第一章 雛竜の名前(1)
ヒカリゴケが生える岩肌が、ゴツゴツとした明暗をかたちづくる。
少女は、自然に形成された洞窟の中で、天井や床に一端を付着された、ねばつく魔力の筋で、両手両足を広げた姿勢で拘束され、宙吊りにされていた。
それ程高く拘束されている訳ではないが、足は十数センチメートルの距離で床にはつかず、不自由な姿勢で、力を込めて魔力を振り解こうとすることも難しい状況だった。
少女は、紺色のローブを纏い、岩肌からの鈍い光に照らされた、淡い紫色の挑発に金の髪飾りをつけている。だが、ローブは煤に塗れ、あちこちに引っ掻き傷のような裂け目ができていて、金の髪留めは半分に割れて役目を果たせているとは言えなかった。
疲労と苦痛が浮かぶ瞳は虹色で、肌の色はやや褐色。呻くように半分開かれた唇は、青白い化粧が施されていた。身体構造はまごうことなき人間だが、普通の人間の外見からは、髪の色と瞳の色が逸脱しているといえた。
この世界において、そういった外見について、一つの常識がある。それは、生まれつき魔力を操る才能に長けた人間の特徴だということだ。少女は、まだ幼さを残す若さだが、普通の人々とは異なる特徴を持つ者の例にもれず、将来を嘱望される、若き魔導師だった。しかし、状況から見て察することができる通り、彼女は、洞窟の中で、敵に敗北したのだ。
少女の前に、生物が立っている。大きさは、拘束された少女が地に足がついていないにも関わらず、洞窟の床に足をつけているその生物の方が、まだ頭一つ分背が高い。側頭部には一対の角をもち、緑の鱗に覆われた体躯と、一対の蝙蝠のような翼のある生物。何処から見ても、竜だった。
「がう」
とだけ、その竜が声を発する。人間からすれば間違いなく大きいといえる体格だが、それでも竜としては、まだ言葉を知らぬ雛でしかないのだ。
竜の雛の背後で、その生物や少女とはくらべものにならない巨大なものが蠢いている。蹲っている訳ではない。少女や竜の雛に背を向け、洞窟の奥に積み上げられた物品を漁っているのである。姿かたちは、竜の雛とよく似て、サイズはずっと大きい。洞窟の天井は高く、ホールを形成していたが、それでも立ち上がれば天井に頭をぶつけてしまいそうな程の巨体を持っていた。それこそが、まさしく竜の成体の姿であった。雄だ。
竜の雛が少女に前肢を伸ばす。鉤爪の生えた指がローブにできた裂け目をなぞり、すぐに手を引っ込めた。少女が、体を固くし、僅かなうめき声を上げて身悶えしたからだった。
竜の雛が、鉤爪に付着したものを舐め、
「がう」
と、もう一度鳴く。鉤爪に付着したのは、少女の傷から滴ったと分かる血液だった。
「うむ。そうであろう」
大人の竜が答え、竜が手に取るには小さすぎる薬瓶を、中指と親指だけで、潰して割らないように苦心しながら摘まみ上げると、少女と雛を振り返った。
竜の背後にある宝物の山と、竜が食べ尽くしたのだろう白骨の山が、見えた。白骨の多くは獣の物だが、中には、明らかに人と分かる頭蓋骨なども混ざっていた。
マデラ山の人食い竜。その竜は、人間達から、そう呼ばれていた。そして、魔導師の少女は、人食い竜の退治を人々から請われ、そして、竜に挑んで敗れた魔導師であった。
少女の名は、シルフィナ。竜の名は、エルカール。雛は、まだ名前をもたなかった。
「飲ませろ」
エルカールが、雛に薬瓶を渡す。雛は、エルカールには開けにくい薬瓶の栓を、どうすれば良いのかを理解する知能を既に有していることを示すように、器用に抜いた。
シルフィナの拘束は解かれず、雛は薬瓶を、彼女の口元にあてて飲ませようとする。どろりとした粘性のある液体が、薬瓶が傾くのに合わせて、縁を湿らせた。状況からすると、どんな効果がある薬なのかも怪しい液体にしか見えないところで、実際、シルフィナも一瞬だけ、表情を凍り付かせ、雛の持った薬瓶に視線を向けずにいられなくなった。
しかし、すぐにその態度は改められた。シルフィナは、抵抗せず、口に押し当てられるのに任せて、その薬を飲み始める。彼女にも、その薬は馴染みのあるものだったからだ。つんと鼻孔の奥を刺激する独特の匂い。やけに色の濃い、緑色の内容物。見覚えのあるやたら大きな文字が書かれた瓶表面のラベル。勘違いのしようがなかった。
粘っこくて飲みづらく、正直、世間の評判はすこぶる良くない。だが、効果もまたすこぶる絶大で、たちどころに全身の傷を癒す魔法の薬品として、広く出回っている品だった。
