15
日曜日の今日、俺はセラと映画を見に行く。でも勘違いをしていけない。こではデートではないのだ。あくまでも、これはセラを元気づけることが目的なのだ。
鏡をじっとみつめ、整髪料をちょんちょんと髪につける。普段ワックスはつけないが、今日は寝ぐせが酷いからワックスをつけるのであって、別にカッコつけではない。と自分に言い聞かせる。
駅でセラと合流した。
「あれ、シュウくんが髪にワックスしてるなんて珍しいね」
会って数秒で。セラに指摘されてしまうとは思わなかった。でも大丈夫、理由はちゃんとある。
「ちょっと寝ぐせが酷くてね。整えるのに使ったんだ」
「へ~ワックスってそんな使いかたもあるんだね」
セラは大きな瞳でこちらを見て笑っている。目が合うとすぐに俺は別の方向に視線を飛ばす。
水が薄く張られた湖を切り開いていくかのように、電車は水面世界の真ん中を突き進む。
目的の駅で降りると、暑くじめじめとした風が吹いた。
「ここの駅の天井って戦争で崩落したんだよね?」
「え、ああ、そうらしいね」
セラは興味なさそうに返事した。
「すっかりなおってる」
それにどこが崩落したのか判別がつかないくらいきれいに復元されている。一方で、俺たちの住む田舎町の駅は、まだ構内から青空を拝めることができる。これが都会と田舎の差だろう。
都会に来たのは久しぶりだった。戦争の傷跡は都市部ではすっかり消えているように見えた。
駅から映画館までは距離がある。だが、この町は行政が優秀で、市内を無料で巡回するバスがあり、その経路に映画館が含まれている。
駅前のバス停から出る巡回バスに乗り、映画館の前に到着した。
バスを降りて、セミの鳴き声を初めてうるさく感じた。
「シュウくんってさ、青色好き?」
「青?」
空。いいや、電柱に張られた、ペルディア人のポスターが視界に入った。奴らは蒼い瞳と深く青い髪が特徴だ。奴らは両親を殺した。そんな奴らの色だ。
「嫌いだね」
「あ、そう。じゃあちょっと待っててね」
建物に入る前、セラは自動販売機へ向かった。そして二本のジュースを携えて戻ってきた。
「いやあ、暑くてのど乾いちゃってさ、ほい」
セラは冷たい青い色をした炭酸飲料を渡してきた。なんだ。嫌がらせのために聞いて来たのか。
「金出すよ」
財布を出そうとすると、
「いいよ、これくらい出させて」
とセラは微笑んだ。
蓋を開けると、爆発したかのように、炭酸と共にコーラも吹きでた。手はもちろんのこと、服も爆発に巻き込まれてしまい、びちょびちょに濡れてしまった。手の甲の上で気化する炭酸はすこしくすぐったい。
その様子を見ていたセラは「ププッ」と笑っている。どうやらわざとコーラを振ったみたいだ。
「なるほど。だから金は出さなくていいのか」
「そういうこと。あーあ。すごい濡れちゃったね」
セラは自分のハンカチを取り出すと、「これで拭いて」と言った。
「洗濯して返すよ」
建物の中は、ポップコーンや絨毯など、映画館独特の匂いが、心地よい冷気と共に待っていた。気持ちいい。一面に広がるカーペットの上でゴロゴロと寝転がってみたいものだ。それにしても、映画館はどこも必ず床がカーペットになっているのはなぜだろうか。カーペットは普通の床より音を吸収するとか? 上映中、トイレに行く人の足音を最小限に抑えるためとか?
