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「あ、俺の名前ある……」
中間テストの英語で赤点を取り、居残り補習に加えて追試も受けなければならない生徒のリストがあった。俺は居残りと追試をする羽目になってしまったのだ。
最悪だ。英語の先生は厳しいと噂には聞いていたが、まさかここまでとは。
「やっほおお! ぬっきーの名前は乗ってないにょ! テストから解放されたにょ!」
まるで、俺に見せつけているかのように喜ぶぬっきー。待てよ。
「ぬっきーと俺、点数ほとんど同じだったよな?」
「ぬっきーは三十点、赤点は回避してたにょ。シュウは二九点。赤点だにょ」
「たった一点の差じゃないか。それで、俺は居残りと追試のダブルパンチをくらい、ぬっきーはぬくぬくと自由を満喫できるのか?」
ぬっきーはチッチッチと、人差し指を立てて振ると、
「人生っていうのは、たったの一点で大きな差が生まれるものなんだにょ。じゃあ、居残り頑張れ! ばいばいにょ!」
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放課後、俺は補習を受けたが、あまり内容が頭に入ってこなかった。
もう夕方だ。今頃セラはどこでなにをしているのだろうか。
頭をポンと叩かれた。
「東雲君」
先生の話を流していたのがばれたみたいだ。
「あ、はい」
「私がなにを言ったかちゃんと聞いていたかね?」
「耳には届いていたと思います」
「じゃあ、私はなんて言っていた? 説明しなさい」
「『私がなにを言っていたかちゃんと聞いていたか?』でしたっけ?」
「ちがう。『私がなにを言っていたのかちゃんと聞いていたかね?』だ。語尾に『ね』がついていないよ」
「あ、すいません。話をちゃんと聞いていませんでした」
「よろしい。じゃあ、君だけのためにもう一度説明しよう」
先生は突然息を大きく吸うと、「いいかッ! 追試の赤点は六十点未満だッ、よく覚えておけッ!」と怒鳴り散らした。突然の大声に心臓がぴくんと飛び跳ね耳がキーンとした。多分他の人もそうなったはずだ。
やっぱり、人を小ばかにするのはよくない。
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なんとか補習を終えた俺は、帰路についた。長いようで短い一日だった。太陽は山の向こうからわずかに頭を出すくらいで、もう大半の空は暗くなっている。学校の前の通りは暗くない。国道で交通量も多く、店が立ち並び、街灯もしっかり一定間隔で並んでいるためだ。もちろん、田舎なので、国道から一本でも道がずれると、街灯の間隔が広がると同時に不規則になる。
緑色をした絨毯のような田んぼに水が張られると、カエルの合唱が夜に始める。でも、国道沿いは車の出す音の方がうるさいのと、建物が並んでいるため、カエルの鳴き声は届かない。
昔住んでいたところは、田んぼが無かったので、カエルの鳴き声なんて聞こえなかった。いまはもう、その建物は無いだろうが。
俺は一つ、大きな悩みを抱えていた。それは、セラとの距離の縮め方がわからないという、男子高校生の半分は経験していそうな、ふっつうの悩みだった。だが当事者の俺かすれば、重大な事案だ。
なんとか、辛うじて、首の皮一枚、セラとの関係を保っている。過去の俺が、セラに勇気を出して連絡先を聞いたおかげだ。そう連絡先は持っている。
しかし、あれから数日が経ち、それ以上の進展は何一つないし、そもそもトークすらしていない。
実は先の補習中、俺はセラとどう距離を縮めていたのかを思案していた。
また一緒に登校しようと誘う? いやいや、それはもう、『俺はあなたのことが好きです』と言っているようなものだろう。一度俺はフラれているんだ。好意は見せたくないし、見せられない。加えてもしも、向こうに彼氏がいたらと考えると……やはりこの案は却下だ。
遊びに誘うのはどうだろうか。それも不自然だ。そもそも、メッセージが一度途絶えてしまったのだから、なにをしても不自然になってしまう。
一回フッタのに、またアプローチしてきたよ。気持ち悪ッ! と思われるのが落ちだろう。
どうやってセラに近づけばいいんだ。ダメだ。これ以上セラに近づく、口実と話題がない!
