第二章 角の頂(8)
空が白み、朝が来る。
マグラダ老の館の前の岩場も、細かい草や苔が、朝露に濡れて光っていた。
エリオルは館の前で一夜をすごした。そして、丸くなって眠っていたエリオルに包まれるように、シルフィナも、そこにいた。シルフィナは、マグラダ老から再三叱責に近い指示を受けたにも関わらず、館の中では眠らず、エリオルと一緒にいることを選んだ。夜半を間近に感じる時間になった頃には、マグラダ老も匙を投げ、一人だけ館の中に戻っていた。
「体がキシキシ痛みます」
朝早くに目を覚ますなり、シルフィナが呟いた言葉がそれだった。
当たり前だ。竜に枕したとはいえ、体の大半は、直接岩肌の上だったのだ。まともな寝心地である筈がなかった。
「がう」
エリオルも目覚めていた。シルフィナを労わるように、囁くように鳴いた。その声は、自分が寂しくないように、シルフィナがずっと一緒にいてくれたのだと理解している感謝の響きでもあった。
「おはようございます」
少しかすれた声でシルフィナが挨拶をすると、
「がう」
挨拶を返したのか、エリオルはまたひと声上げた。
日はまだ昇っていない。だが、間もなく日の出が見られるだろうと分かる程、東の空は眩しかった。
「がう」
三度目の声が、エリオルの口から発される。仕草からも、シルフィナに立つように促す声だった。
軋む体でぎこちなくシルフィナが立ち上がると、エリオルも同じように立ち上がった。エリオルの視線は南西の方角を見ていて、その視線の先に、山を登り飛んで来る妖精竜の姿があった。背に、革鎧を着た男が乗っている。竜が違うことからも分かっていたことだが、ラグルではなかった。
妖精竜が柔風を起こしながら、岩場に着地する。その様子をシルフィナが緊張した思いで眺めていると、いつの間にか、彼女の隣に、マグラダ老が並んでいた。
「朝早くから、ご苦労なことじゃ」
と、真っ先にマグダラ老が告げる。
「お出迎え痛み入ります」
一応の礼といった風に、竜乗りは答えた。それから、竜乗りは妖精竜の背を降り、シルフィナの前に、膝を折って敬意を示した。
「魔導師シルフィナ様で間違いございませんか」
「え? あ、はい……」
まだ起きたばかりで思考が定まらない頭を、シルフィナは縦に振る。ガチガチに固まったような肩が、抵抗するように痛んだ。
「どうか、軍砦までお越しいただけませんか。ロゼア王女殿下より、是非お会いしたいとの、ご招待です。無論、出頭命令などの、強制ではございません。どうかご一考いただきますよう」
兵は頭を垂れた姿勢のまま、王族にするのと同じレベルの、最大の礼儀を払い続けた。市井の子供を前に大の大人がそうする姿は滑稽なようでもあったが、同時に、相手が紫髪虹瞳の魔導師であればさもありなんといった、当然の行為でもあった。
「ロゼア様が? お会いしたこと、ありましたっけ?」
シルフィナの記憶する限り、直接会ったことがある王族は、国王陛下だけだ。当然その子供達のことも話くらいには知っているが、理由もなく招待されるような気安い関係では、絶対にない。
「何かお困りなんでしょうか? わたしでお力になれればいいんですけど。でもそれならそれで、マグダラ老に相談いただいた方が、より確実ではないでしょうか」
首を傾げる。シルフィナ自身の感覚としては、まだ魔導師としては駆けだしもいいところで、紫髪虹瞳の評判に相応しいほどの、目覚ましい貢献がある訳でもない。何かの間違いではないか。
「ご安心ください。お手を煩わせる程の大事は起こっておりません。頼みごとや相談があってのことではなく、純粋にお目にかかりたいが為のお招きと伺っております。どうかお気軽にご来訪くださいとのことです」
兵はそう言うが、
「あ。エリオルを連れて来いってことですね」
一気に目が覚めたように、シルフィナはやっと思考が巡った頭で結論付けた。それ以外、呼ばれる謂れがない。
「あの。エリオルは常識も覚えている途中の雛で、まだ人前に出せる状態じゃないんです」
やんわりと、シルフィナは断った。しかし、兵は引き下がらなかった。その返答も、まるでロゼアは想定したとでもいうかのように、