それでも、何かが混ぜられているおそれはあったのだが、彼女には、そんなことまで気を回している余裕はなかった。全身の裂傷は熱いほど疼き、それとは裏腹に、身体の芯は凍える程に寒かった。命の危機だと自覚できるまでに、彼女の心身は弱り切っていて、手足を拘束され、自分では迫りつつある死に抗うこともできない。そんな状況で回復の施しを受けたのだ。シルフィナには、それに縋ることしか考えられなかった。ただ、死にたくない、の一心で、口にあてがわれた回復薬を、与えられ、促されるままに飲むだけだった。
「一気に飲ませるのではないぞ。窒息する」
エルカールの警告に、
「がう」
雛が、頷く。エルカールと雛は、親子だった。それだけに、雛がまだ言葉を喋れずとも、意志疎通に困ることはなかった。ゆっくりと流し込まれる薬品を、シルフィナも咀嚼するように少しずつ飲んだ。
「もう少し飲みやすくできように。難儀なことだ」
呆れたように、エルカールもその様子を眺めた。薬瓶が空になると、雛から戻されたそれを握りつぶし、そのまま破片を飲み込んでしまった。口の中でチラチラと火の粉が漏れ出て、体内で焼却処分したのだと、シルフィナにも理解できた。
回復薬のおかげで、シルフィナの全身の怪我はたちどころに塞がり、体の芯から生気と体温が蘇ってくるのが分かる。ほっと息をつく彼女だったが、自分が拘束されている危機的状況は変わっていないことを思い出し、精一杯の虚勢で、竜の雛とエルカールを睨みつけた。
「解いてください」
解けと言われて解くようなら、拘束など初めからしない。分かってはいるのだが、シルフィナは言わずにいられなかった。自分が拘束されて、はじめてその恐怖と不安が分かるものなのかもしれない。対するエルカールの反応は、大きな嘆息だった。
「暴れないか?」
問う。実際に、生殺与奪を自分が握っており、好き放題できる状況でもあるのだが、好き放題にしたいかと問われれば、エルカールには興味が持てなかった。ではなぜ拘束したのかと問われれば、
「俺も遠慮なく叩きのめさせてもらったつもりではある。肋骨も何本か、折れただろう」
そんな状態で抵抗して暴れれば、それこそ死にかねないと知っていたからである。
「肋骨が内臓に刺されば死ぬのだろう? 自ら死なれては、命を奪わなかった意味がない」
つまり、落ち着いて治療を受けさせる為だった。医療行為で、暴れる患者を拘束することは、現実に人間の間でもある。もっとも、手足を縛りつけて、磔もかくやという状態で晒すような拘束は、しないが。
「まだ本調子ではなかろう。大人しくしておかねば、また傷が開くかもしれぬ。分かるな」
道理を説かれ、
「それは、そうです。けど」
シルフィナとしては、面白くなかった。そして、それ以上に、エルカールが自分の治療をしようと決断した理由が分からなかった。
「人食い竜が。何を今更」
被害の話は間違いなく出ている。襲われ、焼かれた村も、シルフィナ自身が立ち寄って確認した。黒焦げになって焼け落ちた寺院。無残に打ち砕かれた村を囲んでいただろう外壁。その光景は惨状の一言で、ショッキングな光景に見えたことも、覚えている。人の出来ることではなく、竜が破壊したことを、実感したのだ。だからこそ、シルフィナは、竜の討伐を、請け負った。
「確かに。俺は人を食う」
エルカールは、否定しなかった。彼は実際に人間も食らう竜であることは間違いなく、人々の脅威であることも事実だった。
「だが、別に騒ぐ程のことでもあるまい。連中は俺の家を襲い、雛を脅かす。俺も狼藉者共を食える獣として扱うことに、遠慮はせん」
立場の違いというものだろうか。人から見た竜が脅威であるように、竜から見た人も、襲ってくる敵である認識でしかなかったのだ。
「そんな人間ばかりではないという人間は多い。だが、人が竜を区別できないように、俺にも人の区別はつかぬ。敵であるおそれがある生物であれば、雛の身に危険が及ぶ前に、目についた巣を徹底的に駆除することもある」
それも、人間達が、見つけた小鬼の巣を先に駆除するようなものだ、と、雄の竜は言う。そこに悪も善もない。子の安全の前には、何物も代えられないだけである、と。
「人間と変わらぬ。立場が異なるだけだ」
エルカールは語る。だが、なればこそ。
「なら、なんで、わたしを治したんですか」
それが、シルフィナには分からなかった。




