第九話 無限の有限
「うん。それはもしかしたら『並行世界』かも知れないね」
「並行世界?」
次の日。
部室に行くと、瑪瑠奇先生が磁石を使った永久機関を試作しているところだった。昨日の……悪夢としか思えないような……出来事を相談すると、先生はメガネを光らせてそう言った。
「そう。SFなんかではお馴染みの設定なんだけど、要するにこの現実Aとは違うもう一つの現実Bが、僕らの隣に存在しているんだね」
「そうなんですか?」
「最近じゃ『異世界』と言った方が伝わるかも知れない。つまり『多元宇宙』、『マルチバース』だ。宇宙は一つじゃないという考え方。この世界Aとは全く違う物理法則で動いている世界Bが……僕らが認識出来ないだけで……あるんじゃないかって、えらい物理学の教授が本気で話し合ったりしているんだよ」
「へぇ〜……」
瑪瑠奇先生がニヤリと笑った。その世界Bにも三畳くんBは存在していて、こっちの世界Aとは別の人生を歩んでいるかも知れない。Bの君はバリバリの陰謀論者かも知れないし、何ならCやDがいて、勉強が大好きだったり、あるいはスポーツが超得意だったりするかも知れない。
「それじゃ、昨日見たあの『夢』は……」
「夢じゃなくて、別の並行世界に迷い込んだのかも知れない」
テーブルの上で永久磁石がくるくる回って、やがてそれぞれ別の方向へと永久に弾き飛んだ。
「たとえば君は、こんなことを考えたことはないか? 朝起きて、君はいつも学校への道を右に曲がる……とする。だけど、もし左に曲がったら、今とは全く違う別の人生が待っていたかも知れない。食パンを咥えた運命の人にぶつかっていたかも知れないし、あるいはトラックに轢かれて死んでいたかも知れない」
「…………」
「世界はいくらでも『可能性』に満ちている。たまたま君は右の道を選んで、この世界Aにいるだけで、左に曲がったBの人生も実はこの宇宙の何処かで確かに続いているんだ。そうやって『分岐点』を枝分かれして行って……無数の『並行世界』が生まれているのさ」
「分岐点……」
「君が迷い込んだのは、そう、彼の」
そう言って先生は部室の隅で身を縮こまらせていた青年……二宮二葉……の方をチラリと見た。その側では白峰部長がビーカーでコーヒーを作って、彼に振る舞っているところだった。
「彼の『起きたかも知れない未来』だ。その異世界Bで、君曰く、彼は超人的なチート能力を手に入れて無双していた。そのまま放っておいたら、君は世界Bから抜け出せなかっただろう。しかし君は見事に『分岐点』を引き返し、この世界Aに戻って来たんだよ」
「…………」
「同じ元素でありながら質量数が異なるモノを化学的には『同位体』と言う。元素の性質は同じなんだが、周りを取り囲む中性子の数が違うんだ。この場合たとえば『ウラン238』や『ウラン235』、『ウラン234』と言った具合に分けられる。どうだい? パラレルっぽいだろ?」
僕は何だか頭が痛くなってきた。同位体? 並行世界??
分岐点の方がまだ分かりやすい。昨日もし道を右に曲がっていたら。あるいは左に曲がっていたら。
だけどその『分岐点』とやらが、自分だけじゃなく、他の人にもあるとすると、そうなるととてもアルファベットじゃ数え切れない。世界はほぼ無限に生成され続けていることになる。
瑪瑠奇先生が白衣の内ポケットから「新生」を取り出して火を着けた。もちろん校内は禁煙である。
「なぁに、難しく考えることはない。仮定はあくまで仮定。人生は一本道さ。その無限に近い選択肢の中から、君はたった一つを選んで此処にいるというわけだ」
先生はそう言って僕のはだけた胸をじっと見た。僕は俯いた。昨日から、まるで胸が内側から張り裂けたみたいに、ミミズ腫れみたいな傷跡が僕の胸に浮かび上がっていた。
いつの間についたのかも分からない。心当たりがあるとすれば、その夢の中で怪我した……しかし、そんなことがあり得るのだろうか? 夢の中の怪我が、現実に?
「互いに影響を受けるというのはあり得るかも知れない」
先生が頷いた。
「つまり、AとBがね。Bで怪我をすれば、君がAに戻って来たとしても、全てがなかったことにはならない」
「殺された人々は……」
ゆらゆらと紫煙が僕らの間を燻る。僕は昨日の様子を懸命に思い出しながら喋った。
「……殺されたはずの人々は、夢から覚めたら、確かに生きてはいたんです。元通り……だけど様子がちょっと変だった。本当に、まるで現実だったみたいに……中には突然泣き出したり、いつの間にか血を流している人も」
「そういう経験、君もあるんじゃないか? 怖い夢を見て心臓がバクバクして飛び起きたり。夢と現実は必ずしも切り離せるものじゃない。両者は繋がっているんだ。人は想像だけで傷つくし、死んでしまうものなんだよ」
「死……」
僕はブルッと体を震わせた。
「君は世界を滅ぼしたいのか?」
「いいえ。そんなことしたくありません」
僕はキッパリそう答えた。ここだけはハッキリしとかなくてはならない。成り行きでこんな部活に入ってしまったが、濡れ衣を着せられたらたまったもんじゃない。
「だったら『分岐点』まで引き返すことだ」
先生がビーカー・コーヒーを飲みながら微笑んだ。
「でなければ君は『境か……今日からでも並行世界に取り込まれてしまうだろう。気をつけろよ」
そう言って先生は白峰先輩の方をチラリと見た。
「……他人が君と同じ世界を望んでいるとは限らないから」
「……はい」
白峰先輩はというと、さっきから昨日知り合ったばかりの青年……2年生の二宮二葉と何やら話し込んでいた。
「……ないって言うんですよ」
青年は俯き加減に、だけど熱っぽく語った。
「アイツら、宇宙人なんていないって言い張るんですよ。本当はもう地球に滞在してるのに!」
「うんうん」
「俺、観ました。子供の頃、田舎の叔母さんの家で、UFOを。証拠映像だってあります。観ますか? こんなの作り物だって、誰も信じなかったけど」
「もちろん私は信じるわ」
「世界中で、たくさんの人が声を上げてるのに! 宇宙人に攫われたり、改造されたり。俺が『超人類』に進化したのも、本当は宇宙人の仕業なんです。どうして真実から目を逸らすんだろう? 目覚めろよ日本人!」
「そう……それでアイツらにイジメられてたのね。可哀想に」
「何の話?」
僕は不安になって2人に近づいた。何だか嫌な予感がする。案の定、白峰部長はコーヒーの白い湯気から顔を出し、二宮先輩ににっこりと笑いかけた。
「貴方にぴったりの部活があるわ」