チケットによると、映画は『十二番シアター』となっていた。どうやらもう中に入れるみたいで、シアター入り口で列ができている。
「俺、トイレ近いし、あまり映画館では飲み食いしないタイプなんだけど、セラはなにか売店で買う?」
「大丈夫かな。じゃじゃ、早く行こう!」
「おう、そんなに映画楽しみなの」
「当たり前じゃん! 私が見たかったやつだから!」
列に並び、シアターに入ろうというときだった。
携帯のバイブが鳴った。おじいちゃんからの電話だった。
おじいちゃんから電話をかけてくるのは半年に一度か二度くらい。なにか大事なことがあるときしかかけてこない。そんなおじいちゃんからの電話をでないわけにはいかない。
「もしもし、おじいちゃん?」
「シュウか?」
「うん」
「いまどこにいる?」
「友達と映画館だけど」
「そうか。ほんと、楽しんでるときに邪魔して悪いな。シュウに伝えないといけないことがあるんだ」
「なに?」
「いまさっき、病院から電話があってな、晴香ちゃんが亡くなった」
「え」
衝撃で世界が静かになった。館内で流れる映画のコマーシャルも、人々の話し声も、雑音もすべての音が、その衝撃によって吹き飛んでしまった。首筋を流れる血液だろうか。じわじわとした音が耳栓の役割を果たしているようだ。
キーンと高い耳鳴りがしたとたん、目の前が真っ白になった。映画館にいるはずなのに、なにも見えない。どこも見てない。突然、雲の上の遥か上空から落とされたかのように、心臓が宙に浮く感覚がした。このままどこまでも落ち続けるのだろうか。現実世界からどんどん離れていく。
俺はこのまま落ち続け、地獄に達してしまうのだろうか。
「どうしたの?」
セラの呼びかけで、俺は上空の世界から映画館に戻ってくることができた。
「あ、いや……」
電話口で、おじいちゃんが続けて言った。
「今から電車で病院に向かいなさい。私も車で病院に向かうから」
「わかった」
耳元からスマホを下ろした。きっと俺の表情から、セラはなにかを悟ったのだろうか、真剣な面持ちで、映画の広告を眺めている。
「ごめん……晴香が亡くなったみたいでな……」
セラの顔を見ることはできなかった。だから彼女がどんな表情かはわからない。
「うそ……」
「ごめんな」
「なんで謝るの?」
「俺、今から病院に行くけど、セラは一人で映画見ていくか?」
「そんなわけないでしょ。私は帰るよ。映画はまた二人で来ればいいしね。それよりも、早く晴香ちゃんの顔を見てあげて」
映画館を出ると、セミのうるさい鳴き声と共に、苦しいくらいの熱風が体を撫でた。
この熱が、心の底にあったある感情に火を灯した。煮えたぎるドロドロとした感情。
それが胸の内から徐々に上ってきて、ついに、口で吐き出してしまいたくなった。
バス停に向かう道中、隣ではセラが黙々と歩いている。きっと彼女なら、という思いで俺は話すことにした。
「実はね、晴香はずっと弱ってたんだ」
「そうなんだ」
「ペルディアと日本の戦闘に巻き込まれちゃってな……結局父さんも、母さんも、妹も、みんなペルディア人に殺されちゃったよ」
「……」
「あまり、感じてなかったけど。今ははっきりとわかったんだ」
「なにが?」
「この世にいるペルディア人は全員死んじまえって。心の底から憎いんだ。ペルディア人が。あいつらが本当に俺たちと同じ人間なのか? 俺はそうとは思えないよ。あいつらは、悪魔よりもたちが悪い」
「うん」
「その……急に愚痴っちゃってごめんね。それに嘘ついてて」
「大丈夫だし、いいんだよ。たまにはね」
俺を慰める声は、暖かさと悲しさを含んでいた。地面からセラへと、視線を変えると笑みを浮かべた。いつものセラと異なった、暖かさと悲しさを含んだ、複雑なものがそこにあった。
駅に着いた。俺は上り電車で病院に向かい、セラは下り電車で家へ帰ることになった。
別れ際、俺はもう一度セラに謝ることにした。
「本当にごめんね。今度は絶対、映画みよう」
「もちろん、いつでも誘ってね!」
「そうだ。そろそろ夏休みに入るけど、そこでまた遊ばない?」
「いいよ。でも、もしかしたら忙しくなるかもしれないけど」
下り電車が、高く滑らかなモーター音と共にホームにやってきた。圧縮した空気が放出されと同時にドアが開く。セラは電車に乗り込むと、
「じゃあ、またね」と微笑んだ。