頭を抱えながら交差点で信号を待っていると、自転車で横側の信号からこちらに渡ってくる、セラを見つけた。
これはラッキーなのかもしれない。
俺は声を出さずに、小さくセラに手を振った。きっと向こうも気づいてくれるだろう。ほら、目が合った。
セラは気が付かなかった。
目が合ったのに。
このままだと通り過ぎてしまう。
「セラ」と自転車が通りかかるときに呼ぶと、セラはようやくこちらに気づいて停止してくれた。
「あれ、シュウくんだったの! ヤッホー!」
「わかんなかった?」
「ごめん、私、視力が悪いから識別できなかったんだよ! こんな遅くに下校? 部活かなにか?」
セラに補習のことを言おうか迷った。言ってしまうと、俺が馬鹿であるイメージがより定着してしまうからだ。やっぱり、男というものは下に見られるのは嫌なのだ。
まあ、正直に話すんだけど。
「テストで赤点取っちゃって、補習を受けていたんだ。二回もね」
「へえ、シュウくん、赤点取るんだ。なんとなく、そんな気がしてたんだけど。でもなんで二回も受けたの?」
「一回目は赤点を取ったからで、二回目は『一回目の補習で先生の話を聞いてなかった』からだ。それより……」
水滴が、セラの腕を流れた。よく見ると、セラの下着が若干透けている。服が濡れているのだ。汗……じゃないだろう。六月とはいえ、まだ大量の汗をかくほど暑くはない。雨……も違うだろう。今日は降ってない。それどころか、雲一つない晴天だった。
透けたセラの下着を目の当たりにしたとき、下心よりも、どうして濡れているのかという疑問の方が強く浮き上がってきた。
「なんで濡れてるの?」
「え? ああ、これはね、うちの高校の前に八鶴湖があるでしょ? そのほとりの木に猫が登っちゃって、降りれなくなってたの。それを助けようとしたら、私も八鶴湖に落ちちゃって。この通りだよ」
「そうなんだ。大変だったね」
「そんなジロジロ見ないでよ変態!」
「別に、ジロジロは見てないよ。ちょっとだけさ」
「視線がジロジロしててキモイ!」
「キモくて悪かったな。寒くないか? 上着、貸そうか?」
「へえ、シュウくんも気を遣えるようになったんだ」
「なんだ、その上から目線。逆に上着剥ぐぞ」
「でも、私が借りたら上着が濡れちゃうよ?」
「寒さで風邪を引いちゃうよりはいいだろ」
「じゃあ、しょうがないから途中まで借りてあげるよ。ありがとうね」
「そうしてくれ」
俺は上着を脱ぐと、自転車を押すセラの肩にかけた。
国道から外れ、街灯の少ない田舎道に出た。辺りは青暗く、風は冷たいが、わずかに射す夕日が暖かさを守っている。
俺は補習で疲れ、セラもセラで疲れているみたいで、会話が行われなかった。でも、シンと静かにはなることはない。カエルが鳴いているおかげだ。
何かをするチャンスだと思っていたのだが、何をするチャンスだったのか、もう忘れてしまった。
そして、上着が返される場所に辿り着いてしまった。俺はここを左に曲がり、セラは真っ直ぐ進む。
自然とここで立ち止まった。
「シュウくんは補習だけで追試はないの?」
「いや、残念ながら英語の追試があるんだよね」
「じゃあ、今度一緒に勉強しない? 私、英語が得意だから、力になれるかも」
「本当か。そりゃあ、ありがたい。是非たのむよ」
まさか、こんな形でセラと接近できるとは、思いもしなかった。普段、悪いことが起きたときか、神社か寺に行くときしか、神様について考えないけど、これは本当に神様ありがとうだ!
「追試はいつなの?」
「明後日だよ」
「明日しかないね! 夜でもいい?」
「よる? もちろん」
セラは上着を渡してきた。
「これ、ありがとうね。暖かったよ」
受け取った上着はほんのり湿っていて、ほんのり暖かい。俺は上着をセラに突き返した。
「俺って実は暑がりなんだ。今日は肌寒いだろ? だからそのまま着て行ってくれ。明日会うんだ。そのとき、返してくれれば大丈夫だ」
「学校あるのに?」
「ああ、大丈夫だ」
「そう、ありがとうね」
あれ、てっきり、セラに何かしらいじられると思った。でも、セラは言わなかった。
素直に上着を羽織ると、自転車を漕ぎはじめた。
「じゃあ、また明日」