第一話 終わりの始まり
高校生になったら野球部に入るぞ。
そして仲間たちと甲子園を目指すんだ。受験生になってから、勉強嫌いだった僕を支えていたのは、そんな夢だった。中学までは、生まれつき体が弱く病気がちなこともあって、両親が首を縦に振ってくれなかったのだ。野球どころか、その辺を軽くジョギングすることさえ、僕は固く禁じられていた。
昔から白いベッドの上で、近くの学校から聞こえる運動部の溌剌とした声を、僕はいつも羨ましい思いで聞いていた。あの青空の下を思いっきり走り回ったら、どんなに気持ち良いことだろう。物心ついた時から、家よりも学校よりも、病院にいる方が長かった。公園なんて持っての他だ。
ある日、病院にナントカというプロ野球選手が慰問に来た。それで、ベタな話だけど、彼は僕の病室に来て眩しい笑顔で「明日ホームランを打ちます!」と約束したのだった。
その時僕は「そんな漫画みたいな話があるかよ」と、正直全然信じていなかったのだけれど、なんと彼は次の日、本当にホームランを打ってしまった。もしかしたらあの時の彼は、本当に漫画の主人公だったのかも知れない。とにかくそれ以来、僕は野球の虜になった。
やがて成長期に入り、身長も伸び体つきもしっかりして来たところで、お医者さんからもついにGOサインが出た。両親はそれでもまだ渋っていたが、高校に合格したらという条件付きで……中々教科書に手がつかない僕を奮い立たせるつもりだったのだろう……野球部に入っても良いと約束を取り付けた。
それで、この1年間、僕……三畳三太は、大っ嫌いな勉強に必死に齧り付いてきた。その甲斐もあって、何とか地元の高校にギリギリ滑り込んだ。合格通知を握りしめ、僕は小躍りした。やった! これで野球部に入れる……もちろん、高校生から野球を始めたところで、そう簡単にレギュラーになれないことくらい、僕だって分かっている。世の中そんなに甘くない。
だけど、せっかく一回きりの人生じゃないか。
後悔だけはしたくない。ここでもし怖気付いて、たとえば『ネガティ部』なんてギャグ漫画みたいな部活動に入ってしまったら、僕の高校生活は確実に暗く、悲惨なものになってしまう。
スポ根少年漫画の主人公になるか、それともギャグ漫画の住人になるか……僕は今、人生の分岐点に立っているのだった。
「サッカー部に入りませんかぁ〜!?」
「そこの君、ラグビー部覗いてかない!? ねぇ!?」
「バスケ部〜! バスケ部〜!」
入学式の後。
校門前では、早速大勢の部活動生たちが勧誘活動を始めていた。目の前の道路を埋め尽くすほどの人、人、人……この学校に、これほどの生徒がいたのか。あまりの熱気に、僕は圧倒された。他にも陸上部だとか水泳部だとか、たくさんの先輩たちが僕に勧誘の紙やお菓子を押し付けてきて、気がつくと僕の両手は荷物でいっぱいになってしまった。
この学校では生徒は何かしら部活動に所属しなければならなかった。もちろん僕の入る部活は決めている。だけど人混みの中で、もみくちゃにされながら、中々前に進めないでいた。
「そこの君!」
「え……うわっ!?」
振り向くと、不意にフラッシュが僕の目を襲った。写真を撮られたのだ。気がつくと、いつの間にか僕の目と鼻の先に、見知らぬ老婆がいた。
誰だろう? 通行人だろうか。僕は首を捻った。少なくとも、この高校の生徒じゃないことだけは確かだ。暗く、濁った瞳で、老婆は呆然と立ち尽くす僕を見上げ、嗄れた声で告げた。
「嵐が来るわ……」
「……ターミネーター?」
「ヒヒッ」
ボロ布を纏った老婆は、薄気味悪い笑みを浮かべ、よろめきながら人混みの中に紛れて消えていった。
「コラ〜ッ! お前たち!」
そのうち体育教師と思しきジャージ姿の中年男性が、竹刀を片手に校門前に走ってきた。
「道路に飛び出すなと言っとるだろうが! 殺すぞ!!」
ぎゃあぎゃあと、大騒ぎに巻き込まれ、僕はもみくちゃにされながら……その時はまさか、老婆にあんなものを押し付けられていただなんて、思いもよらなかった。
「はぁ……はぁ……」
それからしばらくして。気がつくと僕は知らない校舎の片隅にいた。
全くとんでもない目に遭った。危うく初日から、教師に撲殺されるところだった。時計を覗くと、すでに18時を回っていた。グラウンドの方からは、部活生たちの掛け声が聞こえてくる。なんてこった。あんなに意気込んでいたのに、すっかり出遅れてしまった。
……ここは何処だろう?
僕はキョロキョロと辺りを見回した。入学したばかりで、場所が良くわからない。野球部のグラウンドに行くにはどう曲がったら良いのだろうか……僕が途方に暮れていると、目の前の角から、不意にその女子生徒が現れた。
「あ……」
「……え?」
その人は僕を見るなり目を輝かせた。知らない人だった。色白で、髪は長く、高校指定の黒髪を律儀に守り(中には初日から染めてくる奴もチラホラいた)、腰辺りまで伸ばしている。
大きな瞳と、鼻筋の整った顔立ちは、まるで外国の綺麗な人形のようだった。はっきり言って、かなりの美少女だ。僕は自分の心臓が、きゅうりを見つけた猫みたいに飛び上がるのを感じた。
「貴方……」
「え……え?」
着ている制服から、恐らく三年生だと思われる。学年ごとに微妙に色やデザインが違うのだ。だとしたら先輩だ。見知らぬ美少女先輩が、ふわりと髪を風に靡かせ、ゆっくりと僕の方に近づいてきた。何だか甘ったるい匂いが鼻を擽ぐる。異性に免疫のなかった僕は、それだけで膝から崩れ落ち、泡を吹いて倒れそうになった。
「貴方……もしかして入る部活を探してるの?」
「え? え?」
少女はさっきの老婆みたいに、僕の目と鼻の先に立つと、僕の顔をジッと覗き込み……僕はそれだけで、蛇に睨まれたカエルみたいに硬直した……両手で僕の手を握りしめて、僕にこう囁いた。
「良かったら、私と『滅亡部』に入らない?」
高校生になったら、野球部に入るぞ。それが僕の夢だった。だって、せっかく一回きりの人生じゃないか。後悔だけはしたくない。僕の人生を、ギャグ漫画にはしたくない。
だから僕は、顔を真っ赤にして、声を震わせつつ、彼女にこう言ってやったんだ。
「は……はい! よろしくお願いします!」