「それも伺っていると。むしろ、国として何かサポートできることはないかとの仰せでした。難儀されてはいないかと、心配されております」
そんな言葉で返した。気にせず来い、いや、むしろ、その竜について、シルフィナ一人に任せては安心できないから来い、と言われているということだ。ようやく呼ばれている理由に、シルフィナも合点がいった。正直を言えば、シルフィナ自身、不安がないと言えば、嘘になる。
「分かりました。お伺いします。ええと、案内していただけるってことで、良いですか」
ため息交じりで、シルフィナは招待に応じるしかないと諦めた。
「は。案内も仰せつかっております」
兵が勢いよく立ち上がり、手振りで自分の竜の背に乗るよう、シルフィナを促す。シルフィナを乗せていれば、エリオルが滅多なことをすることはなくなること、エリオルとシルフィナを一緒にさせておかなければ、途中で逃走されるリスクが減らせること、が理由だ。それに、賓客として歓迎する意志を示すことにもなる。
「ありがとうございます」
それを拒否する余地は、シルフィナにはなかった。自分の竜でついて行く、と固辞することを試したところで、あれこれ理屈をつけて、許してはもらえないだろう。押し問答になるだけなのは、明白だった。自分は招きを受けるゲストだ。主導権は、先方に渡さなければならない。シルフィナは子供であはあるが、そのくらいの社交儀礼の知識は持ち合わせていた。
「困ったことがあれば、またいつでもおいで」
シルフィナの背に、マグラダ老が声を掛ける。シルフィナは足を止めて、振りかえった。竜乗りの兵は既に自分の妖精竜の背に跨っている。竜の上から、シルフィナが乗るのに手を貸す為だった。
「ありがとうございます。お世話になりました。何だか嫌な流れに乗せられている気もしますけど、行きます。ここで断っても、いい結果にならないことだけは確かみたいです」
と、苦笑い半分で礼を言い、シルフィナは頭を下げた。
「そうじゃろう。お前さんの選択は正しい。自信をもっての。お前さんは、自分で思っておるより、ずっと賢く、強い子じゃ」
マグラダ老の言葉に見送られながら、シルフィナは兵の手を借りて、妖精竜の背に上がった。竜乗りの兵の後ろに、収まる。
「しっかり掴まって」
兵に促されるまま、シルフィナは前に座った男の腰に手を回す。革鎧は、早朝の湿った空気に冷やされているのか、妙に冷たかった。
「マグラダ老、早朝からお騒がせしました。シルフィナ様の訓練、軍からも感謝します」
言葉だけの礼を言い、兵は妖精竜を舞い上がらせる。シルフィナを乗せた妖精竜が飛ぶと、状況が分かっているのか、大人しくエリオルは妖精竜のあとをついてきた。
「賢い竜だ。雛とは思えん」
凡庸の竜であれば、余程訓練しなければ、状況に混乱してしまうものだ、と竜乗りの兵が舌を巻く。
「そうでしょう。自慢の子です。それに、とっても優しい子です」
エリオルが褒められるのは、シルフィナも嬉しい。誇らしい気分になる。出逢ってまだ三日目ではあるが、すっかり、うちの子、認識になっていた。
「なるほど、殿下が気になさるのも納得です。並の竜使いや竜乗りでは扱いきれないでしょう。それだけ、シルフィナ様が特別ということなんでしょうなあ」
兵は、シルフィナのことも、さりげなくフォローした。社交辞令だ。本気ではないと、シルフィナにも分かった。
「ありがとうございます」
そうだ。王家の姫に会うのだ。そう思うと、背筋が寒くなる。形式上、王侯貴族も紫髪虹瞳の子には最大限の礼儀を払うものだ。だが、その実、心から敬意を抱く者は、驚くほど少ない。
唇が渇く思いがした。自分自身の青白く塗られた、唇の化粧。それが、ほとんどの人々が抱く、自分に対する感情なのだと、シルフィナは、知っている。
その化粧をはじめて施された日、単なる伝統で、形式上のもの、とは聞かされたことも覚えている。そうではなく、気休めだとも、すぐに気付いたものだ。
「ロゼア様は、形式にこだわらない方とは聞いていますが、手ぶらで大丈夫でしょうか」
嫌な気分を晴らす為に、シルフィナは聞く。
「はい。急な招待に応じてくださり恐縮です」
用意されていた回答のように、兵が告げた。




