第三話 悪意の恩寵
突然現れた謎の黒い蛇が、お菓子の山の上にぴょんと着地した。僕は改めてその生物を間近で見た。
長い胴体。
黒い鱗。
細く伸びた、血のように真っ赤な舌。
良くみると背中にフサフサと、赤みがかった体毛が生えている。ちょうど机の端にある、電気スタンドと同じくらいの体躯だった。ヴェルムと名乗ったソイツは、胴体についた短い手で器用にチョコレートの包みを開けると、ひょいと口に放り込んだ。手足が生えていると言うことは、蜥蜴だろうか?
『美味っ!』
四角いチョコを一口で飲み込んだ謎の爬虫類が、目を皿のように丸くした。
『こんな美味いモン食ってんのかよ人類……そりゃ堕落するわな。許せねえよなぁ。こりゃ滅ぼさないとなぁ』
などとブツブツ呟きながら、あっという間にお菓子の山を平らげて行く。僕はまだ床に尻餅をついたまま、呆気に取られてそれを眺めていた。
あぁそうか。
僕はようやく気がついた。これは夢なんだ。だって、現実にこんなことが起こるはずがない。動物が、蛇が人間の言葉を話すはずがないじゃないか。
『あ〜美味かった。んじゃ……』
ヴェルムは欠伸するみたいに大きく口を開け、軽くゲップをした。そして次の瞬間、
『……とりあえず死んどけや』
黒い稲妻。
まさにそんな感じだった。気がつくと、さっきまでチョコを食べていた侵入者が、黒い槍になって僕の体を貫いていた。
余談だが、蛇が獲物に喰らい付く速度は0.1秒以下で時速約100キロにまで到達する。これがF1マシンなら3秒はかかる……と言うと、どれだけ驚異的なのかご理解いただけるだろうか。あの滑らかな躰の中に、筋肉の数は人間の20倍あり、木登り、泳ぎだけでなく、滑空して空を飛ぶ種類もいる。
要するに避けようがなかった。
「あ……あ……!?」
一瞬、何が起きたか分からなかった。僕がゆっくりと俯くと、ちょうど胸の真ん中、へその上辺りに、何やら黒いものが生えていた。瞬きをする合間に、僕の心臓は串刺しにされていた。
「あ……え?」
冷や汗が止まらなくなって、僕はカチカチと歯を鳴らした。熱い。胸が焼けるようだ。痛みはなかったけど、吐き気が込み上げてきて、喉の奥からどろり、と、液状のものが競り上がってきた。僕はたまらずそれを吐き出した。たちまち床一面が漆黒に染まる。血?
いや、違う。墨汁みたいに真っ黒だ。これは……なんだ?
『ギャハハハハ!』
僕の胸にぽっかりと穴を開けた張本人が、後ろから僕の首筋に絡み付き、耳元で大笑いした。無論、僕の体を貫いたままで、だ。これが夢なら、悪夢には違いない。
『こいつぁ驚いた。まだ生きてるたぁ、テメーにも素質が有ったんだな!』
「そ……素質……?」
『嗚呼。人類の敵になる素質……”世界を滅ぼす才能”が!』
……意味が分からない。人類の敵? それはどう考えてもそっちの方だろ……首元に鋭利な鱗がザリザリ当たって、僕は息苦しくて、涙が出てきた。するとたちまち、視界が黒く滲んで、僕は驚いた。
なんだ、これは? 涙が……黒い??
『そいつぁ”悪意”だ』
ヴェルムが愉しそうにくっくっ、と嗤った。
『俺様の毒で、テメーの中の絶望粒子を活性化させた』
「絶望……粒子……?」
『嗚呼。憎しみや妬み嫉みを呼び起こす、最凶のエアロゾルよ! ヒヒヒ! これからテメーはテメーの悪意に飲まれ、24時間地獄の苦しみを味わって……それから』
「う、うぅ……っ!?」
『人類の”敵”に生まれ変わるんだ』
いつの間にか毒蛇の顔が目の前にあった。あった……と思う。息が苦しい。輪郭がぼんやりとしていて、焦点が定まらない。電気は点いているはずなのに、部屋の中は、目の前は真っ暗だった。
『愉しみだよナァ。テメーの悪意がどんな脅威に育つのか……生き延びれたら、の話だがな。ヒヒヒヒヒ! ま、せいぜい頑張れや』
「うぅう……うぁああ!?」
『じゃあな、坊主。運が良かったら、一緒に世界を滅ぼそうぜ……』
最後に黒蛇はそう囁いて、僕の体からズルズル……と抜け出て行った。あいにく返事をする余裕はなかった。貫かれた胸から、ドス黒い感情が、悪意とやらが洪水のように溢れ出し、僕の全身に広がって行く。
運が良かったら?
……運が悪かったら、の間違いだろう!
僕は床に突っ伏してのたうち回った。自分が絶叫しているのだと、気がつくまでに数秒かかった。痛みと、苦しみと、悲しみと……ありとあらゆる負のエネルギーが全身で暴れ回り、やがて僕はそのまま、意識を失った。
※
「……はっ!?」
と目を覚ますと、僕はベッドの上にいた。どうやら眠っていたらしい。時計を見ると、夜中の2時だった。
「う……」
僕は頭を押さえながらゆっくりと上体を起こした。頭が痛い。妙な夢を見ていた気がするが、内容がさっぱり思い出せない。何だか胸にぽっかりと穴が空いたような……そんな気分だ。
「あれ……?」
起き上がり、僕は眉をひそめた。机の上に置いてあった、勧誘でもらったお菓子が、いつの間にか全部食べられている。妹の仕業だろうか?
片付けていると、散らかったゴミの中に卵の殻のようなものが混じっていた。黒い、まるで恐竜の卵みたいに大きな欠片だった。内側が得体の知れない体液で滑っている。気味が悪くなって、僕はまとめてゴミ箱に捨てた。
何だか寝覚めが悪い。背中にびっしょりと寝汗を掻いていた。とりあえず夜風にでも当たろうと、僕は窓を開けた。ひんやりとした南風が、僕の頬を優しく撫でて部屋に入って来る。僕は大きく伸びをして、
「……ん?」
そのままの姿勢で固まった。
ふと、誰かと目が合った。
外にいる誰かと。
「んん?」
僕は思わず目を擦った。
あり得ない。僕の部屋は2階にある。目が合ったってことは、外にいるソイツは、悠に4〜5mはある、化け物ってことになる。あるいは幽霊か。そんなバカな。さっき僕は、夢から覚めたばかりなのだ。
「んんん……?」
暗がりに目を凝らして、僕は改めてソイツを眺めた。
闇の中で蠢く、漆黒の体毛。
月光に照らされた曲がった鉤爪。
口元から覗くこれまた鋭利な牙。
クマか、それともゾウ……いやトラ?
人間のように二足歩行で立ち上がった姿は、まさに巨人だった。
5m超の毛むくじゃらのバケモノが、窓の外にいる。星空の下、昏い獣の眼光が、ジッと僕を見つめていた。僕は悲鳴を上げることさえ忘れ、固まったままだった。
「……ヴォオオオオオッ!」
すると突然、バケモノが雄叫びを上げ、僕に襲いかかってきた!