第五話 日常の異常
「何だ……夢か……」
朝、目が覚めた時、まだ僕の心臓はバクバクしていた。何だか得体の知れないバケモノに襲われる夢を見ていた。二階建ての住宅と同じくらいの背丈の、毛むくじゃらに八つ裂きにされそうになって……そこから先は覚えていない。
寝相が悪かったのか、起き上がると身体中がズキズキと痛んだ。カーテンを開くと、日差しが眩しかった。何事もなかったかのように、昨日と同じ景色が、いつもの日常が窓の外に広がっている。街は平穏そのものだ。バケモノの影もない。僕はホッとため息をついた。
「あっおはよう! お兄ちゃん!」
寝惚け眼でリビングに降りて行くと、すでに朝食を食べ終えた妹の陽葵が、ランドセルを背負って出掛けていくところだった。
「お兄ちゃん、昨日はすごかったね!」
「何が?」
「何がって、恐竜よ」
陽葵が目をキラキラさせて笑った。夜中に大っきな恐竜がやってきて、この家を吹き飛ばしちゃったじゃない。ううん、この家だけじゃない。周りの家も、ぜーんぶ。それで、もうダメだって時に黒い、小っちゃな恐竜が飛び出してきて、そいつを倒しちゃったの!
「何言ってんだよ」
僕は笑った。どうやら妹も変な夢を見ていたらしい。
「だったら今ごろ、街中大騒ぎになってるはずだよ。僕らだってこうして無事じゃいられないよ」
「うーん、それはそうなんだけど……」
妹はまだ小首を傾げていたが、すぐに興味を失ったらしく、そのまま玄関を飛び出して行った。
「アンタもさっさと食べちゃいなさい」
「はぁい……」
お母さんが台所からそう声を張り上げる。お父さんはすでに出社している。特に変わったこともない、三畳家の朝の光景だった。
トーストを齧りながら、試しにニュースを点けてみたが、目ぼしい事件はやってなさそうだった。『今日の星占い』を確認し……うお座は最下位だった……僕はノロノロと学校へ向かうことにした。朝日が目に染みる。夜な夜な妙な夢にうなされたせいで、寝不足だった。
「ん……?」
しばらく歩いたところで、僕はようやく違和感に気がついた。
街が綺麗になっている……?
僕は立ち止まり、眠たい目を瞬かせた。気のせいだろうか? いや……確かに家が、街道が、何だかこ綺麗に片付けられている。普通に掃除をしたとか、そういう感じじゃなく……佐藤さん家の壁のシミだとか、郵便局のレンガの欠けた部分だとか……昨日まで見慣れていた風景が、ほんの少し、でも確実に変わっている。まるで、全部新しく作り直したみたいに……。
でも、何故?
首を捻ったが、当然答えは出てこなかった。いつもの光景、でも何かが、ほんの少しだけ違う光景。何だか間違い探しをしている気分だった。僕は居心地が悪くなって、急いで学校へと走った。
※
「おはよう、三畳くん」
「うわぁっ!?」
学校に着くなり、まるで待ち構えていたみたいに、靴箱の影から白峰先輩が顔を覗かせた。僕は危うく尻餅を着くところだった。白峰先輩は凛とした姿勢で僕を見下ろし、目を細めた。
「三畳くん。実は昨晩YouTubeを眺めていたら、新しい『滅亡情報』が手に入ったの。これが真実だったら、今度こそ人類はダメかも知れない……!」
「は、はぁ……」
「早速放課後、理科準備室に来てちょうだい。崩壊は待ったなしよ!」
そう言いながらも、何だかちょっと嬉しそうである。それだけ告げると、先輩は踵を返して人混みに紛れ、優雅に階段を上がっていった。僕はぽかんと口を開け、しばらくその場に突っ立ったままだった。ネットde真実……もしかして彼女は、いわゆる陰謀論者なのか?
