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平日の夜のファミレスは客がまばらで閑散としていた。閑散と言っても、店内ではBGMが垂れ流されているため、静かではないはずなのだが、人間は不思議なもので、不必要な情報をカットしているのか、その曲も空気となってしまう。
机には、ドリンクバーから取ってきたコップが複数と、勉強道具が広がっている。繫盛する時間帯だと必ず定員に追い出されるが、今は客が少ないため、見逃されているみたいだ。
俺は追試で出題される英語の長文をじっと見つめながら、悶々とした。
「ダメだ。サッパリわからん」
正面に座っているセラは紙ストローでジュースを飲むと、
「どこがわからないの?」
「全部わからない。最初っからだ。この『Long time no see!』からわからない」
「どれどれ」
セラはひょいと顔を近づけてきた。
ほのかに甘い香りが漂ってくる。音を立てないようにして吸い込むと、俺はプリントに視線を落とし込む彼女の整った顔をじっと見つめることにした。
「会話文か……わからないところは、分けて考えてみるといいよ」
「分けて考えるのか。よしやってみよう」
「じゃあ、まず『Long』は?」
「『長い』って意味だ」
「次に『time』は?」
「時間」
「『no see』は?」
「そこが難しいんだ。『see』はシーだから……海か! わかったぞ。『Long time no see』は『長い時間の海』って意味だ。つまり、長い時間、海に潜ってたってことだろ?」
「なに、このセリフを言ってる人は海で自殺でもしようとしてるの? 全然違う! そもそもなんで『no』が『の』で、日本語のままなの! しかも、この『see』は海じゃなくて、見るって意味!『長い時間見ない』から転じて『久しぶり』って意味になるの! わかった?」
セラはトントンとペンで単語の部分を叩いた。その手はとても白かった。すっと血管が浮いていて、でも柔らかそうで、すべすべした綺麗な肌だった。
そういえば、近くでセラを意識して見たことがなかった。薄いピンクの唇、つるんとなだらかな鼻、近くで見ると、新しい彼女を発見することができる。
おっと、正直言うと、話をほとんど聞いていなかった。それに勉強にもあまり集中できなかった。セラがいるせいだ。せっかく教えてくれているのに、ちょっとだけ申し訳ない気分になった。
「ああ、えっと、『長い時間、海を見てないから』から『久しぶり』って意味になるんだろ?」
「どこから『海』が出てきたの……」
「冗談だよ」
「もしかして……シュウくんって本物の馬鹿だったの?」
「なんだよ、本物の馬鹿って。まあ、いいやちょっとトイレ行ってくる」
やはり、ファミレスでドリンクバーを頼むと、飲み過ぎでトイレが近くなる。
「私、ドリンク取ってくるけど、シュウくんの分も持ってこようか」
「お、ありがたい。じゃあ、コーラで頼む」
トイレに行って戻ってくると、なんとなく想像していたが、やはりセラによる変ないたずらがされていた。
机の上には普通のコーラと、どこからどうみても怪しい、赤く所々緑色をした飲み物の二つが置いてあった。
「なにを混ぜたらこんな色になるんだ?」
「さあ、当ててみて」
変な色をした色のジュースを飲んでみた。
「そうだな、選ばれし者の知的飲料に、苦さと辛さとメロンの甘さを付け足したような味だな」
「へ~そんな味がするんだ。どれどれ」とセラは変色ジュースを飲んだ。
とても自然な流れで平然と飲んだので、一瞬気づかなかったが、これは立派な間接キスだった。でも、俺は驚く素振りなんて見せなかったし、狼狽もしなかった。ただ、平然とそれを眺めていた。
当たり前だろう。もし俺がここで慌てふためいていたら、『え、シュウくん、こんな小さなことでビックリするの? 私なんて彼氏ともう、いくところまでいっちゃったよ』なんて言われてしまう。言われたら、それこそ、ジュースをセラの顔に吹き出して驚いてしまう。
平静を保ちながらも、お口直しにもう一つのセラが注いできたコーラを飲んだ。
「ニガッ!」
吹き出しそうになるのをなんとか堪える。
「なんだこれ! このコーラ腐ってるぞ!」
「へえ~」
とセラはニヤニヤと笑みを浮かべた。コイツ、コーラにも何かを入れたのか?
