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最後の魔法は竜の背で  作者: 奥雪 一寸
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第二章 角の頂(5)

 結局、座学で得た問題認識についての対策は棚上げとして、できる実技の練習だけを詰め込む、ということで、シルフィナとマグラダ老は意見の一致を得た。

 それにはエリオルの協力が必要になる。練習は、館の前で行われた。その頃には雨はやんでいて、空には鉛色の雲だけが足早に流れていた。

「竜は病気や毒素に高い免疫を有しておる。滅多なことでは臥せんし、こまめなケアも不要じゃ。その分、自分の衛生面に無頓着なところがある。汚れたままでは周囲の人間達から嫌な目で見られるし、何より方々で病毒をばら撒くことになる。対面した人間がもたん」

 そう言って、マグラダ老がシルフィナに教えたのは、竜の洗い方、であった。

 とはいえ、難しいことは何もない。ただ、道具が当然必要なことが(シルフィナも想定していた事ではあるが)分かった。本来ならば、ロダルーシュですべて揃うものだが、これ以上通りを歩きまわるものではないと、マグラダ老は、シルフィナ達が自分で買うことを、強く反対した。

「仕方ないのう。特注品なんじゃが、ほれ、ワシからプレゼントじゃ。道具もどうせ使われるなら、ジジイに使われるよりも、可愛い女の子の方が嬉しかろう」

 マグラダ老から、竜のケア道具一式が収められたポーチを、シルフィナが受け取る。中には鱗の汚れを落とす為のブラシや角を磨く為の布、鱗の裏に詰まった小石を掻き出す為の金梃子などが入っていた。その中に、見慣れない、大きな鋏のような道具が目を引く。一番場所をとっている道具だった。

「これは?」

 用途が分からない。シルフィナはそれを取り出し、エリオルに翳すように見た。どこに使うものなのだろうか。

「それは一番重要な器具じゃ。竜は成長するにつれ、鱗が割れ、爪や牙がめくれることがある。成長過程で大きさが合わなくなったもんを捨てる為じゃな。脱皮するには大きすぎる体をもつがゆえな。しかし、離脱がうまくいかんこともある。場合によっては、それ以外の時に、鱗や角が傷むこともある。そういう時に、ささくれなんかを切ってやる為の器具なのじゃ。それもお前さんの役割じゃよ?」

 マグラダ老は、おかしそうに笑う。はじめて器具を見た人間が、たいてい同じような反応を示すのかもしれなかった。

「切るんですか。わたしが」

 シルフィナには、勿論、失敗しない自信が持てなかった。痛くはないのだろうか。聞いただけで背筋が冷たくなった。

「他におらんじゃろ」

 と、さも当たり前だという態度のマグラダ老に、

「ええー」

 シルフィナは心底自信がないことを、全身で表現した。

「失敗したら、怒りますよね?」

 エリオルにも聞く。

「がう」

 エリオルは、否定とも肯定ともとれる声を上げた。シルフィナには細かくは読み取れなかったが、絶対に怒らないとは約束できないのだろうと感じた。

「うむ。既に信頼関係はできておるようじゃの。感心じゃ」

 その様子を、マグラダ老は、そう、太鼓判を押した。エリオルが、気楽に反応している、ということらしい。

「それに」

 マグラダ老が、目を細め、シルフィナとエリオルを、眩しそうに見る。その向こうに、何かを透かして見ているようだった。

「え?」

 シルフィナには、当然、何故そんな表情をされたのかは分からない。ただ、エリオルだけが、少しだけ、自慢げな目をした。

「いや、なんでもないわい。なんでもない」

 マグラダ老が何を見たのか。彼は語ることなく、柔らかく微笑むだけだった。そして、表情を厳めしく改めると、

「ほれ。しっかり練習せんと身につかんぞ。ちゃんと綺麗に掃除してやれ。ワシが合格と言うまで、繰り返しじゃ。言っておくが、中途半端に鱗の外側だけ綺麗して取り繕っても、ワシにはお見通しじゃ。手を抜くでないぞ」

 手を動かせと、シルフィナを急かした。

「は、はい」

 慣れない手つきで、シルフィナはエリオルの鱗にブラシをかける。そんな彼女の洗い方に、

「かーっ。何じゃそのへにゃへにゃしたブラッシングは。お上品なアクセサリーを磨いとるんじゃないんじゃぞ。もっと力を入れてゴシゴシ行かんかい。竜の体はその程度のブラシで傷がつく程柔じゃないわい」

