちゃいけないんです」

 そんなことをすれば、出会う人々が不安がるから。化粧がないということは、国とのルールに縛られるつもりが最初からないと表明しているということだ。そんな紫髪虹瞳の魔導師が闊歩していたら、ネリーメア王国では、恐怖と混乱を撒き散らしてしまう。シルフィナも、それは望んでいない。

「陛下に、一言お詫びしたかったけれど。全部、ニーナ姫が、代弁してくれるって信じています」

 背後で、霞む王国の向こうに、日が沈んでいく。空は赤く染まり、海は同じ色を反射していた。

「それよりも、何処へ向かうんですか? できれば、夜更けになる前に、地に足をつけたい気分なんですけど」

 空が嫌いな訳ではないが、やはり、何となく落ち着かない。シルフィナは苦笑いし、一面の海原を、不安気味に眺めた。

「決めておらぬ。南方の孤島か。東の大陸か。天高くにあるという、古き竜の空中庭園を探してみるのも良いな」

 広い世界に、エルカールは見識を持つらしい。それはシルフィナがまだ知らない神秘で、興味をそそられずにはいられなかった。

「全部を旅してまわるのもいいですね。とりあえず今日はどこかに降りたいのは別にして」

 陸に降りたいのは譲らない。それだけは、本当に、シルフィナは諦めることができなかった。

「空は怖いか?」

 エルカールが問う。そりゃあ、そんなに大きな翼があれば、恐いことはないでしょうよ、と、シルフィナは思う。

「人間に、翼はありませんから」

 当然の理屈として、彼女は答えた。

「魔導師なら飛べるだろう」

 と、エルカールには指摘された。その通りだ。飛行魔法は、シルフィナも、知ってはいる。

「やです」

 だが、シルフィナは、その呪文を、使ったことがない。

「便利だろうに」

「やです」

 そこまでその呪文を毛嫌いする理由を、シルフィナは、こう、表現した。

「だって失敗して落ちたらぐしゃですよ? 怖いじゃないですか」

 だから、シルフィナは一度も魔法で飛んだことがない。練習でさえ。それを考えただけで、身震いする程だ。

「意気地なしだな」

 先程自分で言ったばかりの言葉で、言い返された。悔しいのだが、シルフィナは言い返せなかった。

「どうせそうですよーだ」

 そんな彼女を、エルカールは笑わない。てっきり笑われると思い込んでいたシルフィナは、面食らった。

「飛べるとも。俺の巣を出て行ったエリオルは、あの日、初めて飛んだ。お前にもできる」

 エルカールの声色は、驚く程穏やかだ。危険はない。そう確信しているようだった。

「仮にうまくいかなくても、今なら問題がないことを思い出すと良い。これからは、失敗して落ちたとて、お前が恐れるようなことにはならぬ。お前のことは、必ずエリオルが受け止めるからな。それにだ。エリオルは、お前と並んで飛べれば、喜ぶだろう」

 確かに。シルフィナは納得してしまった。それは楽しいに違いないと。だが、恐いのは、事実で。

「本当? 駄目だったら助けてくれますか?」

 エリオルに、聞いた。

「がう!」

 任せておけ。エリオルの力強い答えが、そう言っているように聞こえた。それがとても頼もしい。

「やってみます。少しずつ、練習してみます」

 エリオルに、シルフィナは誓った。それでも、一言エルカールに付け加えるのも、忘れない。

「競争ですね。あなたが良いお父さんになれるのが早いか、わたしが飛べるようになるのが早いか」

 結果はどうだろう。案外、またエルカールに負けてしまうかもしれないと、何となく、その方がいいのではないかと、シルフィナは望んでしまった。

「待て。それはフェアではない。俺の難易度の方が高すぎる競争ではないか」

 そうでもないかもしれない。エルカールは、自信がまったくないようだった。

「そんなことはないですよ。意気地なしを克服するだけじゃないですか、お互いに」

 シルフィナは笑った。エリオルがもし喜んでくれるなら、頑張ろうと思えた。

「でも、エリオルの背中に乗って飛ぶのは、わたし、好きですよ。あなたはどうですか?」

 と、エリオルにシルフィナが尋ねる。珍しく、エリオルは何も言わなかった。

 それでもエリオルは、もごもごと口を動かして、目をそらさずに、じっと見つめていた。

 エリオルが口を開き、また閉じる。それを三回繰り返した。そして。

「よめ」

 いきなり、そう告げた。

「よめ。だいすき」

 シルフィナを見ながら。え、と短い声が、シルフィナの喉の奥から漏れる。

「ええええええええええええええええっ?」

 シルフィナの素っ頓狂な叫びが、赤く染まる空に、溶けていった。


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