「面白いね。これはコーラじゃなくて、コーヒーだよ。人はコーヒーをコーラだと思って飲むと腐ってるって感じるんだ。実に興味深いね」
いたずラッコめ。
その後、なんとか集中して勉強に取り組むことができた。コーヒーを飲んだおかげだろうか。
セラの教えはとてもわかりやすかった。やはり頭のいい人は単に知識を蓄えるだけでなく、こうして馬鹿にもわかりやすく出力する能力もあるのだな。とつくづく実感した。
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勉強を終え、会計を済ますと、店を出た。会計のとき、俺はセラの分も払おうとしたが、セラはそれを拒否した。
「たった数百円くらい払わせてよ」と言うと、
「いいよ、これは上着を貸してくれたお礼なんだし、たった数百円なんだから」
とのことだった。
相変わらず、俺は徒歩で、セラは自転車だった。やっぱり田舎は自転車がある方がずっと便利だな。俺も今度買ってもらおうかな。と心の中でひっそりと思った。
「私、おつかい頼まれてるから、こっちから帰るね」
セラは反対の方へ自転車を向けた。
「そうなのか。わかった。じゃあ、今日はありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうね。また!」
自転車が発進した。セラが角を曲がるのを見届けると、俺も家に向かった。
店がある大通りから家までを結ぶ田舎道は街灯が一つもなく、真っ暗だった。でも、何も見えないわけじゃない。目が暗さになれると、月明りが道や田んぼを照らしていることに気が付く。
やがて薄っすらと、地面に影が落ち込んでいることがわかった。月が作る影はどこか青みがかっていて不思議な気分になった。周囲は田んぼと畑と林のみ。一つ田んぼを挟んだ向こう側の通りでは、たまに車が通過するが、そのエンジン音はカエルの声にかき消されるのでなにも聞こえない。
道を進んでいると、正面に、一人の影が見えてきた。車一台分の幅しかない、細く暗い道の真ん中で、まるで俺を待ち構えるように立っている。
女の人だろうか。俺よりも、背は小さく華奢な体付きだった。
とても不気味だったので、引き返そうかと思ったが、それもそれで嫌だった。よくわからない未知なものに、背中を見せたくはない。
できるだけ、道の端を歩き、その人影と目を合わせないように努めた。
その人影は仁王立ちをしてじっと動かない。
やがてその影とすれ違った。
その瞬間、待ち構えている人の顔を見た。
もちろん、知らない、見たことのない顔だった。小柄な男で歳は同い年か、少し下だろうか。とても中性的で、可愛らしい顔をしているものの、クールな瞳を持っている。だから、こいつは男だとわかった。
もし、俺が女だったら、すぐに好きになってもおかしくないくらいの、なかなかなイケメンだ。
なんとなく会釈をした。
「君はセラさんとこれ以上関わるべきじゃないよ」
謎の男は、青い氷の中のナイフのような、とても冷たく、静かな声で言ってきた。
このとき、思考が停止した。なにを言っているんだ。こいつは。いろいろとわからない。
わからなすぎて、なにがわからないのかすら、わからない。
すぐに、男の方を振り向いた。
謎の男は立ち止まっておらず、もうすでに反対方向へと歩き始めていた。
呼び止めて聞いてみるべきだろうか。でも、意味が分からな過ぎて、謎すぎて、何を聞けばいいのかわからないし、恐ろしい部分もあった。
『お前は誰だ?』
そんな簡単なことも聞けない。なにも聞けない。俺に勇気がないからだ。
こいつは一体、何なんだ?
まさか、セラの彼氏か?