 まったく駄目だとかぶりを振った。シルフィナとしては、エリオルが痛くはないかと遠慮しただけだったのだが。

「もっと強くして本当に大丈夫ですか? 痛くないですか?」

 実際ブラシで擦られているのはエリオルだ。シルフィナはエリオルから大丈夫という言葉がないと安心できなくて、問い掛けた。

「がう」

 平気だというように、エリオルも短く答える。そのやりとりに、またマグラダ老が立腹に声を荒げた。

「お前さんの師匠はワシじゃぞ。ワシの言葉を信じんか。この恩知らずめが」

 本気で怒っている訳ではない。わざとらしく師匠ぶって、シルフィナの焦りを誘おうというのだ。要するに、失敗するのを待っているのである。実際、魔導師としての師匠からも、見習い修業中に、同様のことをよくされた。

「ふふ」

 思わずおかしくて笑みがこぼれる。シルフィナは、この手の嫌がらせには、魔法の修業を通し、いつの間にか慣れっこになっていた。

「これ、笑うな。ワシが恥ずかしいだろう」

 不満を零すマグラダ老も半笑いだ。シルフィナにその手が通用しないことは、最初から分かっていたのだ。

「申し訳ありません。真面目にやります」

 やんわりと、シルフィナは答えた。勿論、これまで真面目に洗っていなかった、という話では、当然ない。

「素直で宜しい」

 真面目ぶりながら、マグラダ老も、鷹揚に頷く。咳払いをひとつし、それから、本当に真剣な表情に戻った。

「エリオルは、可愛いか?」

 と、唐突にマグラダ老は聞く。

「最初は面食らいました。エルカールには断ったんですよ? わたし」

 そんな風に答えながら、仕草では、シルフィナは頷いていた。その反応に何を想ったのだろうか。

「あやつは、強かったじゃろう」

 さらに唐突なことを、マグラダ老は尋ねた。

「わたしじゃ手も足も出ませんでした。というか、今思うとわたしが一方的に怒られただけで、勝負ってレベルじゃありませんでした」

 また、シルフィナが笑う。笑うしかない。正真正銘、あれは、大人と子供だった。

「そうか、そうか。じゃが、エリオルはあやつの子じゃぞ? 怖くはないのかの?」

 さらに問われた言葉。それは最初こそ気になったが、いつの間にかシルフィナが考えることもなくなっていた疑問だった。

「んー。エリオルはエリオルだもの。エルカールじゃないですから。ねえ」

 シルフィナがエリオルに笑いかけると、

「がう」

 エリオルもそうだと言わんばかりに鳴いた。

「分かっとるのう。そうじゃ。エリオルを、エルカールを通して見るもんじゃあない。親が誰であろうと、エリオル自身を見てやらんとのう。それができるなら、お前さんは大丈夫じゃろう。じゃが、世の中にはそうでない人間は山ほどおる。気を付けるんじゃぞ」

 マグラダ老の言葉は優しい。穏やかに髭を揺らして笑う彼の様子に、シルフィナは感謝をこめて頷いてみせた。

「がう」

 何かを言いたげに、エリオルもそのやりとりに参加する。彼の鳴き声を正しく解釈するのはシルフィナにはまだ難しかったが、なんとなく、目元がりりしい気がした。

「マグドー様……陛下のお身体の具合はよくないんでしょうか?」

 ふと、シルフィナは、国王の具合のことを話題にあげた。マグラダ老は一度シルフィナに驚いた目を向け、それから実際に言葉で、

「知っておるのか? 個人的に、ということじゃが」

 超然としているマグラダ老も、すべてを知っているという訳ではないらしい。そのことに、シルフィナ自身も不思議な気分になった。

「はい。国王陛下の計らいで、わたしは、魔導師の弟子として、修行を受けられましたから。陛下は幼いわたしに、紫髪虹瞳の子は国の宝だとさえおっしゃってくださいました。だから、よく覚えています」

 強い魔力を秘め、優れた魔導師の才能を生まれつき持っていることが外見にでる人間がいることは、ネリーメア王国では常識だ。そのような子が生まれれば噂になるし、国王にも報告が入る。特にそれが顕著な子であれば、国王直々に会いたいと考えるのもあり得ないことではなかった。

「なるほどの。では国王の子供達のこともある程度は分かっているのではないか?」

「いえ、そこまでは」

 幼かった頃の話だ。気が回る筈もなかった。


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