白昼明晰夢
これは白日夢?いや、明晰夢というやつか?それとも現実なのか?
朝目覚めると、そこは夢の世界でした。
私は子供の頃からよく夢を見る。と言うより目が覚めても見た夢をよく覚えていると言った方がいいのだろうか。
大概の人は一晩に3つほどの夢を見るというが、目覚めると直ぐに忘れてしまうことが多いらしい。そういう人は夢なんて見ずにぐっすり眠ったと思い込んでいるようだが、私の場合はリアルな夢を見て、気が付くといつの間にか目覚めているといった感で、その日の夢の感覚を目が覚めてからも1日中引きずってしまうくらいだ。
その夢ときたらまったくもってリアルで、総天然色、匂いもあり、暑い寒い、痛い、苦しい、そして気持ちいい事も現実と全く区別がつかない。困ったものである。
まあ、しかし、私の現実というのが実に味気なく惨めなものであったから、夢の中の出来事は私の人生に様々な彩を与えてくれているともいえる。
私は40歳独身、アルバイトで生計を立て、一人暮らしをしている、人生の負け組なのだ。
一時は漫画家になろうともがいた時期もあったが、しょせん「無い才能は振れない」という事に気づいた時にはもう巻き返しもかなわない歳になっていた。それからはずっと今のようなその日暮らしだ。
他人は良く諦めたらそれまで、幾つになっても頑張っていればいつかは報われる。などと言うが、その気力というものから衰えてくるのだから仕方がない。
今の私の生きがいと言ったらまさに、夢を見ること、夢の中で自由にやりたいことをやることだけなのだ。夢の中でなら、私はスーパーヒーローにもなれるし、連続殺人鬼にもなれるのだ。
そんなダメ人間の私に突拍子もない転機が訪れた。それからというもの私の人生は天と地がひっくり返ったように目まぐるしくころころと展開していった。
その日私はいつものようにだるい体を引きずるようにして家を出た。駅への道をぼーっとしながら歩いていると、わき道から飛び出してきた自転車にぶつかり、もんどりうって倒れた。そうして電信柱にしたたか頭をぶつけてしまったのだ。脳しんとうというのか、一瞬意識が飛んだが、すぐに気が付くと、目の前には息をのむほどの美人が私の顔を覗き込んでいた。
「あのう、大丈夫ですか、お怪我はありませんか」
やっと我に返るとあちこち擦りむいていることに気が付いた。
「急に飛び出してきて危ないじゃないか。あいたたた」
「ごめんなさい、今救急車を呼びます。待っていてください」
「あ、いや、救急車を呼ぶほどではないよ。これから仕事なんだ、遅刻してしまう」
「いいえ、むち打ちなどは今は平気でも後から痛みが出ます。よかったら私の家に来てください。私看護師で応急処置くらいならできますから。すぐそこです」
「いやあ、そういう訳にはいきません。これから仕事なんです」
「では連絡先の交換だけでもお願いします。万が一の時はご連絡ください」
私は仕方なくスマホを取り出し、彼女とプロフィールの交換をした。結局、1日たってもどこも不思議なほど痛みも異常もなかった。美しい女性に連絡する理由がなくなってしまったと、ちょっと残念に思っているところへ、当の彼女から電話が来た。
「あのう、昨日自転車でぶつかった沢田環と申します。若林さんでいらっしゃいますか。その後お加減はいかがでしょうか、心配で居てもたっても居られず、ぶしつけながらお電話させていただきました」
「ああ、私なら大丈夫です。ご心配なく。どこも痛い所はないですし、むち打ちなども無いようです」
「あのう、お詫びのしるしに晩御飯をご一緒願えませんでしょうか。是非ご馳走させていただきたいのですが」
そんな出逢いからとんとん拍子に話は進み、環さんと交際することになった。半年後には結婚をし、2年後には1児の父ともなった。美しく優しく働き者の環は子育てと仕事を完璧に両立し、こんな私にはもったいないほどの妻となってくれた。
私は幸せの絶頂を味わっていた。仕事先ではアルバイトから正社員に昇格し、退屈なピッキング作業からマネージャーになり、仕事も楽になった。子供はかわいく、妻はそれ以上に愛しい。そして彼女はこんな私を愛してくれている。人生とはこんなにも急激に方向転換するものなのかと我ながら驚いている。それというのもすべて愛する妻、環のお陰である。
ただ、一つだけ不思議なことがある。取るに足らないことかも知れないが、最近はぱったりと夢を見なくなった。朝起きた時には見た夢を全く思い出せないのだ。だが、その時にはキッチンから朝飯を作るリズミカルな音が聞こえ、最高の目覚めが毎朝訪れるのだから、気にかけることでもないのだろう。
それからどれだけの時が流れたのか、私は違和感を感じて目覚めた。するとそこはは病院のベッドの上だった。
私はすべてを悟った。自転車とぶつかり倒れこんだ時から私は眠ったままだったのだ。その後の一連の出来事はすべて私の夢の中の出来事だったのだ。現実はきっとあの事故の前と何も変わらず俺を待っているだろう。
あれから時間はどれだけ流れたのだろう。数日か、数か月か、あるいは数年、数十年ということもある。
私は鏡を見る勇気はおろか、目覚めたことを全く見覚えのない中年の看護師に伝える事さえできずにいる。
おわり