僕の悪い予感は的中した。授業中、こっそり部活のホームページ……白峰先輩が自主制作したと思われる『滅亡部』のサイト……を覗いてみると、おどろおどろしい文字で『ノストラダムスの予言』やら『マヤの予言』やら、人類滅亡の予言・考察がびっしりと書かれていた。
彼女は本気で信じているんだ……『ツチノコの撮影に成功!』と銘打たれた、先輩が撮影したであろう動画を観ながら、僕は唇の端を引くつかせた。
※
「し、失礼しまぁす……」
放課後。
片手で理科準備室の扉を開けながら、もう片方の手で、僕はポケットに忍ばせた『退部届』を握りしめていた。白峰先輩には悪いが、早々に辞めさせてもらうつもりだった。
はっきり言って僕は訳の分からない『陰謀論』に自分の時間を、貴重な高校生活を費やすつもりはない。宇宙人何処にが攻めてこようが、アトランティスが何処に沈んでいようが、僕の人生には全く関係ない。何が哀しくて、高校3年間、ツチノコを探して山をほっつき歩かなきゃならないんだ。
だけど準備室には、まだ白峰先輩の姿はなかった。
その代わり、白衣を着た男が、背を向けて座っていた。
「ひ、ひひひ、ひひひひ……!」
怪しげな笑い声が教室に響く。僕は生唾を飲み込み、扉の前で固まった。見知らぬその男は……20代くらいだろうか……ブラインドを下ろした暗い準備室の中で、背中を丸めて顕微鏡を覗き込んでいた。
教室はこの前よりも散らかっていた。テーブルの上には、白い煙をもくもくと上げるビーカーや、ドクロマークの書かれた小瓶などが積み重ねられている。
「出来たぞ!」
突然男がそう叫ぶのと、ビーカーが爆発するのと、ほぼ同時だった。僕は悲鳴を上げ、今度こそ尻餅を付いた。
「この培養液を特定の鉱石に垂らせば……ウヒョオッ! 完成だッ」
何をそんなに興奮しているのか、彼は突然両手を天高く掲げ雄叫びを上げた。まるで猿の威嚇のようだった。そして、ぐるりとこちらを振り向くと、呆然としている僕を見つけ、ニタァ……と唇の端を釣り上げた。鼻息荒く、顔が真っ赤になっている。モジャモジャ頭の、唐辛子にメガネを付けたような、ひょろながい男だった。
「君ぃっ!」
「は……!?」
「『賢者の石』って知ってるかい!?」
「け、賢者の石……?」
「そう! 完成したッ」
彼はそう言うと、掌に乗せた、シュウシュウと白い泡を立てている小さな鉱石を僕に見せた。僕は眉をひそめた。血のように真っ赤な色をした、何だか毒々しい石である。
男は恍惚な表情を浮かべ、熱に浮かされたように語り始めた。つまり賢者の石って言うのは不老不死の力があるんだよ古代では硫化水銀じゃないかって言われていたがしかしそのままだと水銀中毒になってしまうからね何とかアマルガム化し毒素を中和できないかと色々試行錯誤していたんだダチョウの卵じゃなくてカエルの卵だったそれも限りなくオタマジャクシに近い卵だこれに辰砂を浸して……それで……それでとうとう完成した!
「ワハハハハーッ! これで今日から僕も不老不死だッ!」
僕はポカンと口を開けてそれを見ていた。何を言っているのか、ほとんど聞き取れなかった。白衣の男は、止める間もなく、満面の笑みを浮かべながら手に持った鉱石を口の中に放り込んだ。
「う……!」
たちまち顔色が、唐辛子が赤から緑に変わった。数秒も経たずに、男が勢い良く口から石を噴き出す。彼はそのまま泡を吹いて倒れ、後頭部を激しく床に激突させると、やがて丸めた新聞紙で叩かれた虫ケラみたいにピクピクと痙攣し始めた。
「う……うわぁーっ!?」
「メルキアデス先生!」
いつの間にか僕の後ろにやってきた白峰先輩が、床に伏せ、目を回している男を見てそう言った。僕は唖然として倒れた男と、先輩を交互に見比べた。
「せ……先生?」
「そうよ。『滅亡部』の顧問で、化学担当の、メルキアデス先生」
「メルキ……先生なの、この人?」
「安心して。先生は私たちの味方よ」
白峰先輩が僕にウィンクした。
「メルキアデス先生は、大の仕事嫌いで、こっそり学校を爆破しようとして閑職に追いやられ……『滅亡部』の活動にも一定の理解を示してくれているの。いつも色々な化学グッズを発明してくれてるのよ。社会の役に立たないのが欠点なんだけど」
「…………」
……ちっとも安心できない。『賢者の石』を口にし、顔を紫に変色させて気絶している男と、身じろぎもせず笑みを浮かべる白峰先輩。人類の滅亡を企む異常な日常。飛び交う陰謀論、閉じたブラインド、薬品の匂い。それが僕の高校生活の、『滅亡部』の始まりだった。
その日の夜。
F市周辺で、道行く人々が突然、黒い蛇のような生き物に噛まれる事件が数件発生した。中にはその毒で死亡した人もいると言う。動物園かペットショップから毒蛇が逃げ出したか、とにかく市長は警戒するよう、広く市民に呼びかけた。